PURSUE ULTIMATE FACTS

2018-05-19
谋生与探寻

 仕事を終えて、じっくりと反省する。一日が終わって、その一日を振り返って反省する。すると、自分や他人のアラが目について、ついにはウツになる。自分のだめさにも怒りを感じ、あいつは憎たらしいと思ったりする。たいていは、不快で暗い結果にたどりつく。
 なぜかというと、冷静に反省したりしたからなどでは決してない。単に疲れているからだ。疲れきったときにする反省など、すべてウツへの落とし穴でしかない。疲れているときは反省をしたり、振り返ったり、ましてや日記など書くべきではない。
 活発に活動しているとき、何かに夢中になって打ち込んでいるとき、楽しんでいるとき、反省したり、振り返って考えたりはしない。だから、自分をだめだと思ったり人に対して憎しみを覚えたりしたときは、疲れている証拠だ。そういうときはさっさと自分を休ませなければいけない。

ーー『曙光』


会社・賞与・評価を目指す人生より、会社・賞与・評価を諦める人生のほうがハッピーでしょう?

会社を諦めろう
何時も評価が悪く、努力しても、努力しなくても、評価が同じです。だから、会社を諦めろう。
今は、5年が経過し、約束を守ったので、離別する時が来ました。


探索与调研

2021.11.20

  • 暫く帰化を諦めろう
  • 暫く研究のアルバイトを諦めろう

寻找脑科学研究所的临时工作机会:

  • offline => CAO (Centralized Autonomous Organization)

  • online => DAO (Decentralized Autonomous Organization)

  • 签证的情况

    • 日本籍
      • 成本
        • 争取周一到周五能申请一天业余时间
        • 简历、面试
        • 最快一年获得永住权
      • 收益
        • 每周有一天时间学习
          • 神经科学和分子生物学
          • 机器学习和计算神经科学
        • 一年后,周一到周五去研究室
    • 永住
      • 成本
        • 简历、技术面试
          • 争取周一到周五能申请一天业余时间
        • 日语考试
        • 最快两年获得永住权
      • 收益
        • 金钱积累
        • 每周有一天时间学习
          • 神经科学和分子生物学
          • 机器学习和计算神经科学
        • 两年后,周一到周五去研究室
    • 高度专门职 1号 / 2号
      • 成本
        • 简历、技术面试
          • 争取周一到周五能申请一天业余时间
        • 最快四年获得永住权
      • 收益
        • 金钱积累
        • 每周有一天时间学习
          • 神经科学和分子生物学
          • 机器学习和计算神经科学
        • 四年后,周一到周五去研究室
      • 自己申告交税
    • 技术就劳签证
      • 成本
        • 争取周一到周五能申请一天业余时间
        • 最快五年获得永住权
      • 收益
        • 每周有一天时间学习
          • 神经科学和分子生物学
          • 机器学习和计算神经科学
        • 五年后,周一到周五去研究室
      • 获得公司的许可
        • 向出入国管理局申请「资格外活动许可」
        • 公司代理申告交税
      • 无法获得公司的许可
        • 争取在研究室访问见学的机会
        • 争取作为志愿者无偿工作

我们的道路

  • 未知的恐惧;探索的欲望。
  • 失败的恐惧;尝试的欲望。

  在现在的日本电商公司,每天面对一堆垃圾代码,进行着一些普通单调没有什么大的价值的日常作业。写着玩具一般的代码,还要做一些繁琐冗长的测试记录。我感觉我整个人都在堕落退化。目前打算现在这种状态还要持续一年左右。

  周末的时候,得去自己做一些探索。找准方向为未来做一些准备。尽力提早转入一些更具有创造性的工作就好了。

  https://webvr.info


  2019年4月之后,我开始尝试着在公司之内追求真实。一年之后,放弃尝试。在公司之内所能追求的真实无法超出当代世俗以外。

  一种的生活方式:

  • 在体制之内,转向“当代世俗”。
  • 在体制之外,转回“终极真实”。
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2018-03-27
学習進捗

ファッション用語:ア行


アメカジ アメリカン・カジュアル(American Casual)を短縮して呼ぶ日本語の造語である。
アメリカの大学生を手本にしたカジュアル・ファッションスタイルをいう。活動的で清潔感があり、学生らしさを感じさせるスタイルが源流となっている。ワークミリタリー、ウエスタン等多数の系統があるけれど、本来非常にベーシックでかつシンプル。スタンダードで着まわしのきくアイテムが多いので、買い足して長く着られ、また価格的にも値ごろ感のあるスタイルが人気。ベーシックなスタイルに生地や飾りなどでねりをきかせたものが多い。

アーガイル 特徴はダイヤモンド型(ひし形)の格子を横と縦に並べた模様や細いラインと菱型を組み合わせた格子模様。セーターや靴下のアクセント模様に使われている事が多い。

アウター 外の、外部の、という意味で外側に着る服の総称です。コート、ジャケットなどそれにあたります。

アンサンブル 「一緒にとか、共に、統一」の意味でファッションでは共地で作ったドレスとジャケットや、または同じ生地の服がセットになっているものを言います。

イージーパンツ その名の通り楽なパンツのことで、ウエスト部分にはゴムやヒモで締めるものが多く、柔らかい素材で作られています。
部屋着として穿く事が多いですが、最近ではオシャレアイテムとして着こなすようになっています。

市松模様 二色の正方形を交互に配置した格子模様です。チェス盤の配色が例えです。

インナー 内の、内部の、という意味で下着類の総称名です。ここではアウターの内側に着る服でカットソー、Tシャツなどを指します。

インディゴ ジーンズや藍染の染料で、南インドの植物インディゴが原産。世界でデニムの染料として使われています、独特の風合いで人気アイテム。昔はこの染料は虫除けとして使われてたらしいです

ウエスタンシャツ アメリカ西部でカーボーイが着ていたワークシャツです。アメカジファッションを代表するアイテムのひとつです。

ウール ウールは自然の恵みをたっぷりもって生まれた天然繊維。繊維自体が呼吸していたり、湿気などをうまく調節する機能をもっています。保湿性や保温性にも優れている。
一般的にウールとは羊毛で品質マークでウールマークがあります。

エスニック 民族的と言う意味で、伝統的なスタイル的なこと。キリスト教圏外の民俗ファッションの事を一般に指し、伝統的な模様や色のデザイン。ファッションだけでなく、インテリアとかにも取り入れられている。

エンボス加工 アクセサリーや革アイテムなどに凹凸模様をつけていることを言います。

オーセンティック 本物の、正統的であるさまの意味。例えばスポーツ選手のレプリカアイテムではなく、実際に選手が試合で使用しているアイテムを言う。

オールドウォッシュ デニムジーンズのユーズド加工の一種で薬品を使用して色落ちさせたパンツです。

オートミール 食事のオートミール風の色あい。

ファッション用語:カ行


カジュアル 普段着を指す意味で、フォーマルファッションの反対語。堅苦しくない雰囲気をかもしだすファッション。

カシミア 優れた品質と少ない生産量の超高級品ウール繊維。カシミア山羊の毛で細く柔らかい毛質で風合いも肌触りもよく大人気繊維♪
カシミア風の類似品が普及しているが本物の品質にはまったく及ばず。

カーゴパンツ 貨物船で作業員用のズボン。生地の厚い丈夫な綿で作られていて、作業中にしゃがんだ時にも道具を出し易いようにひざ上の左右にポケットがあるのが特徴です。

カットオフ 長いパンツを途中で切り、裾の切り口の糸は垂らした状態のデザインです。デニムのハーフパンツなどに使われおりワイルドなスタイルを演出しています。

カシュクール 巻きつけるタイプのブラウス・シャツで、胸あたりを隠すような着物を打合せたデザイン。包むと言う意味でラップブラウスとも最近で言います。

カーディガン 衿のないジャケットタイプのセーター。長袖が一般的で半袖タイプもあり、袖のないのがベストと言います。

カットソー カット&ソー(Cut<裁断>&Sewn<縫製>)して作られる衣服の総称。主にTシャツ、スウェットでインナーやアウターとして着こなせるセオリーアイテム。

カーキ オリーブ色を濃くした色。茶色がかった黄色。

生成り 生地のままの状態で糸や布地の漂白、染色等の加工処理されたものです。またはそのような色に加工したものが生成り色。

キルティング 防寒、保温目的で、2枚の布の間に綿や毛をはさみ、ステッチしたもの。そのステッチした際に装飾的に作られたのがキルティングです。

キャンバス地 昆織で丈夫な厚手の粗布ことです。衣服の生地でも使われていて、ほかにもシューズやバッグ、テントなどにも使用されています。

ギンガムチェック シンプルな格子柄で、縦横一定間隔で白色と他の色の2色で組み合わせた柄です。

クレリックシャツ 万能ドレスシャツ。衿と袖を白い生地に切り替えをしてるシャツ。クレリックの意味は牧師・聖職者の意味で、牧師さん達の衿が白かったからそう呼ばれるようになったとも言われてます。

クルーネック 首元のラインの事で、丸く詰まった丸首型のラインです。クルー=船員が着るセーターからその名前がつきました。

ケミカルウォッシュ デニム地をユーズド風に色落ちさせる方法のひとつです。漂白剤等の化学反応によって色落ちさせます。80年代に大流行したデニムでもあります。

コ-ディネ-ト 2アイテム以上を組み合わせ調和させてまとめこと。ファッションではアウター、ボトムス、アクセなどを上手にコーディネートするにはセンスと経験が必要されますよね。

コート アウターの総称名で、一番外側に羽織る衣服。昔の人はオーバーと呼んでました。膝まで長さがあるのがロングコートで太ももでの長さがハーフ、腰丈までがショートコートと言います。

コーデュロイ 木綿地で特殊な加工よって織られた織物。ベッチンと同じ織り方だが縦うね特徴で保温効果もあります。

コットン 繊維の種類のひとつで木綿や綿花の事です。

ファッション用語:サ行


差し色 コーディネートをする際に基本色にアクセントとなる色のアイテムを付け加えることを言います。例えとして全体的に淡い色のコーディネートに赤いスカーフやベルトなどを身につけること。

サスペンダー パンツやスカートを肩から吊るす為のベルトです。フォーマルスタイルの時にパンツをサスペンダーで吊るすと綺麗に着こなせるとも言われています。

サックスブルー インディゴを有機溶剤で溶いた染料です。淡い紫みの青色。

サテン 光沢のある生地。朱子織で糸の交差を少なくして糸を浮かして織って光沢をだしています。

ジャケット 昔で言うとジャンパー一般的にウエスト丈までの長さだが、最近ではライダース、コート、ダウン等、アウターの総称名となっています。

シャーリング 適度な間隔をあけて糸で布地を引っ張りながら縫い縮めて布地にひだをつけることです。

ジップアップ ファスナー式で、ボタンの代わりにチャックで開閉できることです。

ジレ フランス語でベストのことです。またカーディガンとも言います。

ジージャン 定番アイテムのジーンズジャンパーのこと。デニム素材のジャケットです。

七分袖・七分丈 10分の7の長さのこと。
Tシャツやパンツの衣類に多くみられる。

ステッチ 簡単に言うと糸の編み目や縫い目です。装飾性をもたすために糸の色や素材、太さや細さを使い分ける。

スエード なめした革の裏面をサンドペーパーで磨いてケバ立たせたもの。
ソフトでさわり心地いいのが上質と言います。

スキッパー ボタンのないポロシャツです。
ストール

セニック・プリント 風景画をモチーフとしたプリント柄の事です。都会・田園風景などがあります。

染色 染料とうで繊維に色をつける事です。科学の力で水に溶ける性質を失って色落ちしなくなります。

ファッション用語:タ行


ダブルブレスト 洋服で前の重なり部分が多く、ボタンが2列並んでいるジャケットやコート。

タートルネック タートル=亀の甲羅から首を出している姿からそう呼ばれるようになりました。主に衿を二重に折り返したネックラインです。

ダッフルコート トグルボタン(留め木)でとめる厚手のフード付きコート。ちなみに漁師さんが防寒着として着ていて手袋をしたまま前ボタンを外せるようにする為したり、モコモコの厚手なのは海に落ちた時に浮くようにしているらしい。

ダンガリーシャツ デニム生地の一種の素材で名前の由来は西インドにあるダングリという地名から来ています。織り方がデニムと逆になっているのでデニムよりも白っぽく見えるのがダンガリー生地の特徴みたいです。丈夫でワークシャツとしても使われています。

チャコールグレー チャコール=木炭という意味で限りなく黒色に近い灰色です。

ツイード スコットランド産羊毛を平織りした織物です。素朴な味わいのある厚手の生地で耐久性や保温性にも優れています。ジャケットやコートなどに使われていますね。

デニム ジーンズパンツになどに使われているデニム素材です。ヨーロッパで生まれた素材でアメリカのリーヴァイスさんが作ったのがジーンズです。
主に10番手以上の縦糸、横糸に加工していない糸で綾織りしたのがデニム生地です。よくジーンズでオンスで表記されてますが、重さのことで1オンスは約28gぐらいで14オンス前後でジーンズに使用されています。

テーラードジャケット テーラー=仕立て人という意味で、紳士服仕立された上着。素材・仕立て方などがしっかりしていて丈夫でオシャレなジャケットです。今じゃ、マストアイテムとなっていますね。

トレンチコート もとは、軍人のレインコートだったらしい。機能性、デザイン性にすぐれていたので俳優が映画で着用したことから現在の人気コートとなりました。

ドレープ 布をたらしたときに出る、たるみやヒダでエレガントさをだすディテールです。最近ではキレカジ系などでドレープ仕様のカットソーがあります。

ファッション用語:ナ行


ナロー 狭いという意味です。細見のファッションでスリムなパンツや、ナロータイとなど剣先幅9センチのところ6センチなどがあります。

ナイロン 合成繊維の一種。生糸によく似た光沢で、非常に優れた耐久性をもっています。靴下やストッキングによく用いらている素材ですね。

ニット 主に編み物のことで、伸縮性があり体にフィットするアイテムが多いです。

ヌバック 革の銀面(真皮層の表面)を摩擦し滑らかに起毛したもので、高級バッグなどに使用されています。スエードとの違いは革の裏側を起毛せていてヌバックのほうが毛足は短いです。

ネルシャツ フランネル=柔らかい毛織物のことで略してネルと言います。
表面を起毛していて質感・肌ざわり感いいです。アメカジファッションのアイテムのひとつで定番人気♪

ネックレス 簡単に言うと、首飾り!たまにペンダントと言いますが、ペンダントは装飾部分のことを指します。

ノルディック柄 ニットによく使われる柄模様。もともとはノルウェーの伝統模様で点描柄や雪の結晶柄が代表的です。アメカジスタイルのニットセーターとしてもよく使われています。

ノースリーブ 和製英語で袖がない服、袖丈がない服の総称です。

ファッション用語:ハ行


バギーパンツ バギー=ぶかぶかの の意味です。股上が深くてヒップから裾にかけてふくらんだパンツのことです。

ハイネック 衿が首に沿って高く(長く)なったもの。タートルネックと違いは衿を折り返していないことです

パーカー 総称名でフード(頭と首を覆う頭巾)がついた服のことです。
またはフーデッドパーカーとも言います。

ハーフパンツ 半ズボン状のことで丈が膝までの事を言います。

ハンパ袖 七分袖より長かったり、短かったりする袖丈のことです。

ビンテージ 古くて価値のあるアイテム。ジーンズなどの年代物のこともいいます。最近ではビンテージ風やビンテージ加工といった技法を施した衣服も出ており、古着などのアメカジスタイルに活用されています。

ピーコート 由来は水兵が着ていたコートです。スタイルはダブルの打ち合わせで腰丈のショート、縦に切り込んだポケットが特徴です。

ブーツ 靴の総称名で、履き口がくるぶしより上に長いことを言います。ワークブーツやエンジニアブーツなどがあります。

フェイクファー 毛皮に似せて作った物です。化学繊維で作った物が多く羊毛、絹なども使われます。最近では忠実に再現されており安いのに本物みたい!です。ちなみに本物はリアルファー

プルオーバー 前にも後ろにもボタンやZIPがなく頭から着る服のことを言います。

ブルゾン もともとはフランス語で、丈の短いジャケットで、また腰や裾を絞れる服のことを言います。

ベスト 昔でいうチョッキです(笑)
スーツの下に着る袖のない服で、ジレとも言います。

ヘリンボーン へリング=魚のニシン ボーン=骨その骨のような織り模様で、または杉模様です。

ベルベット パイル織物で表面に羽毛が織りだされ光沢がある布地です。
またの名をビロード。綿を素材にした場合は「別珍(べっちん)」です。

ヘンリーシャツ ラウンドネック(丸いネックライン)で前正面に胸あたりまでのあきを作り、ボタンで留めたりヒモで結んだりできる首まわりのデザインでプルオーバーなったのを指します。

ベロア ベルベットとほぼ同じといってもいいかもしれません。ベロアの方が毛足が長いです。ベルベットは織物系でベロアは編み物系です。

ボトム 衣類の総称名で下半身に着るパンツやズボン、スカートのことを言います。

ボストンバッグ 定番アイテムのひとつで、底が広くてファスナーで開閉するバッグです。普段使いから旅行用サイズまで幅広くあり素材も多様にあります。もともとはボストン大学の学生たちが使っていたのでこの名前がつきました。

ポリウレタン 弾性繊維と言いい伸縮性のある繊維です。たまにジーンズとかに織り交ぜ伸縮性を持たしているものもあります。

ポリエステル ナイロンと同じく合成繊維でナイロンに次ぐ強度持っています。

ポロシャツ ポロ競技で着用されていたユニフォームシャツのこと。
デザインはプルオーバーで衿開きでボタンが3ヶ所あるのが一般的です。

ファッション用語:マ行


マドラスチェック インドの港町マドラスから発祥しで、グリーンやオレンジ、イエローなどビビッドカラーを不揃いに並べたチェック柄です。

前立て 前側のうちボタンで合わせる細長い布のこと。二重にしてボタンを隠したりする

マフラー 防寒アイテムのひとつで主に長方形のカシミヤやウールとうのニットを首元に巻きつけます。オシャレのワンポイントに大活躍ですね。また首を温めることによって防寒対策にかなり優れています。

ミリタリー 軍隊の意味で、軍服デザインを取り入れたスタイルを言います。
大流行したM-65などがそのひとつです。ほとんどがレプリカ品で本物はビンテージ品扱いでプレミアムがついています。

モノトーン モノ=1の意味でモノクロームトーンの略。
単一色・白黒、グレーなどの無彩色の調子をいいます。

メッシュ 網目という意味です。ファッションでは衣服の色んな部分に使われていて、通気性はもちろんデザイン性にもアクセントとして用いられています。

モヘア 本来はアンゴラ山羊やそれに似たアンゴラ兎らの毛で織った物の別名です。ファッションでは素材に限定せず毛の太さ、長さ、柔らかさ、光沢が類似した毛をさし、その毛で織った物もモヘアといいます。フリースやカーペットととしても使われていますね。

ファッション用語:ヤ行


ユニセックス 男女の区別がなく男女兼用で着れることができる衣服やファッションスタイルのことです。ちなみにユニとは「同一の」という意味。

ファッション用語:ラ行


ライダースジャケット ハーレーダビッドソン等のバイクに乗る時に着用するジャケットの総称名です。デザインは主に革製でダブルブレストよ言うボタンが2列並んでいる前打ち合わせとなっているショートジャケットです。

リブ編 編み方の方法で横編みの一種です。表目と裏目が交互に並び、リブ(ろっ骨)のように見えるのでこの名前がつきました。ニットの袖口やソックスに使われていてデザイン性だけでなく伸縮性のある実用的な編み方です。

リネン生地 麻布の一種で亜麻(あま)のことを指します。またリンネルとも呼びます。

立体裁断 人の体の形に合わせるようにして生地を立体的に裁断する方法。
生地を立体的に裁断することで、服が体にフィットし動きやすく、シルエットもカッコいいです。

レイヤード 重ね着ファッションのことを言います。ロンTの上にTシャツ重ねて着たり、シャツの上にシャツを重ねたりとキメるとセンスが良いと周りから一目おかれます♪最近ではレイヤード風に最初から作られているデザインもあります。

レーヨン 化学繊維の一種で木材パルプを原料で絹に似せて作った再生繊維のことです。絹に似た光沢や手触りが特徴です。

ロールアップ パンツの裾やシャツの袖を巻き上げて着るスタイルのことです。機能的にボタンや布テープで裾や袖をずり落ちてこないようにしていて、デザイン面でも軽快なイメージを演出をできます。

ファッション用語:ワ行


ワークパンツ 作業ズボンのことです。現在ではミリタリー系、アーミー系等、丈夫な素材で機能ポケットがついているオシャレにしたパンツがあります。ぺインターパンツやカーゴパンツなどもワークパンツのカテゴリーですね。

ワークシャツ 作業用のシャツのことですが、現在では仕事着や作業着などのデザインを取り入れたファッショナブルなスタイルのシャツです。
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2018-03-18
葉隠れ聞き書き

罪与罚。陀斯妥耶夫斯基。这念头倏然间掠过了我大脑的某个角落,使我大吃一惊。倘若那个陀斯妥耶夫斯基不是把罪与罚作为同义词,而是作为反义词并列在一切的话,那么……罪与罚,绝无相通之处的两样东西,水火不相容的两样东西。把罪与罚作为反义词的陀氏,他笔下的绿藻,腐烂的水池、一团乱麻的内心世界……我开始明白了,不,还没有……这一个个念头如走马灯一般闪过我的脑海。
ーー《人间失格》

还在回味《人间失格》,我才发觉我仍然是狂人。但若是一位正常人走过来说:让我来治愈你,我肯定怒目圆瞪:你也敢厚着脸皮这么说,你已经失去了治愈者的资格。我觉得这么想狂人心里都会好受一点吧。


盐是好的;但盐若成了不咸的,要用什么来调味呢?应当有盐在你们中间;应当彼此和睦。
(马可福音 9:50 吕振中)

我过的是一种充满耻辱的生活。人们常常会感到被我所冒犯。其中佛教徒对待我可能是最宽容的。但恰恰是这种毫无原则,我不能认同。当然不排除一些佛教激进分子可能会诅咒我。无宗教信仰者认为我是基督教徒、基督徒。常常表露出厌恶和鄙视的态度。认为我是神经病智障。基督教徒认为我是异端邪教分子。基督徒则认为我是鬼附的罪人。我的生命安全一直处在穆斯林原教旨主义恐怖分子的威胁之中。所幸的是,他们并不认识我。

如果存在生命这种东西,佛教恰恰是敌视生命的。他们不喜欢热闹,而喜欢安静。不喜欢生机,而喜欢死寂。


太宰治是一位软弱的基督教徒。他一生尝试殉情好几次。最后一次,虽然有些不情愿,还是被他的情侣拖下河溺死了。

三岛由纪夫本来很厌恶太宰治,看到他死成了,说:「一对情侣双双赴死很美,不是吗?」三岛由纪夫很喜欢暴力美学。后来为了守住日本的传统,剖腹自杀了。


武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。
ーー《葉隠聞書》

武士道者,即发现死之存在。


第二,武士道即归死,除此之外别无他指。武士于生死存亡之际,应先选择概然赴死。武士应心怀必死之觉悟,勇往直前。所谓“目标落空,徒然丧命”,仅为上方一带武士道的浅薄之见。生死抉择之间,难以预料凡事能否如期进行。人皆有求生之心,总会找到理由选择继续生存下去。在此种情形下,如若目标落空却仍苟且苟活于世,则为愚夫。其界限至难把握。倘若目标并未达成而自身赴死,则为痴狂之为,死无所值。然此为武士道之要义,非草夫也。武士应朝每夕端正心志,思索死亡之真谛,选择直面死亡,时刻保持概然赴死之心。此时武士道与自身二为一,便可终生远离失败,忠于职务。
第三,奉公之人须始终将主公之事置于首位,如此才为合格家臣。武士生长于世代清誉的主公家中,自祖上以来一直秉蒙深厚恩德。须将此点时刻铭记于心,全心全意身心投入,视主君为天,始终忠心不改。倘若智慧超群,技艺过人,能够以己之力报效主君,则更值庆幸。然即便身无长处,行事古板,只须忠心耿耿,便可成为深得倚赖的家臣,其价值甚于仅用智慧与技艺效忠者。
第四,世人有生来聪慧善谋者,亦有思虑不缜而用心端正者。究其根源,人与生俱来的智慧多少有异,即便如此,凡事若能除去己私心,依凭四弘誓愿来考谋思量,意料之外的智慧便会喷涌而至。世人皆认为只要用心思虑,便会对未来之事掌握颇多。然而凡考虑问题之初或常出自私心,因此会闭于人性之恶,使一切最终成为恶事。俗人常有己私心,甚难除却。成大事之际,须事先在心中默请四大誓愿,努力去除私心,便会避免铸成大错。
ーー《叶隐闻书》[日]山本常朝、田代阵基/赵秀娟

人赢得全世界,而赔上了自己的性命,有什么益处呢?人能拿出什么来对换自己的性命呢?
(马可福音 8:36-37 吕振中)

这能死的既穿上了不死,那时经上所记:『死被吞灭在胜利中』的话便应验了。死啊!你的胜利在哪里?死啊!你的毒刺在哪里?死的毒刺就是罪,罪的势力就是律法。愿感谢归于上帝,他借着我们的主耶稣基督、常把胜利赐给我们。所以我亲爱的弟兄们,你们要坚定、不摇动,时常充溢出主的工,因为知道你们的劳苦在主里面不是空的。
(哥林多前书 15:54-58 吕振中)


《叶隐》和《圣经》的对比研究让我想到死亡的意义性的问题:在何种情境下,死亡能够成为有意义的?对比三岛之死与耶稣之死,我首先发现自杀与他杀的形式之别。但是,我认为这种形式之别并不能从本质上解释死亡的意义感之源。自杀在基督教中一直以来是处于被诅咒的地位。自杀者在旁人眼中往往不可摆脱其软弱逃避的嫌疑。从这点看来,他杀倒是具有避嫌的优点。可是,任何纯粹的他杀,因为死者的无目的性,而就不可能成为有意义的死。原因在于,没有了目的也就没有了值得称道的东西。因此,我们可以看出任何有意义的死必定含有某种自杀的成分。死者在生前必定充分意识到死的目的。这实际上是一种隐秘的自杀。综上所述,自杀与他杀的外在形式之差别并不能从本质上赋予死亡以意义。进一步说来:死亡毕竟是负面损失性的东西。然而,意义却是从正面收获性的东西而来的。我认为,死者在临死之时所抱持的希望和勇气才是真正赋予死亡以意义的东西。希望正是这样一种对于能够有所获得给予的坚信。正是这种正面收获性的东西赋予了死亡以意义。三岛之死充满勇气可是却较为缺乏希望。较之于三岛之死,耶稣是抱持着希望赴死的。这也是耶稣之「死被吞灭在胜利中」所散发出来的强而有力的力量之源头。


《EVA》整个系列突出呈现宗教象征和主题(英语:Religious symbol),包括卡巴拉、基督教、犹太教以及神道教意象,被誉为20世纪90年代最成功和最负盛名的日本动画之一。动画业界和许多动漫欣赏者也将其视为日本最伟大的动画之一。《EVA》同样也是最受争议的电视动画之一,尤其是该剧最后两集的结局被许多观众和评论家认为混乱和难以理解。其同时混搭批判和机甲风格的解构,使得系列成为一种文化象征,并带来动漫产业的艺术和技术的复兴。动画中的人物、音乐和部分场景已被日本民众所广泛认可。
--「新世纪福音战士 - 维基百科

背景设定在炼金术相当发达的世界。爱德华·爱力克和他的弟弟阿尔冯斯十分思念亡故的母亲,为了再次见到母亲的微笑,而进行炼金术中最大的禁忌“人体炼成”──亦即让死者复活的炼成术──可是炼成失败时的反弹效应,爱德华付出“代价”左脚、阿尔则失去全身。为救回弟弟,爱德牺牲自己的右臂作为代价,将弟弟的灵魂固定在一副铠甲上;而失去的右臂和左腿则由钢制义肢“机械铠”来替代,因此在取得国家炼金术师资格时、大总统给予“钢”的称号,人们称之为“钢之炼金术师”。大陆历(相当于公历)1911年,爱力克兄弟为取回他们所失去的一切,开始踏上了旅程。
--「钢之炼金术师 - 维基百科

原作の公式設定では、2003年4月7日がアトムの誕生日とされる。製作者は天馬博士。交通事故死した博士の息子の「天馬飛雄」に似せて作られ、当初は「トビオ」と呼ばれていた。トビオは、人間とほぼ同等の感情と様々な能力を持つ優秀なロボットであったが、人間のように成長しないことに気づいた天馬博士はトビオをサーカスに売ってしまう。サーカスにおいて団長に「アトム」と名付けられる。やがて法律が制定されて感情を持つロボットに対して人間と同等に暮らす権利が与えられるようになると、アトムの可能性に着目していたお茶の水博士に引き取られた。


アニメ第3作では天馬博士が自分の分身として作ったロボット・シャドウにより造られた。
--「鉄腕アトム - Wikipedia

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2017-09-30
爱的吸引


记得我曾年少懵懂,主耶稣,你忽显现。


我被震惊并深受吸引,就愿来跟随你。


虽然途中起伏迷离,常非我心所愿意。


爱中我灵深信前面道路,主,为我定意。


主,我深爱你,爱你因你爱我。


再多困难困苦,我愿意,都是你爱的吸引。



主耶穌,你是我至愛,
我全心歸你不他依;
天地間有何能與你比擬?
神而人者,你最美麗!
真渴望消失在你裏,
當你柔聲入我心底;
前我所眷戀,今歡然撇棄,
只願愛你─全心全意。


世上有誰像你如此美麗?
人間有何與你愛情能比?
哦,聖中之聖,你竟住我裏;
主耶穌,我深深愛你!
不願再受欺,不願再任意;
惟願脫自己,只被你充溢;
你以外,哦,讓一切都絕跡;
我惟一的最愛是你。


主耶穌,你是我至愛,
雖我曾頑梗又悖逆,
今放下一切,你前來侍立,
只願像你那樣無己。
真渴望活著就是你,
順從神旨,不憑己意;
與你心合拍,只要你所喜;
掙扎全停,盡是安息。


世上有誰像你如此美麗?
人間有何與你愛情能比?
哦,聖中之聖,你竟住我裏;
主耶穌,我深深愛你!
不願再受欺,不願再任意;
惟願脫自己,只被你充溢;
你以外,哦,讓一切都絕跡;
我惟一的最愛是你。


主耶穌,你是我至愛,
你與我永遠不分離;
你同在是我氣息、
我動力,你的笑臉是我欣喜。
真渴望你前吐心意,
愛你、事你,聯結依依;
親愛主,我的永分就是你,
你的來臨是我所期。


世上有誰像你如此美麗?
人間有何與你愛情能比?
哦,聖中之聖,你竟住我裏;
主耶穌,我深深愛你!
不願再受欺,不願再任意;
惟願脫自己,只被你充溢;
你以外,哦,讓一切都絕跡;
我惟一的最愛是你。


ーー《惟一最愛是你》 - 水流之音・聖樂團


雅各啊,你为什么说:
『我的路隐藏着、永恒主见不着』?
以色列啊,你为什么说:
『我伸冤的权利、我的上帝都忽略了』?
你不曾知道,不曾看见么?
永恒的上帝永恒之主、
创造地之尽边的、
他并不疲乏,也不困倦;
他的明智不可测度。
疲乏的、他赐能力;
无气力的、他给增加力量。
就是少年人也会疲乏困倦,
强壮人也会力尽而倒地;
但那等候永恒主的、必从新得力;
他们必如鹰展翅上腾;
他们奔跑,也不困倦,
他们行走,也不疲乏。
(以赛亚书 40:27-31 吕振中)



When I am down and, oh my soul, so weary;
When troubles come and my heart burdened be;
Then, I am still and wait here in the silence,
Until you come and sit awhile with me.


You raise me up, so I can stand on mountains;
You raise me up, to walk on stormy seas;
I am strong, when I am on your shoulders;
You raise me up… To more than I can be.


You raise me up, so I can stand on mountains;
You raise me up, to walk on stormy seas;
I am strong, when I am on your shoulders;
You raise me up… To more than I can be.


There is no life - no life without its hunger;
Each restless heart beats so imperfectly;
But when you come and I am filled with wonder,
Sometimes, I think I glimpse eternity.


You raise me up, so I can stand on mountains;
You raise me up, to walk on stormy seas;
I am strong, when I am on your shoulders;
You raise me up… To more than I can be.


You raise me up, so I can stand on mountains;
You raise me up, to walk on stormy seas;
I am strong, when I am on your shoulders;
You raise me up… To more than I can be.


You raise me up… To more than I can be.


ーー “You Raise Me Up” Lyrics



永恒主啊,我的心仰望的是你。
我的上帝啊,我倚靠的是你;
不要叫我失望哦;
不要使我仇敌因胜我而欢跃。
凡等候你的总不至于失望;
失望的只是行诡诈而失败的人。
(诗篇 25:1-3 吕振中)

永恒主啊,将你的道路指示我,
将你的路径教导我。
凭你的忠信来带领我,教导我;
因为只有你是拯救我、的上帝;
我终日切候的乃是你。
(诗篇 25:4-5 吕振中)

永恒主啊,记起你的怜悯
和坚爱哦;
因为这是亘古以来就有的。
我幼年的罪求你不要记得。
我惟独求你按你的坚爱来记起我:
永恒主啊,为了你的慈惠记起我吧!
(诗篇 25:6-7 吕振中)

永恒主是至善而正直;
所以他必指教罪人走正路。
他必带领卑微人行正义;
将他的道路教导卑微人。
对恪守他的约和他法度的人、
永恒主所行的全是坚爱和忠信。
(诗篇 25:8-10 吕振中)

永恒主啊,为你名的缘故
赦免我的罪愆哦,
因为我的罪很大。
谁是敬畏永恒主的人?
永恒主就将他当选择的路指教他。
他本身必长享福乐;
他的后裔必拥有地土。
永恒主跟敬畏他的人亲密;
他使他们认识他的约。
(诗篇 25:11-14 吕振中)

我的眼不断地望着永恒主,
因为他才能将我的脚拔出网罗。
求你转脸顾着我,恩待我;
因为我、孤独困苦。
我的心困窘、求你放宽,
我的窘迫、求你救我脱出。
看我的困苦和艰难,
赦免我一切的罪。
(诗篇 25:15-18 吕振中)

看我的仇敌多么多,
看他们以多暴烈的怨恨来恨恶我。
求你保护我的性命,援救我,
不要叫我失望,因为我避难于你里面。
愿纯全正直守护着我,
因为我切候着你。
(诗篇 25:19-21 吕振中)

上帝啊,赎救以色列
脱离他一切的困窘哦!
(诗篇 25:22 吕振中)

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2017-09-29
戀愛交往的兩個原則

这里的原则是为了预防抑郁而提出的。

1 盡可能與最愛的人交往

与最爱主耶稣的人交往。


论到童身人、我却没有主的诏命;但作为蒙主怜恤、而可信靠的人、我就发表发表意见。我以为最好是:为了现在艰难的缘故、一个人还是守素安常的好。你有妻子束缚着么?别求解脱了;你得解脱离开妻子了么?别求得妻子了。然而你若结婚,并不是犯罪;处女若结婚,也不是犯罪;不过苦难是会临到这种人肉身上的;我却顾惜你们。
(哥林多前书 7:25-28 吕振中)

我愿你们一无挂虑。没有结婚的、挂虑主的事、要怎样给主喜欢;结婚的挂虑世界的事、要怎样给妻子喜欢,心就分了。没有结婚的妇人和处女、挂虑主的事、要在身体和心灵上奉献为圣;已经结婚的、挂虑世界的事、要怎样给丈夫喜欢。我说这话、是为了你们自己的益处,不是要设圈套笼络你们,乃是要你们温雅端正、殷勤服事主、而不分心。
(哥林多前书 7:32-35 吕振中)

维持伴侣关系需要双方不断地改变自己。「追求终极真实」是我自己中的永恒不变之处。这一点不同必不能相结合。

1、有着对于问题的理解
2、有着对于解决的希望

对于终极真实既“无知”又“绝望”之人的眼里只有金钱和地位,没有了对于真实的好奇、没有了对于成就的自由、没有了对于服务的真诚。

2 對正在交往的人保持完全的坦誠

情侣之间的律法

1、从彼此承认对方为其男女朋友开始,此约定生效。
2、彼此保持坦诚,避免误导和隐瞒对方的行为。如果发现对方有可能错误地理解了谈话内容,应该及时给予说明和解释。
3、彼此共同安排约会的相应事项。保持经常性的单独见面¹、牵手以及亲吻,但避免发生性行为。
4、在彼此的所有社交账号上,登记为情侣关系。当被第三方问及是否有男女朋友的相关问题时,应该如实回答。
5、避免与第三方的任何形式的单独见面、牵手、亲吻以及性行为。
6、从一方否认对方为其男女朋友开始,此约定失效。


¹ => 司法解释:每周至少一次单独会面。

夫妻之间的律法

1、从彼此的家人和朋友承认彼此的情侣关系开始,此约定生效。
2、彼此保持坦诚,避免误导和隐瞒对方的行为。如果发现对方有可能错误地理解了谈话内容,应该及时给予说明和解释。
3、彼此共同安排同居的相应事项。保持经常性的单独会面、牵手、亲吻以及性行为。
4、在彼此的所有社交账号上,登记为夫妻关系。当被第三方问及是否已经结婚的相关问题时,应该如实回答。
5、避免与第三方的任何形式的单独会面、牵手、亲吻以及性行为。
6、从双方否认夫妻关系开始,此约定失效。

The Law Between Lovers

  1. This agreement will come into effect starting from acknowledging each other as a boyfriend or girlfriend.
  2. Be honest with each other and avoid the behaviors of misleading and concealing each other. If you find that the other may have misunderstood the content of yourconversation, you should give explanations in time.
  3. Arrange dating related matters with each other. Keep dating alone with each other, holding hands, and kissing regularly, but avoid having sex.
  4. Register as a boyfriend and girlfriend relationship on all social accounts of each other. When asked by a third party whether there is a boyfriend or girlfriend, you should answer truthfully.
  5. Avoid dating alone, holding hands, kissing and having sex withthird parties in any form.
  6. This agreement becomes invalid when one denies that the other is a boyfriend or girlfriend.

法利赛人上耶稣跟前来,试探他说:『人因了任何缘故离弃妻子,可以不可以?』耶稣回答说:『难道你们没有诵读过,创造主从起初造人,是有男有女的;又说:「为这缘故、人必离开父亲和母亲,同他的妻子胶结,两个人就成为一体」么? 这一来,他们就不再是两个,而是一体了。所以上帝所配偶的,人不可分开。』
(马太福音 19:3-6 吕振中)

你们听见有话说:「不可奸淫」。但是我告诉你们、凡看妇女、而动欲念的,这人心里已经和她犯了奸淫了。
(马太福音 5:27-28 吕振中)

只有由于思念起神所做的与独特伴侣的永恒结合所引发的性唤起才不是奸淫。
只有由于思念起神所做的结合所引发的性唤起才不是奸淫。


Some Pharisees came to Jesus, testing Him and asking, “Is it lawful for a man to divorce his wife for any reason at all?” And He answered and said, “Have you not read that He who created them from the beginning MADE THEM MALE AND FEMALE, and said, ‘FOR THIS REASON A MAN SHALL LEAVE HIS FATHER AND HIS MOTHER AND BE JOINED TO HIS WIFE, AND THE TWO SHALL BECOME ONE FLESH’? So they are no longer two, but one flesh. Therefore, what God has joined together, no person is to separate.”
(Matthew 19:3-6 NASB)

You have heard that it was said, ‘YOU SHALL NOT COMMIT ADULTERY’; but I say to you that everyone who looks at a woman with lust for her has already committed adultery with her in his heart.
(Matthew 5:27-28 NASB)

Only the sexual arousal caused by thinking of the eternal union with a unique partner made by God is not adultery.
Only the sexual arousal caused by thinking of the join made by God is not adultery.


そして言われた、『このゆえに、人はその父母を離れて、その妻と結び合い、二人は一体となるのである』。
(マタイ 19:5 回復訳)

神にされた結合を思い出すことによってのみ引き起こされる性的興奮は姦淫ではありません。

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2017-09-22
为王到永远

永恒主啊,听我的祷告;
愿我的呼救达到你面前。
我在急难的日子、
求你不要掩面不顾我;
总要倾耳听我;
我呼求的日子、求你赶快应我。
(诗篇 102:1-2 吕振中)

 仕事を終えて、じっくりと反省する。一日が終わって、その一日を振り返って反省する。すると、自分や他人のアラが目について、ついにはウツになる。自分のだめさにも怒りを感じ、あいつは憎たらしいと思ったりする。たいていは、不快で暗い結果にたどりつく。
 なぜかというと、冷静に反省したりしたからなどでは決してない。単に疲れているからだ。疲れきったときにする反省など、すべてウツへの落とし穴でしかない。疲れているときは反省をしたり、振り返ったり、ましてや日記など書くべきではない。
 活発に活動しているとき、何かに夢中になって打ち込んでいるとき、楽しんでいるとき、反省したり、振り返って考えたりはしない。だから、自分をだめだと思ったり人に対して憎しみを覚えたりしたときは、疲れている証拠だ。そういうときはさっさと自分を休ませなければいけない。
ーー『曙光』


因为我的年日如烟消没;
我的骨头都烧焦像燃烧物;
我的心被击伤,如草枯干;
我连饭都忘了吃。
(诗篇 102:3-4 吕振中)

因我叹息的声音,
我的骨头仅仅贴着皮肉。
我好比旷野的叫枭,
我如同荒场的鸱鸮。
我直醒着睡不着,
就像房顶上的孤鸟。
我的仇敌终日辱骂我;
猖狂攻击我的、指着我来赌咒。
我吃炉灰、如同吃饭;
我将眼泪和饮料搀杂着喝:
这都因了你的恼忿和震怒;
因为你把我举起,又把我摔下。
我的年日如同日影偏斜;
我,我正如草枯干。
(诗篇 102:5-11 吕振中)

  睡不着。突然觉得自己总是在吃亏。想哭。

  的确。自从抑郁症慢慢加重再后来慢慢好转。只考虑自己的时候变少了。有时候还会很后悔自己以前的待人处世方式。

  可是现在的状态不对头。想起曾经有过类似的状态。那次是 2009 年的暑假由于过度劳累而第一次触发自杀念头。(如果细细说来,真的是不得不提到好多吃亏。所以,就不展开了。)

  那次之后整个本科和硕士的学生生涯,情况大体上说来,就是从普通到挂科再到延毕。可是我要说我真的是非常努力地在做最好的自己。你相信吗?(还是在想吃亏的问题。)


但你呢、永恒主啊,
你坐着为王到永远;
你的称号代代长存。
是你要起来怜悯锡安;
因为这是怜惜它、的时候;
所定的日期已经到了。
因为你仆人爱慕它的石头;
连它的尘土、他们也怜惜。
列国必敬畏永恒主的名;
地上诸王必畏惧你的荣耀。
那时永恒主必建造锡安,
必以他的荣耀显现于其中;
他必垂顾到穷苦人的祷告;
并不藐视他们所恳求的。
(诗篇 102:12-17 吕振中)

  哎。吃亏的问题还是先放一放。换一个角度来看,一般来说,我是不会回忆起这些。触发起这些回忆是因为经历上的共同点。

  这些共同点是:

  * 无视计划。不分主次。肆意追逐新奇的灵感。

  * 追求完美。过度劳累。由于不能清晰地预见完结而急躁浮躁以至于绝望。

  目前的情况是:无视日语学习的计划。做了太多临时起意的计划外的事情。这样势必会影响公司对我的评价。

  就像大一的情况:无视期末复习。忙于网站知识学习和网站维护工作。

  从这个角度看,倒是可以找到了解决问题的方法。我得庆幸我来到日本,庆幸我来到现在的公司。我不了解美国以及美国企业的情况。但我隐约觉得日本人的时间观念比美国人更强。我经常会怀疑他们这种一丝不苟、按部就班、严谨到木讷的态度太过头了以至于产生了僵化的不良影响。但是,他们的计划力和执行力的确是让人钦佩。对于将要从事的任务所需要的时间,他们能够精准地估计。通过这种清晰的预见,他们能够沉稳下来。另一方面,他们非常擅长于记录。所以,在完成任务的过程中产生的新的提案都会被及时记录下来,并且在下次计划的时候加入到日程中去。通过这种方式,可以避免「肆意追逐新奇的灵感」而造成的「不分主次」的问题。虽然总体上来说,后者的效率更高一些。但是,后者由于缺乏阶段性的成果往往会把人的信心耗尽。

  训练自己的计划力是我目前所需要的治疗。

  PS:

  「记录」一直被我所忽视。

  18岁以前的行为模式是:专心致志完成任务。不去理会任何对于完成任务无益的念头。也不会记录下来。

  18岁以后的行为模式慢慢变成:理会所有与当前任务有关的念头。产生新的念头时,先暂时放下手头的工作直到解决这个新的任务。此时也不会记录新的念头。


愿这记下来、以传于后代,
使将生之民也颂赞永恒主:
那时他必从他至圣的高天垂看;
永恒主必从天上鉴察大地;
来听被掳之人的唉哼,
来释放濒于死亡的人;
使人在锡安宣扬永恒主的名,
在耶路撒冷叙说他可颂可赞的事,
在于万族之民一同集合之时,
列国事奉永恒主之日。
(诗篇 102:18-22 吕振中)

  清醒后的補足:

  「吃虧」其實是極端情緒下扭曲的認知。每次「吃虧」其實都是因爲我主動放棄、半途而廢、逃避或拖延。

  更何況,助人爲樂,不亦樂乎?更多情況下,是我自己主動放棄應得的利益。我的確應該後悔自己做過很多糟糕的決定。但是,不管過去有多麽不堪回首,從生活的體驗説來,有什麽是真正不值得的呢?

  計劃力是完成一些大型任務的必要能力。


  聯係「被開發環境的設計實現驗證的問題困擾了三天之久」那篇之後的補足:

  記下解決問題「每囘計劃好的事情,到了真正著手去做的時候,我卻變得毫無幹勁了。」的可能嘗試。

  價值判斷任務和效果實現任務相分離。在真正執行計劃之前,盡量少的思考效果該怎麽實現。

  記錄下所想要實現的效果的興趣點所在。執行一項任務會所產生的一些新的靈感。因爲要優先解決當前的任務,不能深入探索和實現這些新的靈感。

  但是,記錄下讓自己感興趣的效果所在是非常重要的。這樣有助於真正執行計劃時,儘快將自己帶入之前產生這些新的靈感時候的狀態。


他使我的力量中途衰弱,
他把我的年日截短了,
以致我说:『我的上帝啊,
不要使我于中年灰化上升哦!
你的年岁代代无穷。』
(诗篇 102:23-24 吕振中)

  思考日本企业文化中「報告」「計画」两大特点之后的补足:

  若是因为人际关系原因造成自己感兴趣的效果永远无法实现,那就只能、在事后恰当的时候、在每周的报告里、提出自己的意愿。以此作为一种对自己的补偿。


你起初奠定了地的根基;
天乃是你的手所造的。
天地都必灭没,
你却永远存立;
天地都必破掉如衣服;
你更换天地像服装,
天地就过去了;
惟独你永远一样;
你的年数没有穷尽。
你仆人的子孙必永久安居;
他们的后裔必立定于你面前。
(诗篇 102:25-28 吕振中)

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2017-09-19
自分を休ませる

 仕事を終えて、じっくりと反省する。一日が終わって、その一日を振り返って反省する。すると、自分や他人のアラが目について、ついにはウツになる。自分のだめさにも怒りを感じ、あいつは憎たらしいと思ったりする。たいていは、不快で暗い結果にたどりつく。
 なぜかというと、冷静に反省したりしたからなどでは決してない。単に疲れているからだ。疲れきったときにする反省など、すべてウツへの落とし穴でしかない。疲れているときは反省をしたり、振り返ったり、ましてや日記など書くべきではない。
 活発に活動しているとき、何かに夢中になって打ち込んでいるとき、楽しんでいるとき、反省したり、振り返って考えたりはしない。だから、自分をだめだと思ったり人に対して憎しみを覚えたりしたときは、疲れている証拠だ。そういうときはさっさと自分を休ませなければいけない。


ーー『曙光』

情殺


  • 没有祷告伴随的禁食是危险的
  • 没有婚姻保护的性爱是危险的

  這兩天不小心接觸了兩則情殺新聞。不是殺自己,就是殺別人。

  後來一直帶入各種角色,思考了很多。

  我感到很害怕。倒不是因爲害怕別人傷害我。我這麽可愛。哪有人會傷害我呢?

  我害怕的是,如果我處于那種情景,我會控制不住自己。(=> 保羅的心理問題)

  假如真的處於那種情景之下,我覺得,第一件要做的事情是,呼求主名。


惨苦啊,我这个人!谁能援救我脱离这有死掌权的身体呢?感谢上帝,借着我们的主耶稣基督、就能脱离了。这样看来,论我自己、我是心思上给上帝之律做奴仆,而肉体上给罪之律做奴仆的。
(罗马书 7:24-25 吕振中)

  然後,可以嘗試自我暗示。

  「兩權相害取其輕。與其自殺,不如絕食吧。」

  「兩權相害取其輕。與其殺人,不如強奸吧。與其強奸,不如扇她一巴掌。」

  想想還是有些可怕。最後,禱告一下,壓壓驚。


我们在天上的父:
愿人都尊你的名为圣。
愿你的国降临;
愿你的旨意行在地上,
如同行在天上。
我们日用的饮食,今日赐给我们。
免我们的债,
如同我们免了人的债。
不叫我们遇见试探;
救我们脱离凶恶。
(马太福音 6:9-13 和合本)


  在爱情里,我只接纳一种道歉,就是「对我撒谎或隐瞒」。

  在爱情里,我也只会为「撒谎或隐瞒」道歉。

  爱情,与,良善、坦诚,相比,孰轻孰重?若是必须抛弃一个,请毫不犹豫地抛弃爱情。

  爱情,若是失去良善、坦诚,还能有什么益处?最终只会不可避免地沦为痛苦。因为它的纯粹已经丧失。

  两个相爱的人,若是失去坦诚,还能有什么益处?最终只会互相伤害。别为了挽留而去欺瞒。别害怕失去。因为今日的甜蜜不过是以明日的痛苦为代价。

  别相信什么善意的谎言。事实若真是过于沉重、悲伤若真是不可避免,就请让他尽早承受吧。承受过后的微笑才会更美,不是吗?你不可能欺瞒他一辈子。何况你并不明白死亡,也不明白死后会经历什么。你怎么能确信自己能永远欺瞒得住?生前的事情,就在活着的时候交代清楚吧。

  爱情之所以独特就在于它精神性的纯粹。世上所有的伤害投射到精神范畴里都可以看到「欺瞒」的影子。但只有情伤本质上纯粹是由「欺瞒」所致。

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2017-09-18
自分を休ませる

 仕事を終えて、じっくりと反省する。一日が終わって、その一日を振り返って反省する。すると、自分や他人のアラが目について、ついにはウツになる。自分のだめさにも怒りを感じ、あいつは憎たらしいと思ったりする。たいていは、不快で暗い結果にたどりつく。
 なぜかというと、冷静に反省したりしたからなどでは決してない。単に疲れているからだ。疲れきったときにする反省など、すべてウツへの落とし穴でしかない。疲れているときは反省をしたり、振り返ったり、ましてや日記など書くべきではない。
 活発に活動しているとき、何かに夢中になって打ち込んでいるとき、楽しんでいるとき、反省したり、振り返って考えたりはしない。だから、自分をだめだと思ったり人に対して憎しみを覚えたりしたときは、疲れている証拠だ。そういうときはさっさと自分を休ませなければいけない。


ーー『曙光』

被开发环境的设计实现验证的问题困扰了三天之久


  设计、实现、验证,分别对应,调查、开发、测试。

  (突然明白,日语中的「実装」实际上就是汉语中的「实现」,英语是「implement」。)

  主要原因在于两点:

  * 构建开发环境的经验不足、灵感匮乏

  * 设计、实现、验证的思维的混杂

  新的设计意味着要改变用户的思维惯性。所以,必须用极其鲜明的方式来表现,让用户能够充分注意到。

  新的实现的灵感可能会提示新的设计。

  好的设计,意味着,用户无需理解实现就能够很容易地很深入地理解设计。


2020/7/13 21:30

对于需求和实现的学习往往有三种方式:

  1. 对于需求细节和实现细节的对应关系,有相应的文档。
  2. 有概述的需求和具体的实现,需要自己根据实现中的具体细节去弄清所对应的需求细节。
  3. 有具体的需求和概述的实现,需要自己根据需求中的具体细节去完成所对应的实现细节。
  4. 有概述的需求和概述的实现,需要自己弄清需求细节和完成实现细节。

对于第1种方式,广泛的阅读比深入的阅读更重要。
第1种方式的最主要的效果在于提高交流表达的能力。
第2种方式的最主要的效果在于深入地掌握工具的运用方法。
第3种方式的最主要的效果在于深入地掌握工具的开发方法。
第4种方式是高度探索性的。
从第1种到第4种方式,学习难度越来越大。
所以,高效的学习策略是把学习任务逐级分解为较低一级难度的任务。

以 PayPay 的测试为例,最初还没有明确需求的时候,就开始尝试明确实现。为了解决方便地试验代码和记录结果的需求,从 Java/Spark Notebook 这个关键词出去,找到 Zeppelin。
因为之前有通过第1种方式学习过流处理的文档,所以这次很快就明确了流处理的需求。但是,在还没有明确会话化的需求的时候,就过早地尝试理解 Twitter 流处理的实例,并决定这次使用 Scala 开发。在此实操过程中,陷入各种与最初需求无关的具体问题中。由实时可视化的问题,提出可视化的需求,联想到 Zeppelin。Twitter 流处理的实例只满足了流处理的需求而不满足会话化的需求。以会话化、流处理、Spark 进行谷歌搜索可以得到更好的实例。
第4级向第3级转化的过程中,需求并没有充分的具体化,就过早地向第2级转化。导致任务过于广泛地发散。

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2017-09-14
人間失格


「世界が終わるまでは」、空の空、全ては、空である。

  上傳這篇小説主要是爲了學習日語。


喜乐的心能使脸面有光彩;
由于心里的忧伤、心灵就颓丧。
(箴言 15:13 吕振中)

心喜乐、等于好医药;
心灵颓丧、使骨干枯干。
(箴言 17:22 吕振中)

人的心灵能够支持疾病;
心灵颓丧,谁能担受得了?
(箴言 18:14 吕振中)

  看到廢材的男主,可能會覺得自己還是個不錯的人吧……
  但是,我觉得,我和男主越来越像了。这真是一本虚空的忏悔录啊。



Amazing grace
How sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost, but now I’m found
Was blind, but now I see


T’was grace that taught my heart to fear
And grace my fears relieved
How precious did that grace appear
The hour I first believed


When we’ve been there ten thousand years
Bright shining as the sun
We’ve no less days to sing God’s praise
Than when we first begun


Amazing grace
How sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost, but now I’m found
Was blind, but now I see


ーー Alan Jackson


青年人哪,你在幼年时快乐吧;在青年日子使你的心高兴吧;按你的心所愿行的而行,按你的眼所爱看的而看吧。不过你要知道、为了这一切、上帝总要使你受审判。
你要从心中除掉苦闷;从肉体上除去艰苦的事;因为年幼和青春都是虚空。
(传道书 11:9-10 吕振中)

你聘定了妻,别人必强奸她;你建造房屋,也不得住在里面;你栽种葡萄园,也不能开始享用它的果子。
(申命记 28:30 吕振中)

求主,用你的宝血洗净我、掩面不要看我的罪,恢复我年幼青春时的创造力。


我的罪我让你知道,
我的罪孽我没有掩盖着;
我说:『我要向永恒主承认我的过犯』;
那么你就赦免我罪的孽债。
(细拉)
(诗篇 32:5 吕振中)

唉,我是在罪孽中生的;
在罪恶中我母亲孕怀了我。
(诗篇 51:5 吕振中)

因忠爱与诚信、罪孽就得赦除;
由于敬畏永恒主、人就免受祸患。
(箴言 16:6 吕振中)

你不要说:『为什么先前的日子
比如今这些日子好呢?』
因为你问到这事、并不是出于智慧。
(传道书 7:10 吕振中)



Amazing Grace, how sweet the sound,
That saved a wretch like me…
I once was lost but now am found
Was blind, but now I see.


T’was Grace that taught…
My heart to fear
And Grace, my fears relieved.
How precious did that grace appear…
The hour I first believed.


Through many dangers, toils and snares…
We have already come.
T’was Grace that brought us safe thus far…
And Grace will lead us home.


When we’ve been there ten thousand years
Bright shining as the sun
We’ve no less days to sing God’s praise
Than when we first begun


Than when we first begun


ーー Hayley Westenra



Amazing Grace, how sweet the sound,
That saved a wretch like me…
I once was lost but now am found
Was blind, but now I see.


T’was Grace that taught…
My heart to fear
And Grace, my fears relieved.
How precious did that grace appear…
The hour I first believed.


Through many dangers, toils and snares…
We have already come.
T’was Grace that brought us safe thus far…
And Grace will lead us home.


The Lord has promised good to me…
His word my hope secures.
He will my shield and portion be…
As long as life endures.


Yes, when this flesh and heart shall fail
And mortal life shall cease,
I shall possess within the veil
A life of joy and peace.


When we’ve been there ten thousand years
Bright shining as the sun
We’ve no less days to sing God’s praise
Than when we first begun


人間失格
太宰治


【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)従姉妹《いとこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昔|気質《かたぎ》

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(例)[#「お互いの不信の中で」に傍点]


   はしがき

 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹《いとこ》たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴《はかま》をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
「可愛い坊ちゃんですね」
 といい加減なお世辞を言っても、まんざら空《から》お世辞に聞えないくらいの、謂《い》わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
 と頗《すこぶ》る不快そうに呟《つぶや》き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
 まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺《しわ》を寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。
 第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌《へんぼう》していた。学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗《のぞ》かせ、籐椅子《とういす》に腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命《いのち》の渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。
 もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎《あご》も、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。
 所謂《いわゆる》「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。
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   第一の手記

 恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜《あかぬ》けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
 また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。
 自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。
 また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
 自分だって、それは勿論《もちろん》、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。
 自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳《ぜん》を二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔|気質《かたぎ》の家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛《か》みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。
 めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋《かいじゅう》で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。
 つまり自分には、人間の営みというものが未《いま》だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾《てんてん》し、呻吟《しんぎん》し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
 自分には、禍《わざわ》いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負《せお》ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
 つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨《せいさん》な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快《そうかい》なのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を步きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
 そこで考え出したのは、道化でした。
 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
 自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。
 その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。
 また自分は、肉親たちに何か言われて、口応《くちごた》えした事はいちども有りませんでした。そのわずかなおこごとは、自分には霹靂《へきれき》の如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。
 それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子《しし》よりも鰐《わに》よりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾《しっぽ》でピシッと腹の虻《あぶ》を打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄《せんりつ》を覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。
 人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩《おうのう》は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。
 何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空《そら》だ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。
 自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を步き、家中の者を笑わせました。めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、
「それあ、葉ちゃん、似合わない」
 と、可愛くてたまらないような口調で言いました。なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て步くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。姉の脚絆《レギンス》を両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、以《もっ》てセエターを着ているように見せかけていたのです。
 自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮していました。そうして帰る時には家族の者たち、また親戚《しんせき》の者たちにまで、実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。
 いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖《てちょう》に書きとめるのでした。父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。
「葉蔵は?」
 と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。
 何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、それを拒む事も出来ませんでした。イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味《あじわ》い、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。
 自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、
「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いのお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」
 欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。
「本が、いいでしょう」
 長兄は、まじめな顔をして言いました。
「そうか」
 父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。
 何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐《ふくしゅう》は、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。
 そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。
「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」
 また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はその出鱈目《でたらめ》の曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。次兄は、フラッシュを焚《た》いて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布(それは更紗《さらさ》の風呂敷でした)の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。
 自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその他《ほか》にも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染《なじみ》で、また、怪談、講談、落語、江戸|小咄《こばなし》などの類にも、かなり通じていましたから、剽軽《ひょうきん》な事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。
 しかし、嗚呼《ああ》、学校!
 自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚《はなは》だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。
 自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。また、綴り方には、滑稽噺《こっけいばなし》ばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある痰壺《たんつぼ》にしてしまった失敗談(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を步きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。
 お茶目。
 自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれる事に成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。
 けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡《およ》そ対蹠《たいせき》的なものでした。その頃、既に自分は、女中や下男から、哀《かな》しい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました。これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡《まわ》りに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。
 必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮《しょせん》、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。
 なんだ、人間への不信を言っているのか? へえ? お前はいつクリスチャンになったんだい、と嘲笑《ちょうしょう》する人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で[#「お互いの不信の中で」に傍点]、エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々《みちみち》、下男たちが嘆き合っていたのです。
 しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化に依って、朝から晚まで人間をあざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに[#「清く明るく朗らかに」に傍点]生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦《みょうてい》を教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを嘗《な》めずにすんだのでしょう。つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。
 そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依って嗅《か》ぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。
 つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。
[#改頁]

   第二の手記

 海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉《わかば》と共に、青い海を背景にして、その絢爛《けんらん》たる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤《ちりば》めて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章《きしょう》にも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。
 その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。
 生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親|眷属《けんぞく》全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者《くせもの》が、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。
 自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動《ぜんどう》していましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。
 もはや、自分の正体を完全に隠蔽《いんぺい》し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣《うわぎ》を着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
 その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁《ささや》きました。
「ワザ。ワザ」
 自分は震撼《しんかん》しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
 それからの日々の、自分の不安と恐怖。
 表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息《ためいき》が出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして步くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晚、四六時中、竹一の傍《そば》から離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に於《お》いて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。
 自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」媚笑《びしょう》を湛《たた》え、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫《ねこな》で声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。
 その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。
「耳が痛い」
 竹一は、立ったままでそう言いました。
「雨に濡れたら、痛くなったよ」
 自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。膿《うみ》が、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。
「これは、いけない。痛いだろう」
 と自分は大袈裟《おおげさ》におどろいて見せて、
「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」
 と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分の膝《ひざ》を枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、
「お前は、きっと、女に惚《ほ》れられるよ」
 と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。
 しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍《がらん》が崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。
 竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、幽《かす》かに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気《ふんいき》に対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。
 自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける笞《むち》とちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒《ちゆ》し難い傷でした。
 女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳《じゃけん》にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。
 女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。
 自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、
「御勉強?」
「いいえ」
 と微笑して本を閉じ、
「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね」
 とするする口から流れ出るものは、心にも無い滑稽噺でした。
「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん」
 或る晚、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。
「なぜ?」
「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい」
 いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。
「そっくり。ロイドに、そっくり」
 当時、ハロルド.ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。
 自分は立って片手を挙げ、
「諸君」
 と言い、
「このたび、日本のファンの皆様がたに、……」
 と一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。
 また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」
 などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い? 貸してよ」
 と言いました。
 自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。
「ごちそうさま」
 アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓《みみず》の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。
 また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。
 しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド.ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。
 竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。
「お化けの絵だよ」
 いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
 おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の第一步を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。
「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」
 自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を竹一に見せました。
「すげえなあ」
 竹一は眼を丸くして感嘆しました。
「地獄の馬みたい」
「やっぱり、お化けかね」
「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」
 あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪《ようかい》を確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷《いた》めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、
「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」
 と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。
 自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分の綴り方ほどには、周囲の評判が、よくありませんでした。自分は、どだい人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校、中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(漫画などは別ですけれども)その対象の表現に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を自分で工夫して試みなければならないのでした。中学校へはいって、自分は油絵の道具も一|揃《そろ》い持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに嘔吐《おうと》をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。
 自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。
 また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく画く式の凡庸なタッチで画いていました。
 自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、
「お前は、偉い絵画きになる」
 という予言を得たのでした。
 惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、この二つの予言を馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分は東京へ出て来ました。
 自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口応え一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のままで、東京の高等学校に受験して合格し、すぐに寮生活にはいりましたが、その不潔と粗暴に辟易《へきえき》して、道化どころではなく、医師に肺浸潤の診断書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール.スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の完璧《かんぺき》に近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。
 父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に滞在していませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(自分はとうとう、明治神宮も、楠正成《くすのきまさしげ》の銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デッサンの練習をしている事もあったのです。高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にいるような、それは自分のひがみかも知れなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、ついに愛校心というものが理解できずに終りました。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。
 自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と淫売婦《いんばいふ》と質屋と左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。
 その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。
「五円、貸してくれないか」
 お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差し出しました。
「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」
 自分は拒否し切れず、その画塾の近くの、蓬莱《ほうらい》町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。
「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」
 堀木は、色が浅黒く端正な顔をしていて、画学生には珍らしく、ちゃんとした脊広《せびろ》を着て、ネクタイの好みも地味で、そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。
 自分は馴れぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。
「僕は、美術学校にはいろうと思っていたんですけど、……」
「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」
 しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしかに同類なのでした。そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本質的に異色のところでした。
 ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑《けいべつ》し、時には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って步いているうちに、結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。
 しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の緋《ひ》の絨緞《じゅうたん》が敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う時、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、吝嗇《りんしょく》ゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持になってしまって、値切るどころか、お釣を受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを步けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。
 それが、堀木に財布を渡して一緒に步くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果のあるような支払い振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時間で目的地へ着くという手腕をも示し、淫売婦のところから朝帰る途中には、何々という料亭に立ち寄って朝風呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋台の牛めし焼とりの安価にして滋養に富むものたる事を説き、酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。
 さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手の思惑などをてんで無視して、その所謂|情熱《パトス》の噴出するがままに、(或いは、情熱とは、相手の立場を無視する事かも知れませんが)四六時中、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で步いて疲れ、気まずい沈黙におちいる危懼《きく》が、全く無いという事でした。人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事を警戒して、もともと口の重い自分が、ここを先途《せんど》と必死のお道化を言って来たものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化役をみずからすすんでやってくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。
 酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。
 自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。
 しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、幽かな一夜の休養を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」の淫売婦たちと遊んでいるうちに、いつのまにやら無意識の、或るいまわしい雰囲気を身辺にいつもただよわせるようになった様子で、これは自分にも全く思い設けなかった所謂「おまけの附録」でしたが、次第にその「附録」が、鮮明に表面に浮き上って来て、堀木にそれを指摘せられ、愕然《がくぜん》として、そうして、いやな気が致しました。はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、淫売婦に依って女の修行をして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修行は、淫売婦に依るのが一ばん厳しく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、既に自分には、あの、「女達者」という匂いがつきまとい、女性は、(淫売婦に限らず)本能に依ってそれを嗅ぎ当て寄り添って来る、そのような、卑猥《ひわい》で不名誉な雰囲気を、「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。
 堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣りの将軍のはたちくらいの娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、思いつめたような手紙が来て、……また、誰かわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ断片、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似た苦《にが》さを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。
 堀木は、また、その見栄坊《みえぼう》のモダニティから、(堀木の場合、それ以外の理由は、自分には今もって考えられませんのですが)或る日、自分を共産主義の読書会とかいう(R.Sとかいっていたか、記憶がはっきり致しません)そんな、秘密の研究会に連れて行きました。堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密会合も、れいの「東京案内」の一つくらいのものだったのかも知れません。自分は所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。それは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのR.S(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず、れいの自分のお道化で、会合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分はその会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって来たようでした。この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」くらいに考えていたかも知れませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、あざむいていたわけです。自分は、同志では無かったんです。けれども、その会合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィスをして来ました。
 好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。
 非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。
 日蔭者《ひかげもの》、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者[#「生れた時からの日蔭者」に傍点]のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。
 また、犯人意識、という言葉もあります。自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠《そうこう》の妻の如き好|伴侶《はんりょ》で、そいつと二人きりで侘《わ》びしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている姿勢の一つだったかも知れないし、また、俗に、脛《すね》に傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言い方ですけど)その傷は、次第に自分の血肉よりも[#「血肉よりも」に傍点]親しくなり、その傷の痛みは、すなわち傷の生きている感情、または愛情の囁《ささや》きのようにさえ思われる、そんな男にとって、れいの地下運動のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動の肌が、自分に合った感じなのでした。堀木の場合は、ただもう阿呆のひやかしで、いちど自分を紹介しにその会合へ行ったきりで、マルキシストは、生産面の研究と同時に、消費面の視察も必要だなどと下手な洒落《しゃれ》を言って、その会合には寄りつかず、とかく自分を、その消費面の視察のほうにばかり誘いたがるのでした。思えば、当時は、さまざまの型のマルキシストがいたものです。堀木のように、虚栄のモダニティから、それを自称する者もあり、また自分のように、ただ非合法の匂いが気にいって、そこに坐り込んでいる者もあり、もしもこれらの実体が、マルキシズムの真の信奉者に見破られたら、堀木も自分も、烈火の如く怒られ、卑劣なる裏切者として、たちどころに追い払われた事でしょう。しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の処分に遭わず、殊にも自分は、その非合法の世界に於いては、合法の紳士たちの世界に於けるよりも、かえってのびのびと、所謂「健康」に振舞う事が出来ましたので、見込みのある「同志」として、噴き出したくなるほど過度に秘密めかした、さまざまの用事をたのまれるほどになったのです。また、事実、自分は、そんな用事をいちども断ったことは無く、平気でなんでも引受け、へんにぎくしゃくして、犬(同志は、ポリスをそう呼んでいました)にあやしまれ不審|訊問《じんもん》などを受けてしくじるような事も無かったし、笑いながら、また、ひとを笑わせながら、そのあぶない(その運動の連中は、一大事の如く緊張し、探偵小説の下手な真似みたいな事までして、極度の警戒を用い、そうして自分にたのむ仕事は、まことに、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、彼等は、その用事を、さかんに、あぶながって力んでいるのでした)と、彼等の称する仕事を、とにかく正確にやってのけていました。自分のその当時の気持としては、党員になって捕えられ、たとい終身、刑務所で暮すようになったとしても、平気だったのです。世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄で呻《うめ》いているよりは、いっそ牢屋《ろうや》のほうが、楽かも知れないとさえ考えていました。
 父は、桜木町の別荘では、来客やら外出やら、同じ家にいても、三日も四日も自分と顔を合せる事が無いほどでしたが、しかし、どうにも、父がけむったく、おそろしく、この家を出て、どこか下宿でも、と考えながらもそれを言い出せずにいた矢先に、父がその家を売払うつもりらしいという事を別荘番の老爺《ろうや》から聞きました。
 父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由のあった事に違いありませんが、もうこれきり選挙に出る意志も無い様子で、それに、故郷に一棟、隠居所など建てたりして、東京に未練も無いらしく、たかが、高等学校の一生徒に過ぎない自分のために、邸宅と召使いを提供して置くのも、むだな事だとでも考えたのか、(父の心もまた、世間の人たちの気持ちと同様に、自分にはよくわかりません)とにかく、その家は、間も無く人手にわたり、自分は、本郷森川町の仙遊館という古い下宿の、薄暗い部屋に引越して、そうして、たちまち金に困りました。
 それまで、父から月々、きまった額の小遣いを手渡され、それはもう、二、三日で無くなっても、しかし、煙草も、酒も、チイズも、くだものも、いつでも家にあったし、本や文房具やその他、服装に関するものなど一切、いつでも、近所の店から所謂「ツケ」で求められたし、堀木におそばか天丼などをごちそうしても、父のひいきの町内の店だったら、自分は黙ってその店を出てもかまわなかったのでした。
 それが急に、下宿のひとり住いになり、何もかも、月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、自分は、まごつきました。送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、自分は慄然《りつぜん》とし、心細さのために狂うようになり、父、兄、姉などへ交互にお金を頼む電報と、イサイフミの手紙(その手紙に於いて訴えている事情は、ことごとく、お道化の虚構でした。人にものを頼むのに、まず、その人を笑わせるのが上策と考えていたのです)を連発する一方、また、堀木に教えられ、せっせと質屋がよいをはじめ、それでも、いつもお金に不自由をしていました。
 所詮、自分には、何の縁故も無い下宿に、ひとりで「生活」して行く能力が無かったのです。自分は、下宿のその部屋に、ひとりでじっとしているのが、おそろしく、いまにも誰かに襲われ、一撃せられるような気がして来て、街に飛び出しては、れいの運動の手伝いをしたり、或いは堀木と一緒に安い酒を飲み廻ったりして、ほとんど学業も、また画の勉強も放棄し、高等学校へ入学して、二年目の十一月、自分より年上の有夫の婦人と情死事件などを起し、自分の身の上は、一変しました。
 学校は欠席するし、学科の勉強も、すこしもしなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領のいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷の肉親をあざむき通して来たのですが、しかし、もうそろそろ、出席日数の不足など、学校のほうから内密に故郷の父へ報告が行っているらしく、父の代理として長兄が、いかめしい文章の長い手紙を、自分に寄こすようになっていたのでした。けれども、それよりも、自分の直接の苦痛は、金の無い事と、それから、れいの運動の用事が、とても遊び半分の気持では出来ないくらい、はげしく、いそがしくなって来た事でした。中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の学校全部の、マルクス学生の行動隊々長というものに、自分はなっていたのでした。武装|蜂起《ほうき》、と聞き、小さいナイフを買い(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂《いわゆる》「聯絡《れんらく》」をつけるのでした。お酒を飲んで、ぐっすり眠りたい、しかし、お金がありません。しかも、P(党の事を、そういう隠語で呼んでいたと記憶していますが、或いは、違っているかも知れません)のほうからは、次々と息をつくひまも無いくらい、用事の依頼がまいります。自分の病弱のからだでは、とても勤まりそうも無くなりました。もともと、非合法の興味だけから、そのグルウプの手伝いをしていたのですし、こんなに、それこそ冗談から駒が出たように、いやにいそがしくなって来ると、自分は、ひそかにPのひとたちに、それはお門《かど》ちがいでしょう、あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、というようないまいましい感を抱くのを禁ずる事が出来ず、逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。
 その頃、自分に特別の好意を寄せている女が、三人いました。ひとりは、自分の下宿している仙遊館の娘でした。この娘は、自分がれいの運動の手伝いでへとへとになって帰り、ごはんも食べずに寝てしまってから、必ず用箋《ようせん》と万年筆を持って自分の部屋にやって来て、
「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手紙も書けないのです」
 と言って、何やら自分の机に向って一時間以上も書いているのです。
 自分もまた、知らん振りをして寝ておればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの様子なので、れいの受け身の奉仕の精神を発揮して、実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、くたくたに疲れ切っているからだに、ウムと気合いをかけて腹這《はらば》いになり、煙草を吸い、
「女から来たラヴ.レターで、風呂をわかしてはいった男があるそうですよ」
「あら、いやだ。あなたでしょう?」
「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」
「光栄だわ、飲んでよ」
 早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいているのに。へへののもへじでも書いているのに違いないんです。
「見せてよ」
 と死んでも見たくない思いでそう言えば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがる事、ひどくみっともなく、興が覚めるばかりなのです。そこで自分は、用事でも言いつけてやれ、と思うんです。
「すまないけどね、電車通りの薬屋に行って、カルモチンを買って来てくれない? あんまり疲れすぎて、顔がほてって、かえって眠れないんだ。すまないね。お金は、……」
「いいわよ、お金なんか」
 よろこんで立ちます。用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。
 もうひとりは、女子高等師範の文科生の所謂「同志」でした。このひととは、れいの運動の用事で、いやでも毎日、顔を合せなければならなかったのです。打ち合せがすんでからも、その女は、いつまでも自分について步いて、そうして、やたらに自分に、ものを買ってくれるのでした。
「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」
 そのキザに身震いしながら、自分は、
「そのつもりでいるんです」
 と、愁《うれ》えを含んだ微笑の表情を作って答えます。とにかく、怒らせては、こわい、何とかして、ごまかさなければならぬ、という思い一つのために、自分はいよいよその醜い、いやな女に奉仕をして、そうして、ものを買ってもらっては、(その買い物は、実に趣味の悪い品ばかりで、自分はたいてい、すぐにそれを、焼きとり屋の親爺《おやじ》などにやってしまいました)うれしそうな顔をして、冗談を言っては笑わせ、或る夏の夜、どうしても離れないので、街の暗いところで、そのひとに帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやりましたら、あさましく狂乱の如く興奮し、自動車を呼んで、そのひとたちの運動のために秘密に借りてあるらしいビルの事務所みたいな狭い洋室に連れて行き、朝まで大騒ぎという事になり、とんでもない姉だ、と自分はひそかに苦笑しました。
 下宿屋の娘と言い、またこの「同志」と言い、どうしたって毎日、顔を合せなければならぬ具合になっていますので、これまでの、さまざまの女のひとのように、うまく避けられず、つい、ずるずるに、れいの不安の心から、この二人のご機嫌をただ懸命に取り結び、もはや自分は、金縛り同様の形になっていました。
 同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、思いがけぬ恩を受け、たったいちど逢っただけなのに、それでも、その恩にこだわり、やはり身動き出来ないほどの、心配やら、空《そら》おそろしさを感じていたのでした。その頃になると、自分も、敢えて堀木の案内に頼らずとも、ひとりで電車にも乗れるし、また、歌舞伎座にも行けるし、または、絣《かすり》の着物を着て、カフエにだってはいれるくらいの、多少の図々しさを装えるようになっていたのです。心では、相変らず、人間の自信と暴力とを怪しみ、恐れ、悩みながら、うわべだけは、少しずつ、他人と真顔の挨拶、いや、ちがう、自分はやはり敗北のお道化の苦しい笑いを伴わずには、挨拶できないたちなのですが、とにかく、無我夢中のへどもどの挨拶でも、どうやら出来るくらいの「伎倆《ぎりょう》」を、れいの運動で走り廻ったおかげ? または、女の? または、酒? けれども、おもに金銭の不自由のおかげで修得しかけていたのです。どこにいても、おそろしく、かえって大カフエでたくさんの酔客または女給、ボーイたちにもまれ、まぎれ込む事が出来たら、自分のこの絶えず追われているような心も落ちつくのではなかろうか、と十円持って、銀座のその大カフエに、ひとりではいって、笑いながら相手の女給に、
「十円しか無いんだからね、そのつもりで」
 と言いました。
「心配要りません」
 どこかに関西の訛《なま》りがありました。そうして、その一言が、奇妙に自分の、震えおののいている心をしずめてくれました。いいえ、お金の心配が要らなくなったからではありません、そのひとの傍にいる事に心配が要らないような気がしたのです。
 自分は、お酒を飲みました。そのひとに安心しているので、かえってお道化など演じる気持も起らず、自分の地金《じがね》の無口で陰惨なところを隠さず見せて、黙ってお酒を飲みました。
「こんなの、おすきか?」
 女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。自分は首を振りました。
「お酒だけか? うちも飲もう」
 秋の、寒い夜でした。自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、記憶が薄れ、たしかではありません。情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです)に言いつけられたとおりに、銀座裏の、或る屋台のお鮨《すし》やで、少しもおいしくない鮨を食べながら、(そのひとの名前は忘れても、その時の鮨のまずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に残っています。そうして、青大将の顔に似た顔つきの、丸坊主のおやじが、首を振り振り、いかにも上手みたいにごまかしながら鮨を握っている様も、眼前に見るように鮮明に思い出され、後年、電車などで、はて見た顔だ、といろいろ考え、なんだ、あの時の鮨やの親爺に似ているんだ、と気が附き苦笑した事も再三あったほどでした。あのひとの名前も、また、顔かたちさえ記憶から遠ざかっている現在なお、あの鮨やの親爺の顔だけは絵にかけるほど正確に覚えているとは、よっぽどあの時の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を与えたものと思われます。もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、ひとに連れられて行って食っても、うまいと思った事は、いちどもありませんでした。大き過ぎるのです。親指くらいの大きさにキチッと握れないものかしら、といつも考えていました)そのひとを、待っていました。
 本所の大工さんの二階を、そのひとが借りていました。自分は、その二階で、日頃の自分の陰鬱な心を少しもかくさず、ひどい歯痛に襲われてでもいるように、片手で頬をおさえながら、お茶を飲みました。そうして、自分のそんな姿態が、かえって、そのひとには、気にいったようでした。そのひとも、身のまわりに冷たい木枯しが吹いて、落葉だけが舞い狂い、完全に孤立している感じの女でした。
 一緒にやすみながらそのひとは、自分より二つ年上であること、故郷は広島、あたしには主人があるのよ、広島で床屋さんをしていたの、昨年の春、一緒に東京へ家出して逃げて来たのだけれども、主人は、東京で、まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、刑務所にいるのよ、あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑務所へかよっていたのだけれども、あすから、やめます、などと物語るのでしたが、自分は、どういうものか、女の身の上|噺《ばなし》というものには、少しも興味を持てないたちで、それは女の語り方の下手なせいか、つまり、話の重点の置き方を間違っているせいなのか、とにかく、自分には、つねに、馬耳東風なのでありました。
 侘びしい。
 自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟《つぶや》きのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも不思議とも感じております。けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出来るのでした。
 あの白痴の淫売婦たちのふところの中で、安心してぐっすり眠る思いとは、また、全く異って、(だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)その詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は、自分にとって、幸福な(こんな大それた言葉を、なんの躊躇《ちゅうちょ》も無く、肯定して使用する事は、自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです)解放せられた夜でした。
 しかし、ただ一夜でした。朝、眼が覚めて、はね起き、自分はもとの軽薄な、装えるお道化者になっていました。弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした。
「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。金が無くなると女にふられるって意味、じゃあ無いんだ。男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気|銷沈《しょうちん》して、ダメになり、笑う声にも力が無く、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、金沢大辞林という本に依ればね、可哀そうに。僕にも、その気持わかるがね」
 たしか、そんなふうの馬鹿げた事を言って、ツネ子を噴き出させたような記憶があります。長居は無用、おそれありと、顔も洗わずに素早く引上げたのですが、その時の自分の、「金の切れめが縁の切れめ」という出鱈目《でたらめ》の放言が、のちに到って、意外のひっかかりを生じたのです。
 それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは逢いませんでした。別れて、日が経つにつれて、よろこびは薄れ、かりそめの恩を受けた事がかえってそらおそろしく、自分勝手にひどい束縛を感じて来て、あのカフエのお勘定を、あの時、全部ツネ子の負担にさせてしまったという俗事さえ、次第に気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿の娘や、あの女子高等師範と同じく、自分を脅迫するだけの女のように思われ、遠く離れていながらも、絶えずツネ子におびえていて、その上に自分は、一緒に休んだ事のある女に、また逢うと、その時にいきなり何か烈火の如く怒られそうな気がしてたまらず、逢うのに頗《すこぶ》るおっくうがる性質でしたので、いよいよ、銀座は敬遠の形でしたが、しかし、そのおっくうがるという性質は、決して自分の狡猾《こうかつ》さではなく、女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、塵《ちり》ほどの、つながりをも持たせず、完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて生きているという不思議な現象を、まだよく呑みこんでいなかったからなのでした。
 十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安酒を飲み、この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで飲もうと主張し、もう自分たちにはお金が無いのに、それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。その時、自分は、酔って大胆になっているからでもありましたが、
「よし、そんなら、夢の国に連れて行く。おどろくな、酒池肉林という、……」
「カフエか?」
「そう」
「行こう!」
 というような事になって二人、市電に乗り、堀木は、はしゃいで、
「おれは、今夜は、女に飢え渇いているんだ。女給にキスしてもいいか」
 自分は、堀木がそんな酔態を演じる事を、あまり好んでいないのでした。堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を押すのでした。
「いいか。キスするぜ。おれの傍に坐った女給に、きっとキスして見せる。いいか」
「かまわんだろう」
「ありがたい! おれは女に飢え渇いているんだ」
 銀座四丁目で降りて、その所謂酒池肉林の大カフエに、ツネ子をたのみの綱としてほとんど無一文ではいり、あいているボックスに堀木と向い合って腰をおろしたとたんに、ツネ子ともう一人の女給が走り寄って来て、そのもう一人の女給が自分の傍に、そうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、自分は、ハッとしました。ツネ子は、いまにキスされる。
 惜しいという気持ではありませんでした。自分には、もともと所有慾というものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持はあっても、その所有権を敢然と主張し、人と争うほどの気力が無いのでした。のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、黙って見ていた事さえあったほどなのです。
 自分は、人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。ツネ子と自分とは、一夜だけの間柄です。ツネ子は、自分のものではありません。惜しい、など思い上った慾は、自分に持てる筈はありません。けれども、自分は、ハッとしました。
 自分の眼の前で、堀木の猛烈なキスを受ける、そのツネ子の身の上を、ふびんに思ったからでした。堀木によごされたツネ子は、自分とわかれなければならなくなるだろう、しかも自分にも、ツネ子を引き留める程のポジティヴな熱は無い、ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸に一瞬ハッとしたものの、すぐに自分は水のように素直にあきらめ、堀木とツネ子の顔を見較べ、にやにやと笑いました。
 しかし、事態は、実に思いがけなく、もっと悪く展開せられました。
「やめた!」
 と堀木は、口をゆがめて言い、
「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には、……」
 閉口し切ったように、腕組みしてツネ子をじろじろ眺め、苦笑するのでした。
「お酒を。お金は無い」
 自分は、小声でツネ子に言いました。それこそ、浴びるほど飲んでみたい気持でした。所謂俗物の眼から見ると、ツネ子は酔漢のキスにも価いしない、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい女だったのでした。案外とも、意外とも、自分には霹靂《へきれき》に撃ちくだかれた思いでした。自分は、これまで例の無かったほど、いくらでも、いくらでも、お酒を飲み、ぐらぐら酔って、ツネ子と顔を見合せ、哀《かな》しく微笑《ほほえ》み合い、いかにもそう言われてみると、こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、金の無い者どうしの親和(貧富の不和は、陳腐のようでも、やはりドラマの永遠のテーマの一つだと自分は今では思っていますが)そいつが、その親和感が、胸に込み上げて来て、ツネ子がいとしく、生れてこの時はじめて、われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました。吐きました。前後不覚になりました。お酒を飲んで、こんなに我を失うほど酔ったのも、その時がはじめてでした。
 眼が覚めたら、枕もとにツネ子が坐っていました。本所の大工さんの二階の部屋に寝ていたのでした。
「金の切れめが縁の切れめ、なんておっしゃって、冗談かと思うていたら、本気か。来てくれないのだもの。ややこしい切れめやな。うちが、かせいであげても、だめか」
「だめ」
 それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。
 けれども、その時にはまだ、実感としての「死のう」という覚悟は、出来ていなかったのです。どこかに「遊び」がひそんでいました。
 その日の午前、二人は浅草の六区をさまよっていました。喫茶店にはいり、牛乳を飲みました。
「あなた、払うて置いて」
 自分は立って、袂《たもと》からがま口を出し、ひらくと、銅銭が三枚、羞恥《しゅうち》よりも凄惨《せいさん》の思いに襲われ、たちまち脳裡《のうり》に浮ぶものは、仙遊館の自分の部屋、制服と蒲団だけが残されてあるきりで、あとはもう、質草になりそうなものの一つも無い荒涼たる部屋、他には自分のいま着て步いている絣の着物と、マント、これが自分の現実なのだ、生きて行けない、とはっきり思い知りました。
 自分がまごついているので、女も立って、自分のがま口をのぞいて、
「あら、たったそれだけ?」
 無心の声でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かったのです。それだけも、これだけもない、銅銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分が未《いま》だかつて味わった事の無い奇妙な屈辱でした。とても生きておられない屈辱でした。所詮《しょせん》その頃の自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという種属から脱し切っていなかったのでしょう。その時、自分は、みずからすすんでも死のうと、実感として[#「実感として」に傍点]決意したのです。
 その夜、自分たちは、鎌倉の海に飛び込みました。女は、この帯はお店のお友達から借りている帯やから、と言って、帯をほどき、畳んで岩の上に置き、自分もマントを脱ぎ、同じ所に置いて、一緒に入水《じゅすい》しました。
 女のひとは、死にました。そうして、自分だけ助かりました。
 自分が高等学校の生徒ではあり、また父の名にもいくらか、所謂ニュウス.ヴァリュがあったのか、新聞にもかなり大きな問題として取り上げられたようでした。
 自分は海辺の病院に収容せられ、故郷から親戚《しんせき》の者がひとり駈けつけ、さまざまの始末をしてくれて、そうして、くにの父をはじめ一家中が激怒しているから、これっきり生家とは義絶になるかも知れぬ、と自分に申し渡して帰りました。けれども自分は、そんな事より、死んだツネ子が恋いしく、めそめそ泣いてばかりいました。本当に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、すきだったのですから。
 下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた長い手紙が来ました。「生きくれよ」というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、五十でした。また、自分の病室に、看護婦たちが陽気に笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっと握って帰る看護婦もいました。
 自分の左肺に故障のあるのを、その病院で発見せられ、これがたいへん自分に好都合な事になり、やがて自分が自殺|幇助《ほうじょ》罪という罪名で病院から警察に連れて行かれましたが、警察では、自分を病人あつかいにしてくれて、特に保護室に収容しました。
 深夜、保護室の隣りの宿直室で、寝ずの番をしていた年寄りのお巡《まわ》りが、間のドアをそっとあけ、
「おい!」
 と自分に声をかけ、
「寒いだろう。こっちへ来て、あたれ」
 と言いました。
 自分は、わざとしおしおと宿直室にはいって行き、椅子に腰かけて火鉢にあたりました。
「やはり、死んだ女が恋いしいだろう」
「はい」
 ことさらに、消え入るような細い声で返事しました。
「そこが、やはり人情というものだ」
 彼は次第に、大きく構えて来ました。
「はじめ、女と関係を結んだのは、どこだ」
 ほとんど裁判官の如く、もったいぶって尋ねるのでした。彼は、自分を子供とあなどり、秋の夜のつれづれに、あたかも彼自身が取調べの主任でもあるかのように装い、自分から猥談《わいだん》めいた述懐を引き出そうという魂胆のようでした。自分は素早くそれを察し、噴き出したいのを怺《こら》えるのに骨を折りました。そんなお巡りの「非公式な訊問」には、いっさい答を拒否してもかまわないのだという事は、自分も知っていましたが、しかし、秋の夜ながに興を添えるため、自分は、あくまでも神妙に、そのお巡りこそ取調べの主任であって、刑罰の軽重の決定もそのお巡りの思召《おぼしめ》し一つに在るのだ、という事を固く信じて疑わないような所謂誠意をおもてにあらわし、彼の助平の好奇心を、やや満足させる程度のいい加減な「陳述」をするのでした。
「うん、それでだいたいわかった。何でも正直に答えると、わしらのほうでも、そこは手心を加える」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
 ほとんど入神の演技でした。そうして、自分のためには、何も、一つも、とくにならない力演なのです。
 夜が明けて、自分は署長に呼び出されました。こんどは、本式の取調べなのです。
 ドアをあけて、署長室にはいったとたんに、
「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ」
 色の浅黒い、大学出みたいな感じのまだ若い署長でした。いきなりそう言われて自分は、自分の顔の半面にべったり赤痣《あかあざ》でもあるような、みにくい不具者のような、みじめな気がしました。
 この柔道か剣道の選手のような署長の取調べは、実にあっさりしていて、あの深夜の老巡査のひそかな、執拗《しつよう》きわまる好色の「取調べ」とは、雲泥の差がありました。訊問がすんで、署長は、検事局に送る書類をしたためながら、
「からだを丈夫にしなけれゃ、いかんね。血痰《けったん》が出ているようじゃないか」
 と言いました。
 その朝、へんに咳《せき》が出て、自分は咳の出るたびに、ハンケチで口を覆っていたのですが、そのハンケチに赤い霰《あられ》が降ったみたいに血がついていたのです。けれども、それは、喉《のど》から出た血ではなく、昨夜、耳の下に出来た小さいおできをいじって、そのおできから出た血なのでした。しかし、自分は、それを言い明さないほうが、便宜な事もあるような気がふっとしたものですから、ただ、
「はい」
 と、伏眼になり、殊勝げに答えて置きました。
 署長は書類を書き終えて、
「起訴になるかどうか、それは検事殿がきめることだが、お前の身元引受人に、電報か電話で、きょう横浜の検事局に来てもらうように、たのんだほうがいいな。誰か、あるだろう、お前の保護者とか保証人とかいうものが」
 父の東京の別荘に出入りしていた書画|骨董《こっとう》商の渋田という、自分たちと同郷人で、父のたいこ持ちみたいな役も勤めていたずんぐりした独身の四十男が、自分の学校の保証人になっているのを、自分は思い出しました。その男の顔が、殊に眼つきが、ヒラメに似ているというので、父はいつもその男をヒラメと呼び、自分も、そう呼びなれていました。
 自分は警察の電話帳を借りて、ヒラメの家の電話番号を捜し、見つかったので、ヒラメに電話して、横浜の検事局に来てくれるように頼みましたら、ヒラメは人が変ったみたいな威張った口調で、それでも、とにかく引受けてくれました。
「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。何せ、血痰が出ているんだから」
 自分が、また保護室に引き上げてから、お巡りたちにそう言いつけている署長の大きな声が、保護室に坐っている自分の耳にまで、とどきました。
 お昼すぎ、自分は、細い麻繩で胴を縛られ、それはマントで隠すことを許されましたが、その麻繩の端を若いお巡りが、しっかり握っていて、二人一緒に電車で横浜に向いました。
 けれども、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、嗚呼《ああ》、自分はどうしてこうなのでしょう、罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ちついて、その時の追憶を、いま書くに当っても、本当にのびのびした楽しい気持になるのです。
 しかし、その時期のなつかしい[#「なつかしい」に傍点]思い出の中にも、たった一つ、冷汗三斗の、生涯わすれられぬ悲惨なしくじりがあったのです。自分は、検事局の薄暗い一室で、検事の簡単な取調べを受けました。検事は四十歳前後の物静かな、(もし自分が美貌だったとしても、それは謂《い》わば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静謐《せいひつ》の気配を持っていました)コセコセしない人柄のようでしたので、自分も全く警戒せず、ぼんやり陳述していたのですが、突然、れいの咳が出て来て、自分は袂からハンケチを出し、ふとその血を見て、この咳もまた何かの役に立つかも知れぬとあさましい駈引きの心を起し、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけの贋《にせ》の咳を大袈裟《おおげさ》に附け加えて、ハンケチで口を覆ったまま検事の顔をちらと見た、間一髪、
「ほんとうかい?」
 ものしずかな微笑でした。冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきり舞いをしたくなります。中学時代に、あの馬鹿の竹一から、ワザ、ワザ、と言われて脊中《せなか》を突かれ、地獄に蹴落《けおと》された、その時の思い以上と言っても、決して過言では無い気持です。あれと、これと、二つ、自分の生涯に於ける演技の大失敗の記録です。検事のあんな物静かな侮蔑《ぶべつ》に遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思う事さえ、時たまある程なのです。
 自分は起訴猶予になりました。けれども一向にうれしくなく、世にもみじめな気持で、検事局の控室のベンチに腰かけ、引取り人のヒラメが来るのを待っていました。
 背後の高い窓から夕焼けの空が見え、鴎《かもめ》が、「女」という字みたいな形で飛んでいました。
[#改頁]

   第三の手記

 竹一の予言の、一つは当り、一つは、はずれました。惚《ほ》れられるという、名誉で無い予言のほうは、あたりましたが、きっと偉い絵画きになるという、祝福の予言は、はずれました。
 自分は、わずかに、粗悪な雑誌の、無名の下手な漫画家になる事が出来ただけでした。
 鎌倉の事件のために、高等学校からは追放せられ、自分は、ヒラメの家の二階の、三畳の部屋で寝起きして、故郷からは月々、極めて小額の金が、それも直接に自分宛ではなく、ヒラメのところにひそかに送られて来ている様子でしたが、(しかも、それは故郷の兄たちが、父にかくして送ってくれているという形式になっていたようでした)それっきり、あとは故郷とのつながりを全然、断ち切られてしまい、そうして、ヒラメはいつも不機嫌、自分があいそ笑いをしても、笑わず、人間というものはこんなにも簡単に、それこそ手のひらをかえすが如くに変化できるものかと、あさましく、いや、むしろ滑稽に思われるくらいの、ひどい変り様で、
「出ちゃいけませんよ。とにかく、出ないで下さいよ」
 そればかり自分に言っているのでした。
 ヒラメは、自分に自殺のおそれありと、にらんでいるらしく、つまり、女の後を追ってまた海へ飛び込んだりする危険があると見てとっているらしく、自分の外出を固く禁じているのでした。けれども、酒も飲めないし、煙草も吸えないし、ただ、朝から晚まで二階の三畳のこたつにもぐって、古雑誌なんか読んで阿呆同然のくらしをしている自分には、自殺の気力さえ失われていました。
 ヒラメの家は、大久保の医専の近くにあり、書画骨董商、青竜園、だなどと看板の文字だけは相当に気張っていても、一棟二戸の、その一戸で、店の間口も狭く、店内はホコリだらけで、いい加減なガラクタばかり並べ、(もっとも、ヒラメはその店のガラクタにたよって商売しているわけではなく、こっちの所謂旦那の秘蔵のものを、あっちの所謂旦那にその所有権をゆずる場合などに活躍して、お金をもうけているらしいのです)店に坐っている事は殆ど無く、たいてい朝から、むずかしそうな顔をしてそそくさと出かけ、留守は十七、八の小僧ひとり、これが自分の見張り番というわけで、ひまさえあれば近所の子供たちと外でキャッチボールなどしていても、二階の居候をまるで馬鹿か気違いくらいに思っているらしく、大人《おとな》の説教くさい事まで自分に言い聞かせ、自分は、ひとと言い争いの出来ない質《たち》なので、疲れたような、また、感心したような顔をしてそれに耳を傾け、服従しているのでした。この小僧は渋田のかくし子で、それでもへんな事情があって、渋田は所謂親子の名乗りをせず、また渋田がずっと独身なのも、何やらその辺に理由があっての事らしく、自分も以前、自分の家の者たちからそれに就いての噂《うわさ》を、ちょっと聞いたような気もするのですが、自分は、どうも他人の身の上には、あまり興味を持てないほうなので、深い事は何も知りません。しかし、その小僧の眼つきにも、妙に魚の眼を聯想《れんそう》させるところがありましたから、或いは、本当にヒラメのかくし子、……でも、それならば、二人は実に淋しい親子でした。夜おそく、二階の自分には内緒で、二人でおそばなどを取寄せて無言で食べている事がありました。
 ヒラメの家では食事はいつもその小僧がつくり、二階のやっかい者の食事だけは別にお膳《ぜん》に載せて小僧が三度々々二階に持ち運んで来てくれて、ヒラメと小僧は、階段の下のじめじめした四畳半で何やら、カチャカチャ皿小鉢の触れ合う音をさせながら、いそがしげに食事しているのでした。
 三月末の或る夕方、ヒラメは思わぬもうけ口にでもありついたのか、または何か他に策略でもあったのか、(その二つの推察が、ともに当っていたとしても、おそらくは、さらにまたいくつかの、自分などにはとても推察のとどかないこまかい原因もあったのでしょうが)自分を階下の珍らしくお銚子《ちょうし》など附いている食卓に招いて、ヒラメならぬマグロの刺身に、ごちそうの主人《あるじ》みずから感服し、賞讃《しょうさん》し、ぼんやりしている居候にも少しくお酒をすすめ、
「どうするつもりなんです、いったい、これから」
 自分はそれに答えず、卓上の皿から畳鰯《たたみいわし》をつまみ上げ、その小魚たちの銀の眼玉を眺めていたら、酔いがほのぼの発して来て、遊び廻っていた頃がなつかしく、堀木でさえなつかしく、つくづく「自由」が欲しくなり、ふっと、かぼそく泣きそうになりました。
 自分がこの家へ来てからは、道化を演ずる張合いさえ無く、ただもうヒラメと小僧の蔑視の中に身を横たえ、ヒラメのほうでもまた、自分と打ち解けた長噺をするのを避けている様子でしたし、自分もそのヒラメを追いかけて何かを訴える気などは起らず、ほとんど自分は、間抜けづらの居候になり切っていたのです。
「起訴猶予というのは、前科何犯とか、そんなものには、ならない模様です。だから、まあ、あなたの心掛け一つで、更生が出来るわけです。あなたが、もし、改心して、あなたのほうから、真面目に私に相談を持ちかけてくれたら、私も考えてみます」
 ヒラメの話方には、いや、世の中の全部の人の話方には、このようにややこしく、どこか朦朧《もうろう》として、逃腰とでもいったみたいな微妙な複雑さがあり、そのほとんど無益と思われるくらいの厳重な警戒と、無数といっていいくらいの小うるさい駈引とには、いつも自分は当惑し、どうでもいいやという気分になって、お道化で茶化したり、または無言の首肯で一さいおまかせという、謂わば敗北の態度をとってしまうのでした。
 この時もヒラメが、自分に向って、だいたい次のように簡単に報告すれば、それですむ事だったのを自分は後年に到って知り、ヒラメの不必要な用心、いや、世の中の人たちの不可解な見栄、おていさいに、何とも陰鬱な思いをしました。
 ヒラメは、その時、ただこう言えばよかったのでした。
「官立でも私立でも、とにかく四月から、どこかの学校へはいりなさい。あなたの生活費は、学校へはいると、くにから、もっと充分に送って来る事になっているのです。」
 ずっと後になってわかったのですが、事実は、そのようになっていたのでした。そうして、自分もその言いつけに従ったでしょう。それなのに、ヒラメのいやに用心深く持って廻った言い方のために、妙にこじれ、自分の生きて行く方向もまるで変ってしまったのです。
「真面目に私に相談を持ちかけてくれる気持が無ければ、仕様がないですが」
「どんな相談?」
 自分には、本当に何も見当がつかなかったのです。
「それは、あなたの胸にある事でしょう?」
「たとえば?」
「たとえばって、あなた自身、これからどうする気なんです」
「働いたほうが、いいんですか?」
「いや、あなたの気持は、いったいどうなんです」
「だって、学校へはいるといったって、……」
「そりゃ、お金が要ります。しかし、問題は、お金でない。あなたの気持です」
 お金は、くにから来る事になっているんだから、となぜ一こと、言わなかったのでしょう。その一言に依って、自分の気持も、きまった筈なのに、自分には、ただ五里霧中でした。
「どうですか? 何か、将来の希望、とでもいったものが、あるんですか? いったい、どうも、ひとをひとり世話しているというのは、どれだけむずかしいものだか、世話されているひとには、わかりますまい」
「すみません」
「そりゃ実に、心配なものです。私も、いったんあなたの世話を引受けた以上、あなたにも、生半可《なまはんか》な気持でいてもらいたくないのです。立派に更生の道をたどる、という覚悟のほどを見せてもらいたいのです。たとえば、あなたの将来の方針、それに就いてあなたのほうから私に、まじめに相談を持ちかけて来たなら、私もその相談には応ずるつもりでいます。それは、どうせこんな、貧乏なヒラメの援助なのですから、以前のようなぜいたくを望んだら、あてがはずれます。しかし、あなたの気持がしっかりしていて、将来の方針をはっきり打ち樹《た》て、そうして私に相談をしてくれたら、私は、たといわずかずつでも、あなたの更生のために、お手伝いしようとさえ思っているんです。わかりますか? 私の気持が。いったい、あなたは、これから、どうするつもりでいるのです」
「ここの二階に、置いてもらえなかったら、働いて、……」
「本気で、そんな事を言っているのですか? いまのこの世の中に、たとい帝国大学校を出たって、……」
「いいえ、サラリイマンになるんでは無いんです」
「それじゃ、何です」
「画家です」
 思い切って、それを言いました。
「へええ?」
 自分は、その時の、頸《くび》をちぢめて笑ったヒラメの顔の、いかにもずるそうな影を忘れる事が出来ません。軽蔑の影にも似て、それとも違い、世の中を海にたとえると、その海の千尋《ちひろ》の深さの箇所に、そんな奇妙な影がたゆとうていそうで、何か、おとなの生活の奥底をチラと覗《のぞ》かせたような笑いでした。
 そんな事では話にも何もならぬ、ちっとも気持がしっかりしていない、考えなさい、今夜一晚まじめに考えてみなさい、と言われ、自分は追われるように二階に上って、寝ても、別に何の考えも浮びませんでした。そうして、あけがたになり、ヒラメの家から逃げました。
 夕方、間違いなく帰ります。左記の友人の許《もと》へ、将来の方針に就いて相談に行って来るのですから、御心配無く。ほんとうに。
 と、用箋に鉛筆で大きく書き、それから、浅草の堀木正雄の住所姓名を記して、こっそり、ヒラメの家を出ました。
 ヒラメに説教せられたのが、くやしくて逃げたわけではありませんでした。まさしく自分は、ヒラメの言うとおり、気持のしっかりしていない男で、将来の方針も何も自分にはまるで見当がつかず、この上、ヒラメの家のやっかいになっているのは、ヒラメにも気の毒ですし、そのうちに、もし万一、自分にも発奮の気持が起り、志を立てたところで、その更生資金をあの貧乏なヒラメから月々援助せられるのかと思うと、とても心苦しくて、いたたまらない気持になったからでした。
 しかし、自分は、所謂「将来の方針」を、堀木ごときに、相談に行こうなどと本気に思って、ヒラメの家を出たのでは無かったのでした。それは、ただ、わずかでも、つかのまでも、ヒラメに安心させて置きたくて、(その間に自分が、少しでも遠くへ逃げのびていたいという探偵小説的な策略から、そんな置手紙を書いた、というよりは、いや、そんな気持も幽《かす》かにあったに違いないのですが、それよりも、やはり自分は、いきなりヒラメにショックを与え、彼を混乱当惑させてしまうのが、おそろしかったばかりに、とでも言ったほうが、いくらか正確かも知れません。どうせ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、それは世間の人が「嘘つき」と呼んで卑しめている性格に似ていながら、しかし、自分は自分に利益をもたらそうとしてその飾りつけを行った事はほとんど無く、ただ雰囲気《ふんいき》の興覚めた一変が、窒息するくらいにおそろしくて、後で自分に不利益になるという事がわかっていても、れいの自分の「必死の奉仕」それはたといゆがめられ微弱で、馬鹿らしいものであろうと、その奉仕の気持から、つい一言の飾りつけをしてしまうという場合が多かったような気もするのですが、しかし、この習性もまた、世間の所謂「正直者」たちから、大いに乗ぜられるところとなりました)その時、ふっと、記憶の底から浮んで来たままに堀木の住所と姓名を、用箋の端にしたためたまでの事だったのです。
 自分はヒラメの家を出て、新宿まで步き、懐中の本を売り、そうして、やっぱり途方にくれてしまいました。自分は、皆にあいそがいいかわりに、「友情」というものを、いちども実感した事が無く、堀木のような遊び友達は別として、いっさいの附き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうとして懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っているひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、めまいするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に於《お》いては欠けているところがあるようでした。(もっとも、自分は、世の中の人間にだって、果して、「愛」の能力があるのかどうか、たいへん疑問に思っています)そのような自分に、所謂「親友」など出来る筈は無く、そのうえ自分には、「訪問《ヴィジット》」の能力さえ無かったのです。他人の家の門は、自分にとって、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、誇張でなしに、実感せられていたのです。
 誰とも、附き合いが無い。どこへも、訪ねて行けない。
 堀木。
 それこそ、冗談から駒が出た形でした。あの置手紙に、書いたとおりに、自分は浅草の堀木をたずねて行く事にしたのです。自分はこれまで、自分のほうから堀木の家をたずねて行った事は、いちども無く、たいてい電報で堀木を自分のほうに呼び寄せていたのですが、いまはその電報料さえ心細く、それに落ちぶれた身のひがみから、電報を打っただけでは、堀木は、来てくれぬかも知れぬと考えて、何よりも自分に苦手の「訪問」を決意し、溜息《ためいき》をついて市電に乗り、自分にとって、この世の中でたった一つの頼みの綱は、あの堀木なのか、と思い知ったら、何か脊筋《せすじ》の寒くなるような凄《すさま》じい気配に襲われました。
 堀木は、在宅でした。汚い露路の奥の、二階家で、堀木は二階のたった一部屋の六畳を使い、下では、堀木の老父母と、それから若い職人と三人、下駄の鼻緒を縫ったり叩いたりして製造しているのでした。
 堀木は、その日、彼の都会人としての新しい一面を自分に見せてくれました。それは、俗にいうチャッカリ性でした。田舎者の自分が、愕然《がくぜん》と眼をみはったくらいの、冷たく、ずるいエゴイズムでした。自分のように、ただ、とめどなく流れるたちの男では無かったのです。
「お前には、全く呆《あき》れた。親爺さんから、お許しが出たかね。まだかい」
 逃げて来た、とは、言えませんでした。
 自分は、れいに依って、ごまかしました。いまに、すぐ、堀木に気附かれるに違いないのに、ごまかしました。
「それは、どうにかなるさ」
「おい、笑いごとじゃ無いぜ。忠告するけど、馬鹿もこのへんでやめるんだな。おれは、きょうは、用事があるんだがね。この頃、ばかにいそがしいんだ」
「用事って、どんな?」
「おい、おい、座蒲団の糸を切らないでくれよ」
 自分は話をしながら、自分の敷いている座蒲団の綴糸《とじいと》というのか、くくり紐《ひも》というのか、あの総《ふさ》のような四隅の糸の一つを無意識に指先でもてあそび、ぐいと引っぱったりなどしていたのでした。堀木は、堀木の家の品物なら、座蒲団の糸一本でも惜しいらしく、恥じる色も無く、それこそ、眼に角《かど》を立てて、自分をとがめるのでした。考えてみると、堀木は、これまで自分との附合いに於いて何一つ失ってはいなかったのです。
 堀木の老母が、おしるこを二つお盆に載せて持って来ました。
「あ、これは」
 と堀木は、しんからの孝行息子のように、老母に向って恐縮し、言葉づかいも不自然なくらい丁寧に、
「すみません、おしるこですか。豪気だなあ。こんな心配は、要らなかったんですよ。用事で、すぐ外出しなけれゃいけないんですから。いいえ、でも、せっかくの御自慢のおしるこを、もったいない。いただきます。お前も一つ、どうだい。おふくろが、わざわざ作ってくれたんだ。ああ、こいつあ、うめえや。豪気だなあ」
 と、まんざら芝居でも無いみたいに、ひどく喜び、おいしそうに食べるのです。自分もそれを啜《すす》りましたが、お湯のにおいがして、そうして、お餅をたべたら、それはお餅でなく、自分にはわからないものでした。決して、その貧しさを軽蔑したのではありません。(自分は、その時それを、不味《まず》いとは思いませんでしたし、また、老母の心づくしも身にしみました。自分には、貧しさへの恐怖感はあっても、軽蔑感は、無いつもりでいます)あのおしること、それから、そのおしるこを喜ぶ堀木に依って、自分は、都会人のつましい本性、また、内と外をちゃんと区別していとなんでいる東京の人の家庭の実体を見せつけられ、内も外も変りなく、ただのべつ幕無しに人間の生活から逃げ廻ってばかりいる薄馬鹿の自分ひとりだけ完全に取残され、堀木にさえ見捨てられたような気配に、狼狽《ろうばい》し、おしるこのはげた塗箸《ぬりばし》をあつかいながら、たまらなく侘《わ》びしい思いをしたという事を、記して置きたいだけなのです。
「わるいけど、おれは、きょうは用事があるんでね」
 堀木は立って、上衣を着ながらそう言い、
「失敬するぜ、わるいけど」
 その時、堀木に女の訪問者があり、自分の身の上も急転しました。
 堀木は、にわかに活気づいて、
「や、すみません。いまね、あなたのほうへお伺いしようと思っていたのですがね、このひとが突然やって来て、いや、かまわないんです。さあ、どうぞ」
 よほど、あわてているらしく、自分が自分の敷いている座蒲団をはずして裏がえしにして差し出したのを引ったくって、また裏がえしにして、その女のひとにすすめました。部屋には、堀木の座蒲団の他には、客座蒲団がたった一枚しか無かったのです。
 女のひとは痩《や》せて、脊の高いひとでした。その座蒲団は傍にのけて、入口ちかくの片隅に坐りました。
 自分は、ぼんやり二人の会話を聞いていました。女は雑誌社のひとのようで、堀木にカットだか、何だかをかねて頼んでいたらしく、それを受取りに来たみたいな具合いでした。
「いそぎますので」
「出来ています。もうとっくに出来ています。これです、どうぞ」
 電報が来ました。
 堀木が、それを読み、上機嫌のその顔がみるみる険悪になり、
「ちぇっ! お前、こりゃ、どうしたんだい」
 ヒラメからの電報でした。
「とにかく、すぐに帰ってくれ。おれが、お前を送りとどけるといいんだろうが、おれにはいま、そんなひまは、無えや。家出していながら、その、のんきそうな面《つら》ったら」
「お宅は、どちらなのですか?」
「大久保です」
 ふいと答えてしまいました。
「そんなら、社の近くですから」
 女は、甲州の生れで二十八歳でした。五つになる女児と、高円寺のアパートに住んでいました。夫と死別して、三年になると言っていました。
「あなたは、ずいぶん苦労して育って来たみたいなひとね。よく気がきくわ。可哀そうに」
 はじめて、男めかけみたいな生活をしました。シヅ子(というのが、その女記者の名前でした)が新宿の雑誌社に勤めに出たあとは、自分とそれからシゲ子という五つの女児と二人、おとなしくお留守番という事になりました。それまでは、母の留守には、シゲ子はアパートの管理人の部屋で遊んでいたようでしたが、「気のきく」おじさんが遊び相手として現われたので、大いに御機嫌がいい様子でした。
 一週間ほど、ぼんやり、自分はそこにいました。アパートの窓のすぐ近くの電線に、奴凧《やっこだこ》が一つひっからまっていて、春のほこり風に吹かれ、破られ、それでもなかなか、しつっこく電線にからみついて離れず、何やら首肯《うなず》いたりなんかしているので、自分はそれを見る度毎に苦笑し、赤面し、夢にさえ見て、うなされました。
「お金が、ほしいな」
「……いくら位?」
「たくさん。……金の切れ目が、縁の切れ目、って、本当の事だよ」
「ばからしい。そんな、古くさい、……」
「そう? しかし、君には、わからないんだ。このままでは、僕は、逃げる事になるかも知れない」
「いったい、どっちが貧乏なのよ。そうして、どっちが逃げるのよ。へんねえ」
「自分でかせいで、そのお金で、お酒、いや、煙草を買いたい。絵だって僕は、堀木なんかより、ずっと上手なつもりなんだ」
 このような時、自分の脳裡におのずから浮びあがって来るものは、あの中学時代に画いた竹一の所謂「お化け」の、数枚の自画像でした。失われた傑作。それは、たびたびの引越しの間に、失われてしまっていたのですが、あれだけは、たしかに優れている絵だったような気がするのです。その後、さまざま画いてみても、その思い出の中の逸品には、遠く遠く及ばず、自分はいつも、胸がからっぽになるような、だるい喪失感になやまされ続けて来たのでした。
 飲み残した一杯のアブサン。
 自分は、その永遠に償い難いような喪失感を、こっそりそう形容していました。絵の話が出ると、自分の眼前に、その飲み残した一杯のアブサンがちらついて来て、ああ、あの絵をこのひとに見せてやりたい、そうして、自分の画才を信じさせたい、という焦燥《しょうそう》にもだえるのでした。
「ふふ、どうだか。あなたは、まじめな顔をして冗談を言うから可愛い」
 冗談ではないのだ、本当なんだ、ああ、あの絵を見せてやりたい、と空転の煩悶《はんもん》をして、ふいと気をかえ、あきらめて、
「漫画さ。すくなくとも、漫画なら、堀木よりは、うまいつもりだ」
 その、ごまかしの道化の言葉のほうが、かえってまじめに信ぜられました。
「そうね。私も、実は感心していたの。シゲ子にいつもかいてやっている漫画、つい私まで噴き出してしまう。やってみたら、どう? 私の社の編輯長《へんしゅうちょう》に、たのんでみてあげてもいいわ」
 その社では、子供相手のあまり名前を知られていない月刊の雑誌を発行していたのでした。
 ……あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。……いつも、おどおどしていて、それでいて、滑稽家なんだもの。……時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女のひとの心を、かゆがらせる。
 シヅ子に、そのほかさまざまの事を言われて、おだてられても、それが即《すなわ》ち男めかけのけがらわしい特質なのだ、と思えば、それこそいよいよ「沈む」ばかりで、一向に元気が出ず、女よりは金、とにかくシヅ子からのがれて自活したいとひそかに念じ、工夫しているものの、かえってだんだんシヅ子にたよらなければならぬ破目になって、家出の後仕末やら何やら、ほとんど全部、この男まさりの甲州女の世話を受け、いっそう自分は、シヅ子に対し、所謂「おどおど」しなければならぬ結果になったのでした。
 シヅ子の取計らいで、ヒラメ、堀木、それにシヅ子、三人の会談が成立して、自分は、故郷から全く絶縁せられ、そうしてシヅ子と「天下晴れて」同棲《どうせい》という事になり、これまた、シヅ子の奔走のおかげで自分の漫画も案外お金になって、自分はそのお金で、お酒も、煙草も買いましたが、自分の心細さ、うっとうしさは、いよいよつのるばかりなのでした。それこそ「沈み」に「沈み」切って、シヅ子の雑誌の毎月の連載漫画「キンタさんとオタさんの冒険」を画いていると、ふいと故郷の家が思い出され、あまりの侘びしさに、ペンが動かなくなり、うつむいて涙をこぼした事もありました。
 そういう時の自分にとって、幽かな救いは、シゲ子でした。シゲ子は、その頃になって自分の事を、何もこだわらずに「お父ちゃん」と呼んでいました。
「お父ちゃん。お祈りをすると、神様が、何でも下さるって、ほんとう?」
 自分こそ、そのお祈りをしたいと思いました。
 ああ、われに冷き意志を与え給え。われに、「人間」の本質を知らしめ給え。人が人を押しのけても、罪ならずや。われに、怒りのマスクを与え給え。
「うん、そう。シゲちゃんには何でも下さるだろうけれども、お父ちゃんには、駄目かも知れない」
 自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞《むち》を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。
「どうして、ダメなの?」
「親の言いつけに、そむいたから」
「そう? お父ちゃんはとてもいいひとだって、みんな言うけどな」
 それは、だましているからだ、このアパートの人たち皆に、自分が好意を示されているのは、自分も知っている、しかし、自分は、どれほど皆を恐怖しているか、恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ、この不幸な病癖を、シゲ子に説明して聞かせるのは、至難の事でした。
「シゲちゃんは、いったい、神様に何をおねだりしたいの?」
 自分は、何気無さそうに話頭を転じました。
「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」
 ぎょっとして、くらくら目まいしました。敵。自分がシゲ子の敵なのか、シゲ子が自分の敵なのか、とにかく、ここにも自分をおびやかすおそろしい大人がいたのだ、他人、不可解な他人、秘密だらけの他人、シゲ子の顔が、にわかにそのように見えて来ました。
 シゲ子だけは、と思っていたのに、やはり、この者も、あの「不意に虻《あぶ》を叩き殺す牛のしっぽ」を持っていたのでした。自分は、それ以来、シゲ子にさえおどおどしなければならなくなりました。
「色魔《しきま》! いるかい?」
 堀木が、また自分のところへたずねて来るようになっていたのです。あの家出の日に、あれほど自分を淋しくさせた男なのに、それでも自分は拒否できず、幽かに笑って迎えるのでした。
「お前の漫画は、なかなか人気が出ているそうじゃないか。アマチュアには、こわいもの知らずの糞度胸《くそどきょう》があるからかなわねえ。しかし、油断するなよ。デッサンが、ちっともなってやしないんだから」
 お師匠みたいな態度をさえ示すのです。自分のあの「お化け」の絵を、こいつに見せたら、どんな顔をするだろう、とれいの空転の身悶《みもだ》えをしながら、
「それを言ってくれるな。ぎゃっという悲鳴が出る」
 堀木は、いよいよ得意そうに、
「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」
 世渡りの才能。……自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。自分に、世渡りの才能! しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺《ぞくげん》の「さわらぬ神にたたりなし」とかいう怜悧《れいり》狡猾《こうかつ》の処生訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。
 堀木は、何せ、(それはシヅ子に押してたのまれてしぶしぶ引受けたに違いないのですが)自分の家出の後仕末に立ち合ったひとなので、まるでもう、自分の更生の大恩人か、月下氷人のように振舞い、もっともらしい顔をして自分にお説教めいた事を言ったり、また、深夜、酔っぱらって訪問して泊ったり、また、五円(きまって五円でした)借りて行ったりするのでした。
「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
 汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗《ひやあせ》、冷汗」
 と言って笑っただけでした。
 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。また、シゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子を可愛がらなくなりました。
 無口で、笑わず、毎日々々、シゲ子のおもりをしながら、「キンタさんとオタさんの冒険」やら、またノンキなトウサンの歴然たる亜流の「ノンキ和尚《おしょう》」やら、また、「セッカチピンチャン」という自分ながらわけのわからぬヤケクソの題の連載漫画やらを、各社の御注文(ぽつりぽつり、シヅ子の社の他からも注文が来るようになっていましたが、すべてそれは、シヅ子の社よりも、もっと下品な謂わば三流出版社からの注文ばかりでした)に応じ、実に実に陰鬱な気持で、のろのろと、(自分の画の運筆は、非常におそいほうでした)いまはただ、酒代がほしいばかりに画いて、そうして、シヅ子が社から帰るとそれと交代にぷいと外へ出て、高円寺の駅近くの屋台やスタンド.バアで安くて強い酒を飲み、少し陽気になってアパートへ帰り、
「見れば見るほど、へんな顔をしているねえ、お前は。ノンキ和尚の顔は、実は、お前の寝顔からヒントを得たのだ」
「あなたの寝顔だって、ずいぶんお老けになりましてよ。四十男みたい」
「お前のせいだ。吸い取られたんだ。水の流れと、人の身はあサ。何をくよくよ川端やなあぎいサ」
「騒がないで、早くおやすみなさいよ。それとも、ごはんをあがりますか?」
 落ちついていて、まるで相手にしません。
「酒なら飲むがね。水の流れと、人の身はあサ。人の流れと、いや、水の流れえと、水の身はあサ」
 唄いながら、シヅ子に衣服をぬがせられ、シヅ子の胸に自分の額を押しつけて眠ってしまう、それが自分の日常でした。

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してその翌日《あくるひ》も同じ事を繰返して、
昨日《きのう》に異《かわ》らぬ慣例《しきたり》に従えばよい。
即ち荒っぽい大きな歓楽《よろこび》を避《よ》けてさえいれば、
自然また大きな悲哀《かなしみ》もやって来《こ》ないのだ。
ゆくてを塞《ふさ》ぐ邪魔な石を
蟾蜍《ひきがえる》は廻って通る。
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 上田敏訳のギイ.シャルル.クロオとかいうひとの、こんな詩句を見つけた時、自分はひとりで顔を燃えるくらいに赤くしました。
 蟾蜍。
(それが、自分だ。世間がゆるすも、ゆるさぬもない。葬むるも、葬むらぬもない。自分は、犬よりも猫よりも劣等な動物なのだ。蟾蜍。のそのそ動いているだけだ)
 自分の飲酒は、次第に量がふえて来ました。高円寺駅附近だけでなく、新宿、銀座のほうにまで出かけて飲み、外泊する事さえあり、ただもう「慣例《しきたり》」に従わぬよう、バアで無頼漢の振りをしたり、片端からキスしたり、つまり、また、あの情死以前の、いや、あの頃よりさらに荒《すさ》んで野卑な酒飲みになり、金に窮して、シヅ子の衣類を持ち出すほどになりました。
 ここへ来て、あの破れた奴凧に苦笑してから一年以上経って、葉桜の頃、自分は、またもシヅ子の帯やら襦袢《じゅばん》やらをこっそり持ち出して質屋に行き、お金を作って銀座で飲み、二晚つづけて外泊して、三日目の晚、さすがに具合い悪い思いで、無意識に足音をしのばせて、アパートのシヅ子の部屋の前まで来ると、中から、シヅ子とシゲ子の会話が聞えます。
「なぜ、お酒を飲むの?」
「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから、……」
「いいひとは、お酒を飲むの?」
「そうでもないけど、……」
「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね」
「おきらいかも知れない。ほら、ほら、箱から飛び出した」
「セッカチピンチャンみたいね」
「そうねえ」
 シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞えました。
 自分が、ドアを細くあけて中をのぞいて見ますと、白兎の子でした。ぴょんぴょん部屋中を、はね廻り、親子はそれを追っていました。
(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)
 自分は、そこにうずくまって合掌したい気持でした。そっと、ドアを閉め、自分は、また銀座に行き、それっきり、そのアパートには帰りませんでした。
 そうして、京橋のすぐ近くのスタンド.バアの二階に自分は、またも男めかけの形で、寝そべる事になりました。
 世間。どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない[#「人間は決して人間に服従しない」に傍点]、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称《とな》えていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋《オーシャン》は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。
 高円寺のアパートを捨て、京橋のスタンド.バアのマダムに、
「わかれて来た」
 それだけ言って、それで充分、つまり一本勝負はきまって、その夜から、自分は乱暴にもそこの二階に泊り込む事になったのですが、しかし、おそろしい筈の「世間」は、自分に何の危害も加えませんでしたし、また自分も「世間」に対して何の弁明もしませんでした。マダムが、その気だったら、それですべてがいいのでした。
 自分は、その店のお客のようでもあり、亭主のようでもあり、走り使いのようでもあり、親戚の者のようでもあり、はたから見て甚《はなは》だ得態《えたい》の知れない存在だった筈なのに、「世間」は少しもあやしまず、そうしてその店の常連たちも、自分を、葉ちゃん、葉ちゃんと呼んで、ひどく優しく扱い、そうしてお酒を飲ませてくれるのでした。
 自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。つまり、これまでの自分の恐怖感は、春の風には百日咳《ひゃくにちぜき》の黴菌《ばいきん》が何十万、銭湯には、目のつぶれる黴菌が何十万、床屋には禿頭《とくとう》病の黴菌が何十万、省線の吊皮《つりかわ》には疥癬《かいせん》の虫がうようよ、または、おさしみ、牛豚肉の生焼けには、さなだ虫の幼虫やら、ジストマやら、何やらの卵などが必ずひそんでいて、また、はだしで步くと足の裏からガラスの小さい破片がはいって、その破片が体内を駈けめぐり眼玉を突いて失明させる事もあるとかいう謂わば「科学の迷信」におびやかされていたようなものなのでした。それは、たしかに何十万もの黴菌の浮び泳ぎうごめいているのは、「科学的」にも、正確な事でしょう。と同時に、その存在を完全に黙殺さえすれば、それは自分とみじんのつながりも無くなってたちまち消え失せる「科学の幽霊」に過ぎないのだという事をも、自分は知るようになったのです。お弁当箱に食べ残しのごはん三粒、千万人が一日に三粒ずつ食べ残しても既にそれは、米何俵をむだに捨てた事になる、とか、或いは、一日に鼻紙一枚の節約を千万人が行うならば、どれだけのパルプが浮くか、などという「科学的統計」に、自分は、どれだけおびやかされ、ごはんを一粒でも食べ残す度毎に、また鼻をかむ度毎に、山ほどの米、山ほどのパルプを空費するような錯覚に悩み、自分がいま重大な罪を犯しているみたいな暗い気持になったものですが、しかし、それこそ「科学の嘘」「統計の嘘」「数学の嘘」で、三粒のごはんは集められるものでなく、掛算割算の応用問題としても、まことに原始的で低能なテーマで、電気のついてない暗いお便所の、あの穴に人は何度にいちど片脚を踏みはずして落下させるか、または、省線電車の出入口と、プラットホームの縁《へり》とのあの隙間に、乗客の何人中の何人が足を落とし込むか、そんなプロバビリティを計算するのと同じ程度にばからしく、それは如何《いか》にも有り得る事のようでもありながら、お便所の穴をまたぎそこねて怪我をしたという例は、少しも聞かないし、そんな仮説を「科学的事実」として教え込まれ、それを全く現実として受取り、恐怖していた昨日までの自分をいとおしく思い、笑いたく思ったくらいに、自分は、世の中というものの実体を少しずつ知って来たというわけなのでした。
 そうは言っても、やはり人間というものが、まだまだ、自分にはおそろしく、店のお客と逢うのにも、お酒をコップで一杯ぐいと飲んでからでなければいけませんでした。こわいもの見たさ。自分は、毎晚、それでもお店に出て、子供が、実は少しこわがっている小動物などを、かえって強くぎゅっと握ってしまうみたいに、店のお客に向って酔ってつたない芸術論を吹きかけるようにさえなりました。
 漫画家。ああ、しかし、自分は、大きな歓楽《よろこび》も、また、大きな悲哀《かなしみ》もない無名の漫画家。いかに大きな悲哀《かなしみ》があとでやって来てもいい、荒っぽい大きな歓楽《よろこび》が欲しいと内心あせってはいても、自分の現在のよろこびたるや、お客とむだ事を言い合い、お客の酒を飲む事だけでした。
 京橋へ来て、こういうくだらない生活を既に一年ちかく続け、自分の漫画も、子供相手の雑誌だけでなく、駅売りの粗悪で卑猥《ひわい》な雑誌などにも載るようになり、自分は、上司幾太(情死、生きた)という、ふざけ切った匿名で、汚いはだかの絵など画き、それにたいていルバイヤットの詩句を插入《そうにゅう》しました。

[#ここから2字下げ]
無駄な御祈りなんか止《よ》せったら
涙を誘うものなんか かなぐりすてろ
まア一杯いこう 好いことばかり思出して
よけいな心づかいなんか忘れっちまいな

不安や恐怖もて人を脅やかす奴輩《やから》は
自《みずから》の作りし大それた罪に怯《おび》え
死にしものの復讐《ふくしゅう》に備えんと
自《みずから》の頭にたえず計いを為《な》す

よべ 酒充ちて我ハートは喜びに充ち
けさ さめて只《ただ》に荒涼
いぶかし 一夜《ひとよ》さの中
様変りたる此《この》気分よ

祟《たた》りなんて思うこと止《や》めてくれ
遠くから響く太鼓のように
何がなしそいつは不安だ
屁《へ》ひったこと迄《まで》一々罪に勘定されたら助からんわい

正義は人生の指針たりとや?
さらば血に塗られたる戦場に
暗殺者の切尖《きっさき》に
何の正義か宿れるや?

いずこに指導原理ありや?
いかなる叡智《えいち》の光ありや?
美《うる》わしくも怖《おそろ》しきは浮世なれ
かよわき人の子は背負切れぬ荷をば負わされ

どうにもできない情慾の種子を植えつけられた許《ばか》りに
善だ悪だ罪だ罰だと呪《のろ》わるるばかり
どうにもできない只まごつくばかり
抑え摧《くだ》く力も意志も授けられぬ許りに

どこをどう彷徨《うろつき》まわってたんだい
ナニ批判 検討 再認識?
ヘッ 空《むな》しき夢を ありもしない幻を
エヘッ 酒を忘れたんで みんな虚仮《こけ》の思案さ

どうだ 此|涯《はて》もない大空を御覧よ
此中にポッチリ浮んだ点じゃい
此地球が何んで自転するのか分るもんか
自転 公転 反転も勝手ですわい

至る処《ところ》に 至高の力を感じ
あらゆる国にあらゆる民族に
同一の人間性を発見する
我は異端者なりとかや

みんな聖経をよみ違えてんのよ
でなきゃ常識も智慧《ちえ》もないのよ
生身《いきみ》の喜びを禁じたり 酒を止めたり
いいわ ムスタッファ わたしそんなの 大嫌い
[#ここで字下げ終わり]

 けれども、その頃、自分に酒を止めよ、とすすめる処女がいました。
「いけないわ、毎日、お昼から、酔っていらっしゃる」
 バアの向いの、小さい煙草屋の十七、八の娘でした。ヨシちゃんと言い、色の白い、八重歯のある子でした。自分が、煙草を買いに行くたびに、笑って忠告するのでした。
「なぜ、いけないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒をのんで、人の子よ、憎悪を消せ消せ消せ、ってね、むかしペルシャのね、まあよそう、悲しみ疲れたるハートに希望を持ち来すは、ただ微醺《びくん》をもたらす玉杯なれ、ってね。わかるかい」
「わからない」
「この野郎。キスしてやるぞ」
「してよ」
 ちっとも悪びれず下唇を突き出すのです。
「馬鹿野郎。貞操観念、……」
 しかし、ヨシちゃんの表情には、あきらかに誰にも汚されていない処女のにおいがしていました。
 としが明けて厳寒の夜、自分は酔って煙草を買いに出て、その煙草屋の前のマンホールに落ちて、ヨシちゃん、たすけてくれえ、と叫び、ヨシちゃんに引き上げられ、右腕の傷の手当を、ヨシちゃんにしてもらい、その時ヨシちゃんは、しみじみ、
「飲みすぎますわよ」
 と笑わずに言いました。
 自分は死ぬのは平気なんだけど、怪我をして出血してそうして不具者などになるのは、まっぴらごめんのほうですので、ヨシちゃんに腕の傷の手当をしてもらいながら、酒も、もういい加減によそうかしら、と思ったのです。
「やめる。あしたから、一滴も飲まない」
「ほんとう?」
「きっと、やめる。やめたら、ヨシちゃん、僕のお嫁になってくれるかい?」
 しかし、お嫁の件は冗談でした。
「モチよ」
 モチとは、「勿論」の略語でした。モボだの、モガだの、その頃いろんな略語がはやっていました。
「ようし。ゲンマンしよう。きっとやめる」
 そうして翌《あく》る日、自分は、やはり昼から飲みました。
 夕方、ふらふら外へ出て、ヨシちゃんの店の前に立ち、
「ヨシちゃん、ごめんね。飲んじゃった」
「あら、いやだ。酔った振りなんかして」
 ハッとしました。酔いもさめた気持でした。
「いや、本当なんだ。本当に飲んだのだよ。酔った振りなんかしてるんじゃない」
「からかわないでよ。ひとがわるい」
 てんで疑おうとしないのです。
「見ればわかりそうなものだ。きょうも、お昼から飲んだのだ。ゆるしてね」
「お芝居が、うまいのねえ」
「芝居じゃあないよ、馬鹿野郎。キスしてやるぞ」
「してよ」
「いや、僕には資格が無い。お嫁にもらうのもあきらめなくちゃならん。顔を見なさい、赤いだろう? 飲んだのだよ」
「それあ、夕陽が当っているからよ。かつごうたって、だめよ。きのう約束したんですもの。飲む筈が無いじゃないの。ゲンマンしたんですもの。飲んだなんて、ウソ、ウソ、ウソ」
 薄暗い店の中に坐って微笑しているヨシちゃんの白い顔、ああ、よごれを知らぬヴァジニティは尊いものだ、自分は今まで、自分よりも若い処女と寝た事がない、結婚しよう、どんな大きな悲哀《かなしみ》がそのために後からやって来てもよい、荒っぽいほどの大きな歓楽《よろこび》を、生涯にいちどでいい、処女性の美しさとは、それは馬鹿な詩人の甘い感傷の幻に過ぎぬと思っていたけれども、やはりこの世の中に生きて在るものだ、結婚して春になったら二人で自転車で青葉の滝を見に行こう、と、その場で決意し、所謂「一本勝負」で、その花を盗むのにためらう事をしませんでした。
 そうして自分たちは、やがて結婚して、それに依って得た歓楽《よろこび》は、必ずしも大きくはありませんでしたが、その後に来た悲哀《かなしみ》は、凄惨《せいさん》と言っても足りないくらい、実に想像を絶して、大きくやって来ました。自分にとって、「世の中」は、やはり底知れず、おそろしいところでした。決して、そんな一本勝負などで、何から何まできまってしまうような、なまやさしいところでも無かったのでした。

     二

 堀木と自分。
 互いに軽蔑《けいべつ》しながら附き合い、そうして互いに自《みずか》らをくだらなくして行く、それがこの世の所謂「交友」というものの姿だとするなら、自分と堀木との間柄も、まさしく「交友」に違いありませんでした。
 自分があの京橋のスタンド.バアのマダムの義侠心《ぎきょうしん》にすがり、(女のひとの義侠心なんて、言葉の奇妙な遣い方ですが、しかし、自分の経験に依ると、少くとも都会の[#「都会の」に傍点]男女の場合、男よりも女のほうが、その、義侠心とでもいうべきものをたっぷりと持っていました。男はたいてい、おっかなびっくりで、おていさいばかり飾り、そうして、ケチでした)あの煙草屋のヨシ子を内縁の妻にする事が出来て、そうして築地《つきじ》、隅田川の近く、木造の二階建ての小さいアパートの階下の一室を借り、ふたりで住み、酒は止めて、そろそろ自分の定った職業になりかけて来た漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには、喫茶店などにはいり、また、花の鉢を買ったりして、いや、それよりも自分をしんから信頼してくれているこの小さい花嫁の言葉を聞き、動作を見ているのが楽しく、これは自分もひょっとしたら、いまにだんだん人間らしいものになる事が出来て、悲惨な死に方などせずにすむのではなかろうかという甘い思いを幽かに胸にあたためはじめていた矢先に、堀木がまた自分の眼前に現われました。
「よう! 色魔。おや? これでも、いくらか分別くさい顔になりやがった。きょうは、高円寺女史からのお使者なんだがね」
 と言いかけて、急に声をひそめ、お勝手でお茶の仕度をしているヨシ子のほうを顎《あご》でしゃくって、大丈夫かい? とたずねますので、
「かまわない。何を言ってもいい」
 と自分は落ちついて答えました。
 じっさい、ヨシ子は、信頼の天才と言いたいくらい、京橋のバアのマダムとの間はもとより、自分が鎌倉で起した事件を知らせてやっても、ツネ子との間を疑わず、それは自分が嘘がうまいからというわけでは無く、時には、あからさまな言い方をする事さえあったのに、ヨシ子には、それがみな冗談としか聞きとれぬ様子でした。
「相変らず、しょっていやがる。なに、たいした事じゃないがね、たまには、高円寺のほうへも遊びに来てくれっていう御伝言さ」
 忘れかけると、怪鳥が羽ばたいてやって来て、記憶の傷口をその嘴《くちばし》で突き破ります。たちまち過去の恥と罪の記憶が、ありありと眼前に展開せられ、わあっと叫びたいほどの恐怖で、坐っておられなくなるのです。
「飲もうか」
 と自分。
「よし」
 と堀木。
 自分と堀木。形は、ふたり似ていました。そっくりの人間のような気がする事もありました。もちろんそれは、安い酒をあちこち飲み步いている時だけの事でしたが、とにかく、ふたり顔を合せると、みるみる同じ形の同じ毛並の犬に変り降雪のちまたを駈けめぐるという具合いになるのでした。
 その日以来、自分たちは再び旧交をあたためたという形になり、京橋のあの小さいバアにも一緒に行き、そうして、とうとう、高円寺のシヅ子のアパートにもその泥酔の二匹の犬が訪問し、宿泊して帰るなどという事にさえなってしまったのです。
 忘れも、しません。むし暑い夏の夜でした。堀木は日暮頃、よれよれの浴衣を着て築地の自分のアパートにやって来て、きょう或る必要があって夏服を質入したが、その質入が老母に知れるとまことに具合いが悪い、すぐ受け出したいから、とにかく金を貸してくれ、という事でした。あいにく自分のところにも、お金が無かったので、例に依って、ヨシ子に言いつけ、ヨシ子の衣類を質屋に持って行かせてお金を作り、堀木に貸しても、まだ少し余るのでその残金でヨシ子に焼酎《しょうちゅう》を買わせ、アパートの屋上に行き、隅田川から時たま幽かに吹いて来るどぶ臭い風を受けて、まことに薄汚い納涼の宴を張りました。
 自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。
「いいかい? 煙草は?」
 と自分が問います。
「トラ。(悲劇《トラジディ》の略)」
 と堀木が言下に答えます。
「薬は?」
「粉薬かい? 丸薬かい?」
「注射」
「トラ」
「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ」
「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか」
「よし、負けて置こう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇《コメディ》の略)なんだぜ。死は?」
「コメ。牧師も和尚《おしょう》も然りじゃね」
「大出来。そうして、生はトラだなあ」
「ちがう。それも、コメ」
「いや、それでは、何でもかでも皆コメになってしまう。ではね、もう一つおたずねするが、漫画家は? よもや、コメとは言えませんでしょう?」
「トラ、トラ。大悲劇名詞!」
「なんだ、大トラは君のほうだぜ」
 こんな、下手な駄洒落《だじゃれ》みたいな事になってしまっては、つまらないのですけど、しかし自分たちはその遊戯を、世界のサロンにも嘗《か》つて存しなかった頗《すこぶ》る気のきいたものだと得意がっていたのでした。
 またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明していました。それは、対義語《アントニム》の当てっこでした。黒のアント(対義語《アントニム》の略)は、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒。
「花のアントは?」
 と自分が問うと、堀木は口を曲げて考え、
「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ」
「いや、それはアントになっていない。むしろ、同義語《シノニム》だ。星と菫《すみれ》だって、シノニムじゃないか。アントでない」
「わかった、それはね、蜂《はち》だ」
「ハチ?」
「牡丹《ぼたん》に、……蟻《あり》か?」
「なあんだ、それは画題《モチイフ》だ。ごまかしちゃいけない」
「わかった! 花にむら雲、……」
「月にむら雲だろう」
「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風」
「まずいなあ、それは浪花節《なにわぶし》の文句じゃないか。おさとが知れるぜ」
「いや、琵琶《びわ》だ」
「なおいけない。花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」
「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」
「ついでに、女のシノニムは?」
「臓物」
「君は、どうも、詩《ポエジイ》を知らんね。それじゃあ、臓物のアントは?」
「牛乳」
「これは、ちょっとうまいな。その調子でもう一つ。恥。オントのアント」
「恥知らずさ。流行漫画家上司幾太」
「堀木正雄は?」
 この辺から二人だんだん笑えなくなって、焼酎の酔い特有の、あのガラスの破片が頭に充満しているような、陰鬱な気分になって来たのでした。
「生意気言うな。おれはまだお前のように、繩目の恥辱など受けた事が無えんだ」
 ぎょっとしました。堀木は内心、自分を、真人間あつかいにしていなかったのだ、自分をただ、死にぞこないの、恥知らずの、阿呆のばけものの、謂《い》わば「生ける屍《しかばね》」としか解してくれず、そうして、彼の快楽のために、自分を利用できるところだけは利用する、それっきりの「交友」だったのだ、と思ったら、さすがにいい気持はしませんでしたが、しかしまた、堀木が自分をそのように見ているのも、もっともな話で、自分は昔から、人間の資格の無いみたいな子供だったのだ、やっぱり堀木にさえ軽蔑せられて至当なのかも知れない、と考え直し、
「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」
 と何気無さそうな表情を装って、言うのでした。
「法律さ」
 堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は、鬼刑事の如く威厳ありげに見えました。自分は、つくづく呆《あき》れかえり、
「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」
 罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、澄まして暮しているのかも知れません。刑事のいないところにこそ罪がうごめいている、と。
「それじゃあ、なんだい、神か? お前には、どこかヤソ坊主くさいところがあるからな。いや味だぜ」
「まあそんなに、軽く片づけるなよ。も少し、二人で考えて見よう。これはでも、面白いテーマじゃないか。このテーマに対する答一つで、そのひとの全部がわかるような気がするのだ」
「まさか。……罪のアントは、善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなものさ」
「冗談は、よそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない」
「悪と罪とは違うのかい?」
「違う、と思う。善悪の概念は人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」
「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり、神だろう。神、神。なんでも、神にして置けば間違いない。腹がへったなあ」
「いま、したでヨシ子がそら豆を煮ている」
「ありがてえ。好物だ」
 両手を頭のうしろに組んで、仰向《あおむけ》にごろりと寝ました。
「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」
「そりゃそうさ、お前のように、罪人では無いんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」
 死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心の何処《どこ》かで幽かな、けれども必死の抗議の声が起っても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。
 自分には、どうしても、正面切っての議論が出来ません。焼酎の陰鬱な酔いのために刻一刻、気持が険しくなって来るのを懸命に抑えて、ほとんど独りごとのようにして言いました。
「しかし、牢屋《ろうや》にいれられる事だけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……嗚呼《ああ》、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」
「ツミの対語は、ミツさ。蜜《みつ》の如く甘しだ。腹がへったなあ。何か食うものを持って来いよ」
「君が持って来たらいいじゃないか!」
 ほとんど生れてはじめてと言っていいくらいの、烈しい怒りの声が出ました。
「ようし、それじゃ、したへ行って、ヨシちゃんと二人で罪を犯して来よう。議論より実地検分。罪のアントは、蜜豆、いや、そら豆か」
 ほとんど、ろれつの廻らぬくらいに酔っているのでした。
「勝手にしろ。どこかへ行っちまえ!」
「罪と空腹、空腹とそら豆、いや、これはシノニムか」
 出鱈目《でたらめ》を言いながら起き上ります。
 罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭|相容《あいい》れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈がくるくる廻っていた時に、
「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」
 堀木の声も顔色も変っています。堀木は、たったいまふらふら起きてしたへ行った、かと思うとまた引返して来たのです。
「なんだ」
 異様に殺気立ち、ふたり、屋上から二階へ降り、二階から、さらに階下の自分の部屋へ降りる階段の中途で堀木は立ち止り、
「見ろ!」
 と小声で言って指差します。
 自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。電気がついたままで、二匹の動物がいました。
 自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、など劇《はげ》しい呼吸と共に胸の中で呟《つぶや》き、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしていました。
 堀木は、大きい咳《せき》ばらいをしました。自分は、ひとり逃げるようにまた屋上に駈け上り、寝ころび、雨を含んだ夏の夜空を仰ぎ、そのとき自分を襲った感情は、怒りでも無く、嫌悪でも無く、また、悲しみでも無く、もの凄《すさ》まじい恐怖でした。それも、墓地の幽霊などに対する恐怖ではなく、神社の杉木立で白衣の御神体に逢った時に感ずるかも知れないような、四の五の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感でした。自分の若白髪は、その夜からはじまり、いよいよ、すべてに自信を失い、いよいよ、ひとを底知れず疑い、この世の営みに対する一さいの期待、よろこび、共鳴などから永遠にはなれるようになりました。実に、それは自分の生涯に於いて、決定的な事件でした。自分は、まっこうから眉間《みけん》を割られ、そうしてそれ以来その傷は、どんな人間にでも接近する毎に痛むのでした。
「同情はするが、しかし、お前もこれで、少しは思い知ったろう。もう、おれは、二度とここへは来ないよ。まるで、地獄だ。……でも、ヨシちゃんは、ゆるしてやれ。お前だって、どうせ、ろくな奴じゃないんだから。失敬するぜ」
 気まずい場所に、永くとどまっているほど間《ま》の抜けた堀木ではありませんでした。
 自分は起き上って、ひとりで焼酎を飲み、それから、おいおい声を放って泣きました。いくらでも、いくらでも泣けるのでした。
 いつのまにか、背後に、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。
「なんにも、しないからって言って、……」
「いい。何も言うな。お前は、ひとを疑う事を知らなかったんだ。お坐り。豆を食べよう」
 並んで坐って豆を食べました。嗚呼、信頼は罪なりや? 相手の男は、自分に漫画をかかせては、わずかなお金をもったい振って置いて行く三十歳前後の無学な小男の商人なのでした。
 さすがにその商人は、その後やっては来ませんでしたが、自分には、どうしてだか、その商人に対する憎悪よりも、さいしょに見つけたすぐその時に大きい咳ばらいも何もせず、そのまま自分に知らせにまた屋上に引返して来た堀木に対する憎しみと怒りが、眠られぬ夜などにむらむら起って呻《うめ》きました。
 ゆるすも、ゆるさぬもありません。ヨシ子は信頼の天才なのです。ひとを疑う事を知らなかったのです。しかし、それゆえの悲惨。
 神に問う。信頼は罪なりや。
 ヨシ子が汚されたという事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたという事が、自分にとってそののち永く、生きておられないほどの苦悩の種になりました。自分のような、いやらしくおどおどして、ひとの顔いろばかり伺い、人を信じる能力が、ひび割れてしまっているものにとって、ヨシ子の無垢《むく》の信頼心は、それこそ青葉の滝のようにすがすがしく思われていたのです。それが一夜で、黄色い汚水に変ってしまいました。見よ、ヨシ子は、その夜から自分の一顰《いっぴん》一笑にさえ気を遣うようになりました。
「おい」
 と呼ぶと、ぴくっとして、もう眼のやり場に困っている様子です。どんなに自分が笑わせようとして、お道化を言っても、おろおろし、びくびくし、やたらに自分に敬語を遣うようになりました。
 果して、無垢の信頼心は、罪の原泉なりや。
 自分は、人妻の犯された物語の本を、いろいろ捜して読んでみました。けれども、ヨシ子ほど悲惨な犯され方をしている女は、ひとりも無いと思いました。どだい、これは、てんで物語にも何もなりません。あの小男の商人と、ヨシ子とのあいだに、少しでも恋に似た感情でもあったなら、自分の気持もかえってたすかるかも知れませんが、ただ、夏の一夜、ヨシ子が信頼して、そうして、それっきり、しかもそのために自分の眉間は、まっこうから割られ声が嗄れて若白髪がはじまり、ヨシ子は一生おろおろしなければならなくなったのです。たいていの物語は、その妻の「行為」を夫が許すかどうか、そこに重点を置いていたようでしたが、それは自分にとっては、そんなに苦しい大問題では無いように思われました。許す、許さぬ、そのような権利を留保している夫こそ幸いなる哉《かな》、とても許す事が出来ぬと思ったなら、何もそんなに大騒ぎせずとも、さっさと妻を離縁して、新しい妻を迎えたらどうだろう、それが出来なかったら、所謂《いわゆる》「許して」我慢するさ、いずれにしても夫の気持一つで四方八方がまるく収るだろうに、という気さえするのでした。つまり、そのような事件は、たしかに夫にとって大いなるショックであっても、しかし、それは「ショック」であって、いつまでも尽きること無く打ち返し打ち寄せる波と違い、権利のある夫の怒りでもってどうにでも処理できるトラブルのように自分には思われたのでした。けれども、自分たちの場合、夫に何の権利も無く、考えると何もかも自分がわるいような気がして来て、怒るどころか、おこごと一つも言えず、また、その妻は、その所有している稀《まれ》な美質に依って犯されたのです。しかも、その美質は、夫のかねてあこがれの、無垢の信頼心というたまらなく可憐《かれん》なものなのでした。
 無垢の信頼心は、罪なりや。
 唯一のたのみの美質にさえ、疑惑を抱き、自分は、もはや何もかも、わけがわからなくなり、おもむくところは、ただアルコールだけになりました。自分の顔の表情は極度にいやしくなり、朝から焼酎を飲み、歯がぼろぼろに欠けて、漫画もほとんど猥画《わいが》に近いものを画くようになりました。いいえ、はっきり言います。自分はその頃から、春画のコピイをして密売しました。焼酎を買うお金がほしかったのです。いつも自分から視線をはずしておろおろしているヨシ子を見ると、こいつは全く警戒を知らぬ女だったから、あの商人といちどだけでは無かったのではなかろうか、また、堀木は? いや、或いは自分の知らない人とも? と疑惑は疑惑を生み、さりとて思い切ってそれを問い正す勇気も無く、れいの不安と恐怖にのたうち廻る思いで、ただ焼酎を飲んで酔っては、わずかに卑屈な誘導|訊問《じんもん》みたいなものをおっかなびっくり試み、内心おろかしく一喜一憂し、うわべは、やたらにお道化て、そうして、それから、ヨシ子にいまわしい地獄の愛撫《あいぶ》を加え、泥のように眠りこけるのでした。
 その年の暮、自分は夜おそく泥酔して帰宅し、砂糖水を飲みたく、ヨシ子は眠っているようでしたから、自分でお勝手に行き砂糖壺を捜し出し、ふたを開けてみたら砂糖は何もはいってなくて、黒く細長い紙の小箱がはいっていました。何気なく手に取り、その箱にはられてあるレッテルを見て愕然《がくぜん》としました。そのレッテルは、爪で半分以上も掻《か》きはがされていましたが、洋字の部分が残っていて、それにはっきり書かれていました。DIAL。
 ジアール。自分はその頃もっぱら焼酎で、催眠剤を用いてはいませんでしたが、しかし、不眠は自分の持病のようなものでしたから、たいていの催眠剤にはお馴染《なじ》みでした。ジアールのこの箱一つは、たしかに致死量以上の筈でした。まだ箱の封を切ってはいませんでしたが、しかし、いつかは、やる気で[#「やる気で」に傍点]こんなところに、しかもレッテルを掻きはがしたりなどして隠していたのに違いありません。可哀想に、あの子にはレッテルの洋字が読めないので、爪で半分掻きはがして、これで大丈夫と思っていたのでしょう。(お前に罪は無い)
 自分は、音を立てないようにそっとコップに水を満たし、それから、ゆっくり箱の封を切って、全部、一気に口の中にほうり、コップの水を落ちついて飲みほし、電燈を消してそのまま寝ました。
 三昼夜、自分は死んだようになっていたそうです。医者は過失と見なして、警察にとどけるのを猶予してくれたそうです。覚醒《かくせい》しかけて、一ばんさきに呟いたうわごとは、うちへ帰る、という言葉だったそうです。うちとは、どこの事を差して言ったのか、当の自分にも、よくわかりませんが、とにかく、そう言って、ひどく泣いたそうです。
 次第に霧がはれて、見ると、枕元にヒラメが、ひどく不機嫌な顔をして坐っていました。
「このまえも、年の暮の事でしてね、お互いもう、目が廻るくらいいそがしいのに、いつも、年の暮をねらって、こんな事をやられたひには、こっちの命がたまらない」
 ヒラメの話の聞き手になっているのは、京橋のバアのマダムでした。
「マダム」
 と自分は呼びました。
「うん、何? 気がついた?」
 マダムは笑い顔を自分の顔の上にかぶせるようにして言いました。
 自分は、ぽろぽろ涙を流し、
「ヨシ子とわかれさせて」
 自分でも思いがけなかった言葉が出ました。
 マダムは身を起し、幽かな溜息をもらしました。
 それから自分は、これもまた実に思いがけない滑稽とも阿呆らしいとも、形容に苦しむほどの失言をしました。
「僕は、女のいないところに行くんだ」
 うわっはっは、とまず、ヒラメが大声を挙げて笑い、マダムもクスクス笑い出し、自分も涙を流しながら赤面の態《てい》になり、苦笑しました。
「うん、そのほうがいい」
 とヒラメは、いつまでもだらし無く笑いながら、
「女のいないところに行ったほうがよい。女がいると、どうもいけない。女のいないところとは、いい思いつきです」
 女のいないところ。しかし、この自分の阿呆くさいうわごとは、のちに到って、非常に陰惨に実現せられました。
 ヨシ子は、何か、自分がヨシ子の身代りになって毒を飲んだとでも思い込んでいるらしく、以前よりも尚《なお》いっそう、自分に対して、おろおろして、自分が何を言っても笑わず、そうしてろくに口もきけないような有様なので、自分もアパートの部屋の中にいるのが、うっとうしく、つい外へ出て、相変らず安い酒をあおる事になるのでした。しかし、あのジアールの一件以来、自分のからだがめっきり痩《や》せ細って、手足がだるく、漫画の仕事も怠けがちになり、ヒラメがあの時、見舞いとして置いて行ったお金(ヒラメはそれを、渋田の志です、と言っていかにもご自身から出たお金のようにして差出しましたが、これも故郷の兄たちからのお金のようでした。自分もその頃には、ヒラメの家から逃げ出したあの時とちがって、ヒラメのそんなもったい振った芝居を、おぼろげながら見抜く事が出来るようになっていましたので、こちらもずるく、全く気づかぬ振りをして、神妙にそのお金のお礼をヒラメに向って申し上げたのでしたが、しかし、ヒラメたちが、なぜ、そんなややこしいカラクリをやらかすのか、わかるような、わからないような、どうしても自分には、へんな気がしてなりませんでした)そのお金で、思い切ってひとりで南伊豆の温泉に行ってみたりなどしましたが、とてもそんな悠長な温泉めぐりなど出来る柄《がら》ではなく、ヨシ子を思えば侘《わ》びしさ限りなく、宿の部屋から山を眺めるなどの落ちついた心境には甚だ遠く、ドテラにも着換えず、お湯にもはいらず、外へ飛び出しては薄汚い茶店みたいなところに飛び込んで、焼酎を、それこそ浴びるほど飲んで、からだ具合いを一そう悪くして帰京しただけの事でした。
 東京に大雪の降った夜でした。自分は酔って銀座裏を、ここはお国を何百里、ここはお国を何百里、と小声で繰り返し繰り返し呟くように歌いながら、なおも降りつもる雪を靴先で蹴散《けち》らして步いて、突然、吐きました。それは自分の最初の喀血《かっけつ》でした。雪の上に、大きい日の丸の旗が出来ました。自分は、しばらくしゃがんで、それから、よごれていない個所の雪を両手で掬《すく》い取って、顔を洗いながら泣きました。
 こうこは、どうこの細道じゃ?
 こうこは、どうこの細道じゃ?
 哀れな童女の歌声が、幻聴のように、かすかに遠くから聞えます。不幸。この世には、さまざまの不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また「世間」もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだと呆《あき》れかえるに違いないし、自分はいったい俗にいう「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自《おのずか》らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。
 自分は立って、取り敢えず何か適当な薬をと思い、近くの薬屋にはいって、そこの奥さんと顔を見合せ、瞬間、奥さんは、フラッシュを浴びたみたいに首をあげ眼を見はり、棒立ちになりました。しかし、その見はった眼には、驚愕の色も嫌悪の色も無く、ほとんど救いを求めるような、慕うような色があらわれているのでした。ああ、このひとも、きっと不幸な人なのだ、不幸な人は、ひとの不幸にも敏感なものなのだから、と思った時、ふと、その奥さんが松葉杖《まつばづえ》をついて危かしく立っているのに気がつきました。駈け寄りたい思いを抑えて、なおもその奥さんと顔を見合せているうちに涙が出て来ました。すると、奥さんの大きい眼からも、涙がぽろぽろとあふれて出ました。
 それっきり、一言も口をきかずに、自分はその薬屋から出て、よろめいてアパートに帰り、ヨシ子に塩水を作らせて飲み、黙って寝て、翌る日も、風邪気味だと嘘をついて一日一ぱい寝て、夜、自分の秘密の喀血がどうにも不安でたまらず、起きて、あの薬屋に行き、こんどは笑いながら、奥さんに、実に素直に今迄のからだ具合いを告白し、相談しました。
「お酒をおよしにならなければ」
 自分たちは、肉身のようでした。
「アル中になっているかも知れないんです。いまでも飲みたい」
「いけません。私の主人も、テーベのくせに、菌を酒で殺すんだなんて言って、酒びたりになって、自分から寿命をちぢめました」
「不安でいけないんです。こわくて、とても、だめなんです」
「お薬を差し上げます。お酒だけは、およしなさい」
 奥さん(未亡人で、男の子がひとり、それは千葉だかどこだかの医大にはいって、間もなく父と同じ病いにかかり、休学入院中で、家には中風の舅《しゅうと》が寝ていて、奥さん自身は五歳の折、小児|痲痺《まひ》で片方の脚が全然だめなのでした)は、松葉杖をコトコトと突きながら、自分のためにあっちの棚、こっちの引出し、いろいろと薬品を取そろえてくれるのでした。
 これは、造血剤。
 これは、ヴィタミンの注射液。注射器は、これ。
 これは、カルシウムの錠剤。胃腸をこわさないように、ジアスターゼ。
 これは、何。これは、何、と五、六種の薬品の説明を愛情こめてしてくれたのですが、しかし、この不幸な奥さんの愛情もまた、自分にとって深すぎました。最後に奥さんが、これは、どうしても、なんとしてもお酒を飲みたくて、たまらなくなった時のお薬、と言って素早く紙に包んだ小箱。
 モルヒネの注射液でした。
 酒よりは、害にならぬと奥さんも言い、自分もそれを信じて、また一つには、酒の酔いもさすがに不潔に感ぜられて来た矢先でもあったし、久し振りにアルコールというサタンからのがれる事の出来る喜びもあり、何の躊躇《ちゅうちょ》も無く、自分は自分の腕に、そのモルヒネを注射しました。不安も、焦燥《しょうそう》も、はにかみも、綺麗《きれい》に除去せられ、自分は甚だ陽気な能弁家になるのでした。そうして、その注射をすると自分は、からだの衰弱も忘れて、漫画の仕事に精が出て、自分で画きながら噴き出してしまうほど珍妙な趣向が生れるのでした。
 一日一本のつもりが、二本になり、四本になった頃には、自分はもうそれが無ければ、仕事が出来ないようになっていました。
「いけませんよ、中毒になったら、そりゃもう、たいへんです」
 薬屋の奥さんにそう言われると、自分はもう可成りの中毒患者になってしまったような気がして来て、(自分は、ひとの暗示に実にもろくひっかかるたちなのです。このお金は使っちゃいけないよ、と言っても、お前の事だものなあ、なんて言われると、何だか使わないと悪いような、期待にそむくような、へんな錯覚が起って、必ずすぐにそのお金を使ってしまうのでした)その中毒の不安のため、かえって薬品をたくさん求めるようになったのでした。
「たのむ! もう一箱。勘定は月末にきっと払いますから」
「勘定なんて、いつでもかまいませんけど、警察のほうが、うるさいのでねえ」
 ああ、いつでも自分の周囲には、何やら、濁って暗く、うさん臭い日蔭者の気配がつきまとうのです。
「そこを何とか、ごまかして、たのむよ、奥さん。キスしてあげよう」
 奥さんは、顔を赤らめます。
 自分は、いよいよつけ込み、
「薬が無いと仕事がちっとも、はかどらないんだよ。僕には、あれは強精剤みたいなものなんだ」
「それじゃ、いっそ、ホルモン注射がいいでしょう」
「ばかにしちゃいけません。お酒か、そうでなければ、あの薬か、どっちかで無ければ仕事が出来ないんだ」
「お酒は、いけません」
「そうでしょう? 僕はね、あの薬を使うようになってから、お酒は一滴も飲まなかった。おかげで、からだの調子が、とてもいいんだ。僕だって、いつまでも、下手くそな漫画などをかいているつもりは無い、これから、酒をやめて、からだを直して、勉強して、きっと偉い絵画きになって見せる。いまが大事なところなんだ。だからさ、ね、おねがい。キスしてあげようか」
 奥さんは笑い出し、
「困るわねえ。中毒になっても知りませんよ」
 コトコトと松葉杖の音をさせて、その薬品を棚から取り出し、
「一箱は、あげられませんよ。すぐ使ってしまうのだもの。半分ね」
「ケチだなあ、まあ、仕方が無いや」
 家へ帰って、すぐに一本、注射をします。
「痛くないんですか?」
 ヨシ子は、おどおど自分にたずねます。
「それあ痛いさ。でも、仕事の能率をあげるためには、いやでもこれをやらなければいけないんだ。僕はこの頃、とても元気だろう? さあ、仕事だ。仕事、仕事」
 とはしゃぐのです。
 深夜、薬屋の戸をたたいた事もありました。寝巻姿で、コトコト松葉杖をついて出て来た奥さんに、いきなり抱きついてキスして、泣く真似をしました。
 奥さんは、黙って自分に一箱、手渡しました。
 薬品もまた、焼酎同様、いや、それ以上に、いまわしく不潔なものだと、つくづく思い知った時には、既に自分は完全な中毒患者になっていました。真に、恥知らずの極《きわみ》でした。自分はその薬品を得たいばかりに、またも春画のコピイをはじめ、そうして、あの薬屋の不具の奥さんと文字どおりの醜関係をさえ結びました。
 死にたい、いっそ、死にたい、もう取返しがつかないんだ、どんな事をしても、何をしても、駄目になるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦悩が増大し強烈になるだけなんだ、死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ、などと思いつめても、やっぱり、アパートと薬屋の間を半狂乱の姿で往復しているばかりなのでした。
 いくら仕事をしても、薬の使用量もしたがってふえているので、薬代の借りがおそろしいほどの額にのぼり、奥さんは、自分の顔を見ると涙を浮べ、自分も涙を流しました。
 地獄。
 この地獄からのがれるための最後の手段、これが失敗したら、あとはもう首をくくるばかりだ、という神の存在を賭《か》けるほどの決意を以《もっ》て、自分は、故郷の父あてに長い手紙を書いて、自分の実情一さいを(女の事は、さすがに書けませんでしたが)告白する事にしました。
 しかし、結果は一そう悪く、待てど暮せど何の返事も無く、自分はその焦燥と不安のために、かえって薬の量をふやしてしまいました。
 今夜、十本、一気に注射し、そうして大川に飛び込もうと、ひそかに覚悟を極めたその日の午後、ヒラメが、悪魔の勘で嗅《か》ぎつけたみたいに、堀木を連れてあらわれました。
「お前は、喀血したんだってな」
 堀木は、自分の前にあぐらをかいてそう言い、いままで見た事も無いくらいに優しく微笑《ほほえ》みました。その優しい微笑が、ありがたくて、うれしくて、自分はつい顔をそむけて涙を流しました。そうして彼のその優しい微笑一つで、自分は完全に打ち破られ、葬り去られてしまったのです。
 自分は自動車に乗せられました。とにかく入院しなければならぬ、あとは自分たちにまかせなさい、とヒラメも、しんみりした口調で、(それは慈悲深いとでも形容したいほど、もの静かな口調でした)自分にすすめ、自分は意志も判断も何も無い者の如く、ただメソメソ泣きながら唯々諾々と二人の言いつけに従うのでした。ヨシ子もいれて四人、自分たちは、ずいぶん永いこと自動車にゆられ、あたりが薄暗くなった頃、森の中の大きい病院の、玄関に到着しました。
 サナトリアムとばかり思っていました。
 自分は若い医師のいやに物やわらかな、鄭重《ていちょう》な診察を受け、それから医師は、
「まあ、しばらくここで静養するんですね」
 と、まるで、はにかむように微笑して言い、ヒラメと堀木とヨシ子は、自分ひとりを置いて帰ることになりましたが、ヨシ子は着換の衣類をいれてある風呂敷包を自分に手渡し、それから黙って帯の間から注射器と使い残りのあの薬品を差し出しました。やはり、強精剤だとばかり思っていたのでしょうか。
「いや、もう要らない」
 実に、珍らしい事でした。すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。けれども、自分はその時、あれほど半狂乱になって求めていたモルヒネを、実に自然に拒否しました。ヨシ子の謂わば「神の如き無智」に撃たれたのでしょうか。自分は、あの瞬間、すでに中毒でなくなっていたのではないでしょうか。
 けれども、自分はそれからすぐに、あのはにかむような微笑をする若い医師に案内せられ、或る病棟にいれられて、ガチャンと鍵《かぎ》をおろされました。脳病院でした。
 女のいないところへ行くという、あのジアールを飲んだ時の自分の愚かなうわごとが、まことに奇妙に実現せられたわけでした。その病棟には、男の狂人ばかりで、看護人も男でしたし、女はひとりもいませんでした。
 いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無いんです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだそうです。つまり、この病院にいれられた者は気違い、いれられなかった者は、ノーマルという事になるようです。
 神に問う。無抵抗は罪なりや?
 堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人《はいじん》という刻印を額に打たれる事でしょう。
 人間、失格。
 もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
 ここへ来たのは初夏の頃で、鉄の格子の窓から病院の庭の小さい池に紅《あか》い睡蓮の花が咲いているのが見えましたが、それから三つき経ち、庭にコスモスが咲きはじめ、思いがけなく故郷の長兄が、ヒラメを連れて自分を引き取りにやって来て、父が先月末に胃潰瘍《いかいよう》でなくなったこと、自分たちはもうお前の過去は問わぬ、生活の心配もかけないつもり、何もしなくていい、その代り、いろいろ未練もあるだろうがすぐに東京から離れて、田舎で療養生活をはじめてくれ、お前が東京でしでかした事の後仕末は、だいたい渋田がやってくれた筈だから、それは気にしないでいい、とれいの生真面目な緊張したような口調で言うのでした。
 故郷の山河が眼前に見えるような気がして来て、自分は幽かにうなずきました。
 まさに癈人。
 父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜《ふぬ》けたようになりました。父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。まるで、張合いが抜けました。苦悩する能力をさえ失いました。
 長兄は自分に対する約束を正確に実行してくれました。自分の生れて育った町から汽車で四、五時間、南下したところに、東北には珍らしいほど暖かい海辺の温泉地があって、その村はずれの、間数は五つもあるのですが、かなり古い家らしく壁は剥《は》げ落ち、柱は虫に食われ、ほとんど修理の仕様も無いほどの茅屋《ぼうおく》を買いとって自分に与え、六十に近いひどい赤毛の醜い女中をひとり附けてくれました。
 それから三年と少し経ち、自分はその間にそのテツという老女中に数度へんな犯され方をして、時たま夫婦|喧嘩《げんか》みたいな事をはじめ、胸の病気のほうは一進一退、痩せたりふとったり、血痰《けったん》が出たり、きのう、テツにカルモチンを買っておいで、と言って、村の薬屋にお使いにやったら、いつもの箱と違う形の箱のカルモチンを買って来て、べつに自分も気にとめず、寝る前に十錠のんでも一向に眠くならないので、おかしいなと思っているうちに、おなかの具合がへんになり急いで便所へ行ったら猛烈な下痢で、しかも、それから引続き三度も便所にかよったのでした。不審に堪えず、薬の箱をよく見ると、それはヘノモチンという下剤でした。
 自分は仰向けに寝て、おなかに湯たんぽを載せながら、テツにこごとを言ってやろうと思いました。
「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という」
 と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。「癈人」は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。
 いまは自分には、幸福も不幸もありません。
 ただ、一さいは過ぎて行きます。
 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理[#「真理」に傍点]らしく思われたのは、それだけでした。
 ただ、一さいは過ぎて行きます。
 自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。
[#改頁]

   あとがき

 この手記を書き綴った狂人を、私は、直接には知らない。けれども、この手記に出て来る京橋のスタンド.バアのマダムともおぼしき人物を、私はちょっと知っているのである。小柄で、顔色のよくない、眼が細く吊《つ》り上っていて、鼻の高い、美人というよりは、美青年といったほうがいいくらいの固い感じのひとであった。この手記には、どうやら、昭和五、六、七年、あの頃の東京の風景がおもに写されているように思われるが、私が、その京橋のスタンド.バアに、友人に連れられて二、三度、立ち寄り、ハイボールなど飲んだのは、れいの日本の「軍部」がそろそろ露骨にあばれはじめた昭和十年前後の事であったから、この手記を書いた男には、おめにかかる事が出来なかったわけである。
 然るに、ことしの二月、私は千葉県船橋市に疎開している或る友人をたずねた。その友人は、私の大学時代の謂わば学友で、いまは某女子大の講師をしているのであるが、実は私はこの友人に私の身内の者の縁談を依頼していたので、その用事もあり、かたがた何か新鮮な海産物でも仕入れて私の家の者たちに食わせてやろうと思い、リュックサックを背負って船橋市へ出かけて行ったのである。
 船橋市は、泥海に臨んだかなり大きいまちであった。新住民たるその友人の家は、その土地の人に所番地を告げてたずねても、なかなかわからないのである。寒い上に、リュックサックを背負った肩が痛くなり、私はレコードの提琴の音にひかれて、或る喫茶店のドアを押した。
 そこのマダムに見覚えがあり、たずねてみたら、まさに、十年前のあの京橋の小さいバアのマダムであった。マダムも、私をすぐに思い出してくれた様子で、互いに大袈裟《おおげさ》に驚き、笑い、それからこんな時のおきまりの、れいの、空襲で焼け出されたお互いの経験を問われもせぬのに、いかにも自慢らしく語り合い、
「あなたは、しかし、かわらない」
「いいえ、もうお婆さん。からだが、がたぴしです。あなたこそ、お若いわ」
「とんでもない、子供がもう三人もあるんだよ。きょうはそいつらのために買い出し」
 などと、これもまた久し振りで逢った者同志のおきまりの挨拶を交し、それから、二人に共通の知人のその後の消息をたずね合ったりして、そのうちに、ふとマダムは口調を改め、あなたは葉ちゃんを知っていたかしら、と言う。それは知らない、と答えると、マダムは、奥へ行って、三冊のノートブックと、三葉の写真を持って来て私に手渡し、
「何か、小説の材料になるかも知れませんわ」
 と言った。
 私は、ひとから押しつけられた材料でものを書けないたちなので、すぐにその場でかえそうかと思ったが、(三葉の写真、その奇怪さに就いては、はしがきにも書いて置いた)その写真に心をひかれ、とにかくノートをあずかる事にして、帰りにはまたここへ立ち寄りますが、何町何番地の何さん、女子大の先生をしているひとの家をご存じないか、と尋ねると、やはり新住民同志、知っていた。時たま、この喫茶店にもお見えになるという。すぐ近所であった。
 その夜、友人とわずかなお酒を汲《く》み交し、泊めてもらう事にして、私は朝まで一睡もせずに、れいのノートに読みふけった。
 その手記に書かれてあるのは、昔の話ではあったが、しかし、現代の人たちが読んでも、かなりの興味を持つに違いない。下手に私の筆を加えるよりは、これはこのまま、どこかの雑誌社にたのんで発表してもらったほうが、なお、有意義な事のように思われた。
 子供たちへの土産の海産物は、干物《ひもの》だけ。私は、リュックサックを背負って友人の許《もと》を辞し、れいの喫茶店に立ち寄り、
「きのうは、どうも。ところで、……」
 とすぐに切り出し、
「このノートは、しばらく貸していただけませんか」
「ええ、どうぞ」
「このひとは、まだ生きているのですか?」
「さあ、それが、さっぱりわからないんです。十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、差し出し人は葉ちゃんにきまっているのですが、その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかったんです。空襲の時、ほかのものにまぎれて、これも不思議にたすかって、私はこないだはじめて、全部読んでみて、……」
「泣きましたか?」
「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああなっては、もう駄目ね」
「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
 何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

底本:「人間失格」新潮文庫、新潮社
   1952(昭和27)年10月30日発行
   1985(昭和60)年1月30日100刷改版
入力:細渕真弓
校正:八巻美惠
1999年1月1日公開
2004年2月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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2017-09-14
人间失格

丧失为人的资格

杨伟 译


  我曾经看见过那个男人的三张照片。

  第一张,可以说是他幼年时代的相片,想必是在十岁前后拍下的。只见照片上的这个男孩子被众多的女人簇拥着(看来,这些女人是他的姐姐、妹妹、亦或堂表姐、堂表妹),他站在庭院的水池畔,身穿粗条纹的裙裤,将脑袋向左倾斜了近三十度,脸上挂着煞是丑陋的笑容。丑陋?!殊不知即使感觉迟钝的人(即对美和丑漠不关心的人)摆出一副冷淡而麻木的表情,不负责任地夸奖他是“一个怪可爱的孩子呐”,也不会让人觉得这种夸奖纯属空穴来风。在那孩子的笑脸上并不是找不到那种人们通常所说的“可爱”的影子来。但倘若是一个哪怕才受过一点审美训练的人,也会在一瞥之间立刻发出“哎呀,一个多讨厌的孩子”之类的牢骚,甚至或许会用掸落毛虫时那种手势,一下子把照片扔在地上吧。

  说真的,不知为什么,那孩子的笑脸越看越让人觉得讨厌、发悚。其实那本来就不是一张笑脸。这男孩一点儿也没有笑。其证据是,他攥紧了两只拳头站在那儿。人是不可能一边攥紧拳头一边微笑的。唯有猴子才会那样。那分明是猴子的笑脸。他只不过是把丑陋的皱纹聚集在了脸上而已。照片上的他,一副奇妙的神情,显得猥琐,让人恶心,谁见了都忍不住想说“这是一个皱巴巴的小老头”。迄今为止,我还从来没有看到过哪个孩子做出这样一种奇怪的表情。

  第二张照片上的他,脸部发生了很大的变化,让人不由得大吃一惊。那是一副学生的打扮。尽管很难断定是高中时代还是大学时代,但他已出落为一个相当英俊的学生了。不过有一点让人觉得有些蹊跷,这张照片上的他竟没有一点那种活生生的人的感觉。他穿着学生服,从胸前的口袋处露出白色的手绢,交叉着双腿坐在藤椅上,并且还在笑着。然而,这一次的笑容,不再是那种皱巴巴的猴子的笑,而是变成了颇为巧妙的微笑,但不知为何,总与人的笑容大相径庭,缺乏那种可以称之为鲜血的凝重或是生命的涩滞之类的充实感。那笑容不像鸟,而像羽毛一样轻飘飘的,他就那么笑着,恰似白纸一张,总之,让人觉得那是一种彻头彻尾的人工制品,既便把它斥之为“矫饰”斥之为“轻薄”,斥之为“女人气”都嫌不够,称之为“喜好刀尺”就更不解气了。仔细打量的话,也会从这个英俊的学生身上找到某种近似于怪诞的可怕东西。迄今为止,我还从来没有看到过如此怪异的英俊青年。

  第三张照片是最为古怪的,简直让人再也无法判定他的年龄。头上像是已经有了些许白发。那是在某个肮脏无比的房间中的一隅(照片上清晰可见,那房间的墙壁上有三处已经剥落),他把双手伸到小小的火盆烤火,只是这一次他没有笑,脸上没有任何表情。他就那么坐着,把双手伸向火盆,俨然已经自然而然地死去了一般。这分明是一张弥漫着不祥气氛的照片。但奇怪的还不止这一点。照片把他的脸拍得比较大,使我得以仔细端详那张脸的结构。额头长得很平庸,还有眉毛、眼睛。鼻子、嘴巴和下颌。哎呀,这张脸岂止是毫无表情,甚至不能给人留下任何印象。它缺乏特征,比如说,一旦我看过照片后闭上双眼,那张脸便即刻被我忘在九霄云外。尽管我能回忆起那房间的墙壁以及小小的火盆等等,可对于那房间中主人公的印象,却一下子云消雾散,无论如何也想不起来。那是一张不可能成其为画面的脸,一张甚至不可能画成漫画的脸。于是,我又睁开眼看了看这张照片,哦,原来是这样一张照片啊。我甚至没有那种回想起了那张脸以后的愉悦感。如果采用一种极端的说法,即使我再次睁开了双眼端详那张照片也无法回忆起那张脸来,而只能变得越发怏怏不乐、焦躁不安,最后索性把视线掉向一边了事。

  即使是所谓的“死相”,也应该再多一些表情或是印象吧?或许把驽马的脑袋硬安在人的身体之上,就会产生与此类似的感觉吧。总之,那照片无缘无故地让人看了毛骨悚然,心生厌恶。迄今为止,我还没有看见过像他那样不可思议的脸。

手记之一

  我过的是一种充满耻辱的生活。

  对我来说,所谓人的生活是难以捉摸的。因为我出生在东北的乡下,所以初次见到火车,还是长大了以后的事情。我在火车站的天桥上爬上爬下,完全没有察觉到天桥的架设乃是便于人们跨越铁轨,相反认为,其复杂的结构,仅仅是为了把车站建成外国的游乐场那样又过瘾又时髦的设施。很长一段时间我一直都这么想。沿着天桥上上下下,这在我看来,毋宁说是一种超凡脱俗的俏皮游戏,甚至我认为,它是铁路的种种服务中最善解人意的一种。尔后,当我发现它不过是为了方便乘客跨越铁轨而架设的及其实用的阶梯时,不由得大为扫兴。

  另外,在孩提时代,我从小人书上看到地铁时,也以为它的设计并非出自于实用性需要,而是缘于另一个更好玩的目的:即比起乘坐地面上的车辆,倒是乘坐地下的车辆更显得别出心裁,趣味横生。

  从幼年时代起,我就体弱多病,常常卧床不起。我总是一边躺着,一边思忖到:这些床单、枕套、被套、全都是无聊的装饰品。直到自己二十岁左右才恍然大悟,原来它们都不过是一些实用品罢了。于是,我对人类的节俭不禁感到黯然神伤。

  还有,我也不知道饥肠辘辘是何等滋味。这倒并不是故意炫耀自己生长在不愁吃不愁穿的富贵人家。我绝不是在那样一种愚蠢而浅薄的意义上这么说的,只是我真的对“饥肠辘辘”的感觉一无所知而已。或许我这样说有点蹊跷,但是即使我两腹空空,也真的不会有所察觉。在上小学和中学时,一旦我从学校回到家里,周围的人就会七嘴八舌地问道:“哎呀,肚子也该饿了吧,我们都有过类似的体验呐。放学回家那种饥饿感,可真要人命啦。吃点甜纳豆怎么样?家里还有蛋糕和面包哟。”而我只顾着发挥自己与生俱来的那种讨好人的秉性,一边嗫嚅着“我饿了我饿了”一边把十粒甜纳豆一股脑儿塞进嘴巴里。正因为如此,我对所谓的“饥饿感”是何等滋味,一点也不了解。

  当然,我也吃很多东西,但我不曾记得,有哪一次是因为饥饿才吃的。我吃那些看起来珍奇的东西,看起来奢华的东西。还有去别人家时,对于主人端上来的食物,我即使勉为其难也要咽下肚去。在孩提时代的我看来,最痛苦难捱的莫过于自己家吃饭的时候。

  在我乡下的家中,就餐时,全家人一共有十个左右,大家各自排成两列入座。作为最小的孩子,我当然是坐在最靠边的席位上。用餐的房间有些昏暗,吃午饭时只见十几个人全都一声不响的嚼着饭粒,那情形总让我不寒而栗。再加上这是一个古板的旧式家族,所以,每顿端上饭桌的菜肴几乎都是一成不变的,不可能奢望出现什么稀奇的山珍,亦或奢华的海味,以至我对用餐时刻充满了恐惧。我坐在那幽暗房间的末席上,因寒冷而浑身颤抖。我把饭菜一点一点勉强塞进口中,不住地忖度着:“人为什么要一日三餐呢?大家都一本正经地板着面孔吃饭,这似乎成了一种仪式。一家老小,一日三餐,在规定的时间内聚集到一间阴暗的屋子里,井然有序地并排坐着,不管你有没有食欲,都得一声不吭地咀嚼着,还一边佝着身躯埋下头来,就像是对着那蛰居于家中的神灵们祈祷一样。”

  “不吃饭就会饿死”,这句话在我的耳朵听来,无异于一种讨厌的恐吓。任这种迷信(即使到今天,我依旧觉得这是一种迷信)却总是带给我不安与恐惧。“人因为不吃饭就会饿死,所以才不得不干活,才不得不吃饭”——在我看来,没有比这句话更晦涩难懂,更带有威吓性的言辞了。

  总之,也就意味着,我对人类的营生仍然是迷惑不解。自己的幸福观与世上所有人的幸福观风马牛不相及,这使我深感不安,并因为这种不安而每夜辗转难眠,呻吟不止,乃至精神发狂。我究竟是不是幸福呢?说实话尽管我打幼小起,就常常被人们称之为幸福的人,可是我自己却总是陷入一种置身于地狱的心境中,反倒认为那些说我幸福的人比我快乐得多,我和他们是无法相提并论的。

  我甚至认为,自己背负着十大灾难,即使将其中的任何一个交给别人来承受,也将会置他于死地。

  反正我是弄不明白的。别人苦恼的性质和程度,都是我捉摸不透的谜。实用性的苦恼,仅仅依靠吃饭就一笔勾销的苦恼,或许这才是最为强烈的痛苦,是惨烈得足以使我所列举的十大灾难显得无足轻重的阿鼻地狱。但我对此却一无所知。尽管如此,他们却能够不思自杀,免于疯狂,纵谈政治,竟不绝望,不屈不挠,继续与生活搏斗。他们不是并不痛苦吗?他们使自己成为彻底的利己主义者,并虔信那一切理所当然,曾几何时怀疑过自己呢?这样一来,不是很轻松惬意吗?然而,所谓的人并不全部如此,并引以满足吗?我确实弄不明白……或许夜里酣然入睡,早晨就会神清气爽吧?他们在夜里都梦见了什么呢?他们一边款款而行,一边思考着什么呢?是金钱吗?绝不可能仅仅如此吧?尽管我曾听说过“人是为了吃饭而活着的”,但却从不曾听说过“人是为了金钱而活着的”。不,或许……不,就连这一点我也没法开窍。……越想越困惑,最终的下场就是被“唯有自己一个人与众不同”的不安和恐惧牢牢攫住。我与别人无从交谈,该说什么,该怎么说,我都不知道。

  在此,我想到了一个招数,那就是扮演滑稽的角色来逗笑。

  这是我对人类最后的求爱。尽管我对人类满腹恐惧,但却怎么也没法对人类死心。并且,我依靠逗笑这一根细线保持住了于人类的一丝联系。表面上我不断地强装出笑脸,可内心里却是对人类拼死拼活的服务,汗流浃背的服务。

  从孩提时代起,我就对家里人每天思考些什么,又是如何艰难地求生,不得而知。我只是对其中的隔膜心怀恐惧,不堪忍受,以致于不得不采取了扮演滑稽角色来逗笑的方式。即是说,我在不知不觉之间已经变成了一个不说真话来讨好卖乖的孩子。

  只要看一看当时我与家人们一起拍的留影,就会发现:其他人都是一本正经的脸色,惟独我一个人总是莫名其妙地歪着脑袋发笑。事实上,这也是我幼稚而可悲的一种逗笑方式。

  而且,无论家里人对我说什么,我都从不还嘴顶撞。他们寥寥数语的责备,在我看来就如同晴天霹雳一般,使我近乎疯狂,哪里还谈得上以理相争呢?我甚至认为,那些责备之辞乃是万世不变的人间“真谛”,只是自己没有力量去实践那种“真谛”罢了,所以才无法与人们共同相处。正因为如此,我自己既不能抗争也不能辩解。一旦别人说我坏话,我就觉得是自己误解了别人的意思一样,只能默默地承受那种攻击,可内向却感到一种近乎狂乱的狂惧。

  不管是谁,如果遭到别人的谴责或是怒斥,都是不会感到愉快的。但我却从人们动怒的面孔中发现了比狮子、鳄鱼、巨龙更可怕的动物本性。平常他们总是隐藏起这种动物本性,可一旦遇到某个时机,他们就会像那些温文尔雅地躺在草地上歇息的牛,蓦然甩动尾巴抽死肚皮上的牛虻一般,暴露出人的这种本性。见此情景,我总是不由得毛骨悚然。可一旦想到,这种本性也是人类赖以生存的资格之一,便只能对自身感到由衷的绝望了。

  我一直对人类畏葸不已,并因这种畏葸而战栗,对作为人类一员的自我的言行也没有自信,因此只好将独自一人的懊恼深藏在胸中的小盒子里,将精神上的忧郁和过敏密闭起来,伪装成天真无邪的乐天外表,使自己一步一步地彻底变成了一个滑稽逗笑的畸形人。

  无论如何都行,只要能让他们发笑。这样一来,即使我处于他们所说的那种“生活”之外,也不会引起他们的注意吧。总而言之,不能有碍他们的视线。我是“无”,是“风”,是“空”。诸如此类的想法日积月累,有增无减,我只能用滑稽的表演来逗家人们发笑,甚至在比家人更费解更可怕的男佣和女佣面前,也拼命地提供滑稽小丑的逗乐服务。

  夏天,我居然在浴衣下面套上一件鲜红的毛衣,沿着走廊走来走去,惹得家里人捧腹大笑,甚至连不苟言笑的兄长也忍俊不禁:

  “喂,阿叶,那种穿着不合时宜哟!”

  他的语气里充满了无限的爱怜。是啊,无论怎么说,我都不是那种不知冷暖,以致于会在大热天里裹着毛衣四处窜动的怪人呐。其实,我是把姐姐的绑腿缠在了两只手臂上,让它们从浴衣的袖口中露出一截,以便在旁人的眼里看来,我身上像是穿了一件毛衣似的。

  我的父亲在东京有不少公务,所以,他在上野的樱木町购置了一栋别墅,一个月中的大部分时间都是在那里度过的。回到家里时,总是给家中的人,甚至包括亲戚老表们,都带回很多的礼物。这俨然是父亲的一大嗜好。某一次,在上京前夕,父亲把孩子们召集到客厅里,笑着一一问每个小孩,下次他回来时,带什么礼物才好,并且把孩子们的答复一一写在了记事本上。父亲对孩子们如此亲热,还是很罕有的事情。

  “叶藏呢?”

  被父亲一问,我顿时语塞了。

  一旦别人问起自己想要什么,那一刹那反倒什么都不想要了。怎么样都行,反正不可能有什么让我快乐的东西——这种想法陡然掠过我的脑海。同时,只要是别人赠与我的东西,无论它多么不合我的口味,也是不能拒绝的。对讨厌的事不能说讨厌,而对喜欢的事呢,也是一样,如同战战兢兢地行窃一般,我只是咀嚼到一种苦涩的滋味,因难以明状的恐惧感而痛苦挣扎。总之,我甚至缺乏力量在喜欢与厌恶其间择取其一。在我看来,多年以后,正是这种性格作为一个重要的因素,造成了我自己所谓的那种“充满耻辱的生涯”。

  见我一声不吭,扭扭捏捏的,父亲的脸上泛起了不快的神色,说道:

  “还是要书吗……浅草的商店街里,有一种狮子卖,就是正月里跳的狮子舞的那一种呐。论大小嘛,正适合小孩子披在身上玩。你不想要吗?”

  一旦别人问起我“你不想要吗”,我已是黔驴技穷了,再也不可能做出逗人发笑或是别的什么回答了。逗笑的滑稽演员至此已是徒有虚名了。

  “还是书好吧。”长兄一副认真的表情说道。

  “是吗?”父亲一脸扫兴的神色,甚至没有记下来就“啪”的一声关上了记事本。

  这是多么惨痛的失败啊!我居然惹恼了父亲。父亲的报复必定是很可怕的。眼下如果不想想办法,不是就不可挽回了吗?那天夜里,我躺在被窝里一边打着冷颤,一边思忖着,然后蹑手蹑脚地站起身走向客厅。我来到父亲刚才放记事本的桌子旁边,打开抽屉取出记事本,啪啦啪啦地翻开,找到记录着礼物的那一页,用铅笔写下“狮子舞”后才折回去睡了。对于那狮子舞中的狮子,我提不起一星半点的欲望,毋宁说倒是书还强一点。但我察觉到,父亲有意送给我那种狮子,为了迎合父亲的意志,重讨父亲的欢心,我才胆敢深夜冒险,悄悄溜进了客厅。

  果然,我的这种非同寻常的手段取得了预料之中的巨大成功。不久,父亲从东京归来了。我在小孩的房间里听到父亲大声地对母亲说道:

  “在商店的玩具铺里,我打开记事本一看,嗨,上面竟然写着”狮子舞”。那可不是我的字迹呢。那又是谁写的呢?我想来想去,总算是猜了出来。原来是叶藏那个孩子的恶作剧哩。这小子呀,当我问他的时候,他只是一个劲儿地嗤嗤笑着,默不做声,可事后却想要那狮子想得不得了。真是个奇怪的孩子呐。装作什么都不知道的样子,自个儿却一板一眼地写了上去。如果真是那么想要的话,直接告诉我不就得了吗?所以呀,我在玩具铺里忍不住笑了。快把叶藏给我叫来吧。”

  我把男女佣人召集到房间里,让其中的一个男佣胡乱地敲打着钢琴的琴键(尽管这是偏僻的乡下,可在这个家里却几乎配备了所有的家什)。我则伴随着那乱七八糟的曲调,跳起了印第安舞蹈供他们观赏,逗得众人捧腹大笑。二哥则点上镁光灯,拍摄下了我的印第安舞蹈。等照片冲洗出来一看,从我围腰布的合缝处(那围腰布不过是一块印花布的包袱皮罢了),竟露出一个小雀雀。顿时这又引来了满堂的哄笑。或许这也可以称之为以外的成功吧。

  每个月我都定购不下十种新出版的少年杂志,此外,还从东京邮购了各种书籍,默默地阅读。所以,对麦恰拉克恰拉博士呀,纳蒙贾博士呀,我都颇为熟悉。并且对鬼怪故事、评书相声、江户笑话之类的东西,也相当精通。因此,我能够常常一本正经地说一些滑稽的笑话,令家人捧腹大笑。

  然而,呜呼,学校!

  在学校里我也开始受到了众人的尊敬。“受人尊敬”,这种念头本身也让我畏葸不已。我对受人尊敬这一状态进行了如下定义:近于完美无缺地蒙骗别人,尔后又被某个全智全能之人识破真相,最终原形毕露,被迫当众出丑,以致于比死亡更难堪更困窘。即使依靠欺骗赢得了别人的尊敬,无疑也有某个人熟谙其中的真相。不久,那个人必定会告知其他的人。当人们发觉自己上当受骗后,那种愤怒和报复将是怎样一种情形呢?即使稍加想象,也不由得毛发竖立。

  我在学校里受到众人的拥戴,与其说是因为出生于富贵人家,不如说是得益于那种俗话所说的“聪明”。我自幼体弱多病,常常休学一个月、两个月,甚至曾经卧床休息过一学年。尽管如此,我还是拖着大病初愈的身子,搭乘人力车到学校,接受了学年末的考试,殊不知比班上所有的人都考得出色。即使在身体健康的时候,我也毫不用功,纵然去上学,也只是在上课的时间里一直画漫画,等到下课休息时,再把它们展示给班上的同学看,说明给他们听,惹得他们哄堂大笑。而上作文课时,我尽写一些滑稽故事,即使受到老师的提醒,也照写不误。因为我知道,其实老师正悄悄地以阅读我的滑稽故事为乐呢。有一天,我按照惯例,用特别凄凉的笔调描写了自己某一次丢人现眼的经历。那是我跟随母亲去东京的途中,我把火车车厢里通道上的痰盂当成了尿壶,把尿撒在了里面(事实上,在去东京时,我并不是不知道那是痰盂才出的丑,而是为了炫耀小孩子的天真无知故意这么做的)。我深信,这样的写法肯定能逗得老师发笑。所以就轻手轻脚地跟踪在走向教员休息室的老师背后。只见老师一出教室,就从班上同学的作文中挑出我的作文,一边走过走廊,一边开始读了起来。他“嗤嗤”地偷偷笑着,不久便走进了教员休息室。或许是已经读完了吧,只见他满脸通红大声笑着,劝其他老师也立即浏览一遍。见此情形,我不由得心满意足。

  淘气鬼的恶作剧。

  我成功地让别人把这视为“仅仅是一个淘气鬼的恶作剧罢了”。我成功地从受人尊敬的恐惧中逃离了出来。成绩单上所有的学科都是十分,唯有品行这一项要么是七分,要么是六分,这也成了家里人的笑料之一。

  事实上,我与那种淘气鬼的恶作剧本质上是恰恰相悖的。那时,我被男女佣人教唆着做出了可悲的丑事。事到如今我认为,对年幼者干出那种事情,无疑是人类所能犯下的罪孽中最丑恶最卑劣的行径。但我还是忍受了这一切,并萌生了一种感觉,仿佛由此而发现了人类的另一种特质似的。我只能软弱地苦笑。如果我有那种诉说真相的习惯,那么,或许我就能够毫不胆怯地向父母控诉他们的罪行吧,可是,我却连自己的父母都不可能完全了解。我一点也不指望那种“诉诸于人”的手段。无论是诉诸父亲还是母亲,也不管诉诸警察,或是政府,最终难道不是照样被那些深谙世故之人强词夺理击败了吗?

  不公平现象是必然存在的。这一点是明摆着的事实。本来诉诸于人就是徒劳无益的。所以我依旧对真实的事情一言不发,默默忍耐着除了继续扮演滑稽逗笑角色之外已经别无选择。

  或许有人会嘲笑道:“什么,难道不是对人类的不信任吗?嘿,你几时当上了基督教徒?”事实上在我看来,对人类的不信任,并不一定与宗教之路直接相通。包括那些嘲笑我的人在内,难道人们不都是在相互怀疑之中,将耶和华和别的一切抛在脑后,若无其事地活着的吗?记得自己小时候,父亲所属的那个政党的一位名流来到我们镇上演说,男佣人带着我去剧场听讲。听众密密匝匝地挤在那里,我看见了镇上所有与父亲关系密切的人的面孔。这使我兴奋不已。演讲结束后,听众们三五成群地沿着雪夜的道路踏上了归途。信口开河地议论着演讲会的不是,其中还掺杂着一个和父亲过从甚密的人的声音。那些所谓的“同志们”用近乎愤怒的声调大肆品头论足,说什么我父亲的开场白拙劣无比,那位名人的演讲让人云里雾里,不得要领等等。更可气的是,那帮人居然顺道拐入我家,走进了客厅,脸上一副由衷的喜悦表情,对父亲说,今晚的演讲会真是获得了巨大的成功。甚至当母亲向男佣们问起今晚的演讲会如何时,他们也若无其事地回答说,“真是太有趣了。”而正是这些男佣们刚才还在回家的途中叹息说:“没有比演讲会更无聊的了。”

  而这仅仅是其中一个微不足道的事例。相互欺骗,却又令人惊奇地不受到任何伤害,甚至于就好像没有察觉到彼此在欺骗似的,这种不加掩饰从而显得清冽、豁达的互不信任的例子,在人类生活中比比皆是。不过,我对相互欺骗这类事情并没有太大的兴趣。就连我自己也是一样,依靠扮演滑稽角色来整天欺骗人们。对于那种教科书式的正义呀、道德之类的东西,我不可能抱有太大的兴趣。在我看来,倒是那些彼此欺骗,却清冽而开朗地生存着,亦或是有信心清冽而开朗地生活下去的人,才是令人费解的。人们最终也没有教给我其中的妙谛。或许明白了那些妙谛我就不再那么畏惧人类,也不必拼命提供逗笑服务了吧。或许也就犯不着再与人们的生活相对立从而体验那种每个夜晚的地狱所带来的痛楚了吧。总之,我没有向任何人控诉那些男女佣人犯下的可恨罪愆,并不是出于我对人类的不信任,当然更不是基督教的影响,而是因为人们对我这个名叫叶藏的人关闭了信誉的外壳之缘故。因为就连父母也不时向我展示出他们令人费解的部分。

  然而,众多的女性却依靠本能,嗅出了我无法诉诸于任何人的那种孤独气息,以致于多年以后,这成了我被女人们乘虚而入的种种诱因之一。

  既是说,在女人眼里,我是一个能保守恋爱秘密的男人。

手记之二

  在海岸边被海水侵蚀而形成的汀线附近,并排屹立着二十多棵雄伟粗大的山樱树。这些树皮呈黑色的山樱树,每到新学年伊始,便与浓艳的褐色嫩叶一起,在蓝色大海的映衬下,绽放出格外绚丽的花朵。不久,待落樱缤纷的时节,无数的花瓣便会纷纷落入大海,在海面上随波漂荡,然后又被波涛冲回到海岸边。东北地区的某所中学,正是在这长着樱树的沙滩上就势建起了学校的校园。尽管我并没有好好用功备考,却也总算顺利地考进了这所中学。无论是这所中学校帽上的徽章,还是校服上的纽扣,都缀着盛开的樱花图案。

  我家的一个远房亲戚就住在那所中学附近。也正因为这个,父亲为我选择了那所面对大海和开满樱花的中学。我被父亲寄养在那个亲戚家里,因为离学校很近,所以我总是在听到学校敲响朝会的钟声之后,才飞快地奔向学校。我就是这样一个懒惰的中学生,但我却依靠自己惯用的逗笑本领,日益受到了同学们的欢迎。

  这是我生平第一次远走他乡,但在我眼里,陌生的他乡,比起自己出生的故乡,是一个更让我心旷神怡的环境。这也许是因为我当时已把逗笑的本领掌握得天衣无缝,以致于在欺骗他人时显得更加轻松自若的缘故。当然,做这样的解释又何尝不可,但是,更为致命的原因分明还在于另一点:面对亲人还是面对陌生人,身在故乡还是身在他乡,其间存在着不可避免的演技上的难度上的差异。而且这种难度差异无论对哪一位天才而言——即便是对于神灵之子耶稣而言——不也同样存在吗?在演员看来,最难进行表演的场所莫过于故乡的剧场。在五亲六戚聚集一堂的房间,再有名的演员恐怕也会黔驴技穷吧。然而我却在那里一直进行了表演,并取得了相当大的成功。所以像我这样的老油子,来到他乡进行表演,必然是万无一失。

  我对人的恐惧与先前相比,倒是有过之而无不及,它在我的内心深处剧烈地扭动着,而我的演技却是在日渐长进。我常常在教室里逗得同班同学哄堂大笑,连老师也不得不一边在嘴上感叹着“这个班要是没有大庭,该是个多好的集体啊”,一边却用手掩面而笑。我甚至还能够轻而易举地让那些惯于发出雷鸣般厉声的驻校军官也噗哧大笑。

  当我正要开始为自己彻底掩盖了本人的真实面目而暗自庆幸的时候,出乎意料地被别人戳了背脊骨。那个戳了我背脊骨的人,竟然是班上身体最为羸弱、脸孔又青又肿的家伙。他身上的衣服让人觉得像是父兄留给他的破烂货,过于长大的衣袖恍若圣德太子的衣袖。他的功课更是一塌糊涂,在军事训练和体操课时,总像一个在旁边见习的白痴似的,就连一贯小心翼翼的我也从来没有想到过提防他。

  一天上体操课的时候,那个学生(他的姓氏我早已忘了,只记得名字叫竹一),就是那个竹一,照旧在一旁见习,而我们却被老师吩咐做单杠练习。我故意尽可能做出一副严肃的表情,“哎——”地大叫一声,朝着单杠飞身一跃,就像是跳远那样向前猛扑过去,结果是一屁股摔在了沙地上。这纯属是一次事先预谋好的失败。果然成了众人捧腹大笑的引子。我也一边苦笑着,一边爬起来,掸掸裤子上的砂粒。这时,那个竹一不知何时来到了我的旁边,捅了捅我的后背,低声咕哝道:

  “故意的,故意的。”

  我感到一阵震惊,做梦也没有想到,竹一竟然识破了我故意失败的真相。我仿佛看见世界在哪一刹那间被地狱之火挟裹着,在我眼前熊熊燃烧起来。我“哇”地大叫着,使出全身的力量来遏制住近乎疯狂的心绪。

  那以后,我每天都生活在不安与恐惧之中。

  尽管我表面上依旧扮演着可悲的滑稽角色来博得众人发笑,但有时候却也情不自禁地发出重重的叹息。无论我干什么,都肯定会被那个竹一彻底识破真相,并且他还会很快向每个人透露这一秘密——一想到这儿,我的额头上就会直冒汗珠,像是狂人一般用奇怪的眼神审视着四周。如果可能,我甚至巴不得从早到晚二十四小时跟踪监视竹一,以免他随口泄漏了秘密。而且就在我纠缠着他不放的时候,为了让他觉得我的滑稽行为并不是所谓的“故意之举”,而是货真价实的东西,我真可谓殚思竭虑,倾注了所有努力。我甚至打定主意,希望一切顺利的话,成为他独一无二的密友。倘若这一切都是不可能的话,那我便只能盼望他的死亡。但我却怎么也无法萌生杀死他的念头。在迄今为止的生涯中,我曾经无数次祈望过自己被杀死,却从来也没有动过杀死别人的念头。这是因为我觉得,那样做只会给可怕的对手带来幸福的缘故。

  为了使他驯服就范,我首先在脸上堆满伪基督徒式的“善意”的微笑,将脑袋向左倾斜三十度左右,轻轻地搂抱住他瘦小的肩膀,用嗲声嗲气的肉麻腔调,三番五次地邀请他到我寄宿的亲戚家中去玩,但他却总是一副发呆的眼神,闷声不响。不过,在一个放学之后的傍晚(我记得是在初夏时节),天上陡然下起了暴雨,学生们都为如何回家大伤脑筋。因为我的亲戚家离学校很近,所以我正要无所畏惧地往外冲,这时,我看见了竹一。他正满脸颓丧地站在门口木屐箱的后面。“走吧,我把伞借给你。”我说道,一把拽住怯生生的竹一的手,一起在骤雨飞跑起来。到家以后,我请婶婶替我们俩烘干湿衣服,在此期间我把竹一领到自己二楼的房间里。

  我的这个亲戚家是三口之家,有一个年过五十的婶婶,一个三十岁左右、戴着眼镜、体弱多病的高个子表姐(她曾经出嫁过一次,后来又回到娘家来了。我也学着这个家里其他人的样子,叫她“阿姐”),和一个最近才从女子学校毕业,名叫雪子的表妹。她和姐姐大不相同,个头很小,长着一张圆脸。楼下的店铺里,只陈列着少量的文具和运动用品。主要收入似乎来源于过世的主人留下的那五六排房屋的房租。

  “我耳朵可疼呢。”竹一就那么一直站着说话。

  “可能是雨水灌进耳朵才发疼的吧。”

  我一看,只见他的两只耳朵都害了严重的耳漏病,眼看着浓水就要流出耳朵外面了。

  “这怎么行呢?很疼吧?”我有些夸张地露出惊诧的神色,“大雨中把你拽出来,害你落得这个样子,真是对不起你。”

  我用那种近于女人腔的“温柔”语调向他道歉,然后到楼下拿来棉花和酒精,让竹一的头枕在我的膝盖上,体贴入微地给他清理耳朵。就连竹一好像也没有察觉到这是一种伪善的诡计。

  “你呀,肯定会被女人迷恋上的!”竹一头枕着我的膝盖,说了一句愚蠢的奉承话。

  很多年以后我才知道,他的这句话就像是恶魔的预言一样,其可怕程度是竹一也没有意识到的。什么“迷恋”、“被迷恋”这些措辞本身就是粗俗不堪而又戏弄人的说法,给人一种装腔作势的感觉。无论是多么“严肃”的场合,只要让这些词语抛头露面,忧郁的伽蓝就会顷刻间分崩离析,变得索然无味。但如果不是使用“被迷恋上的烦恼”之类的俗语,而是使用“被爱的不安”等文学术语,似乎就不至于破坏忧郁的伽蓝了。想来可真是奇妙无比。

  我给竹一揩耳朵里的脓血时,他说了句“你呀,肯定会被女人迷恋上的!”奉承话,当时,我听了之后,只是满脸通红地笑着,一句话也没有回答,可实际上我私下里也认为他的话不无道理。然而对于“被迷恋”这样一种粗俗的说法所产生的装腔作势的氛围,我竟然说他说的话不无道理,无异于愚昧地表述自己的感想,其糊涂程度远远超过相声里的傻少爷,事实上,我是绝对不会以那种戏谑的、装腔作势的心情来“认为他的话不无道理”的、

  在我看来,人世间的女性不知比男性费解多少倍。在我们家,女性数量是男性的好多倍,亲戚家也是女孩子居多。还有前面提到过的那些“犯罪”的女佣人。我想甚至可以说,我自幼是在女人堆中长大的。尽管如此,我却一直是怀着如履薄冰的心情与女人打交道的。我对她们一无所知,如坠云雾,不时遭受惨痛的失败。这种失败与从男性那儿受到的鞭笞截然不同,恍若内出血一般引人不快,其毒性攻心,难以治愈。

  女人有时和你形影不离,有时又对你弃之不理。当着众人的面她藐视我,羞辱我,而一旦背着大家,她又拼命地搂紧我。女人的睡眠酣甜得宛若死去了一般,甚至让人怀疑她们是否为了酣然入眠才存活于这个世界上的。我从幼年时代起就对女人进行了种种观察,尽管同是人类,女人却分明是一种与男人迥然相异的生物。而就是这种不可理喻、需要警惕的生物,竟出人意料地呵护着我。无论是“被迷恋”的说法,还是“被喜欢”的说法,都完全不适合我,或许倒是“受到呵护”这一说法更贴近我的情况。

  对待滑稽的逗笑,女人似乎比男人更显得游刃有余。当我扮演滑稽角色进行逗笑时,男人从不会哈哈大笑。而且我也知道,如果在男人面前搞笑时随着兴致得意忘形的话,肯定会招致失败,所以总是惦记着在恰到好处时中止表演。可女人却压根儿不知道什么叫“适可而止”,总是无休无止地缠着我要我继续搞笑。为了满足她们那毫无节制的要求,我累得筋疲力尽,事实上她们确实能笑。女人似乎能够比男人更贪婪地吞噬快乐。

  在我中学时代寄宿的亲戚家中,一旦表姐表妹闲下来,总爱跑到我二楼的房间里来,每次都吓得我跳起来。

  “你在用功吗?”

  “不,没有呐,”我胆战心惊地微笑着,合上书本说到,“今天啦,学校里一个名叫“棍棒”的地理老师,他……“

  从我嘴里迸出的都是一些言不由衷的笑话。

  “阿叶,把眼镜戴上给我们看看!”

  一天晚上,表妹雪子和表姐一起来到我的房间玩。在我被迫进行了大量的搞笑后,她们冷不防地提出了戴眼镜给她们看看的要求。

  “干吗?”

  “甭管了,快戴上看看吧。把阿姐的眼镜借来戴戴看!”

  平常她总是用这种粗暴的命令口吻对我说话。于是,我这滑稽小丑老老实实地戴上了表姐的眼镜。刹那间两个姑娘笑得前仰后合。

  “真是一模一样!和劳埃德简直一模一样!”

  当时,哈罗德・劳埃德作为一名外国喜剧演员,在日本正风靡一时。

  我站起身,举起一只手说道:

  “诸位,此番我特向日本的影迷们……”

  我尝试着模仿劳埃德的样子做一番致辞,这更是惹得她们捧腹大笑。那以后,劳埃德的电影在这个镇上每演必看,私下里琢磨他的表情举止。

  一个秋日的夜晚,我正躺着看书。表姐像一只鸟儿似的飞进我的房间,猛地倒到我的被子上啜泣起来。

  “阿叶,你肯定会救我的,对吧。这种家,我们还是一起出走的好,对不?救救我,救救我。”

  她嘴里念叨着这些吓唬人的话,还一个劲儿地抽噎着。不过,我并不是第一次目睹女人的这种模样,所以,对表姐的夸张言辞并不感到惊讶,相反,倒是对她那些话的陈腐和空洞感到格外的扫兴。于是,我悄悄地从被窝中抽身起来,把桌子上的柿子剥开,递给表姐一块。表姐一边啜泣着,一边吃起柿子来了。

  “有什么好看的书没有?借给我看看吧”她说道。

  我从书架上给她挑选了一本夏目漱石的《我是猫》。

  “谢谢你的款待。”

  表姐有些害羞地笑着,走出了房间。其实不光是表姐,所有的女人,到底是怀着什么样的心情活着呢?思考这种事情,对我来说,甚至比揣摩蚯蚓的想法还要棘手费事,更让人产生阴森可怖的感觉。不过唯一有一点是我要依靠幼时的经验而明白:女人像那样哭诉起来时,只要递给她什么好吃的东西她就会吃起来,并因此而改变心境。

  表妹雪子有时候会把她的朋友带到我的房间里来。我按照惯例,公平地逗大家笑。等朋友离去后,雪子必定会对朋友的不是大肆数落一番。诸如“她是个不良少女,你可得当心呐”之类的。倘若果真如此,不是用不着特地带到这里来吗?也多亏雪子,我房间的来客几乎全是女性。

  不过,竹一说的那句“你呀,肯定会被女人迷恋上的!”奉承话,却没能兑现。总之,我不过是日本东北地区的哈罗德・劳埃德罢了。竹一那句愚蠢的奉承话,作为可憎的预言,活生生地呈现出了不祥的兆头,还是在那以后很多年的事情。

  竹一还赠送给我另一份重大的礼物。

  “这是妖怪的画像呐。”

  曾几何时竹一到我楼上的房间玩,得意洋洋地拿出一张原色版的卷头画给我看,这样说道。

  “哎?!”我大吃一惊。多年后我才清醒地认识到:就是在那一瞬间里,我未来的道路被彻底决定了。我知道,其实那不过是凡高的自画像。在我们少年时代,所谓法国印象派的绘画正广为流行,大都是从印象派绘画开始学习鉴赏西洋绘画。所以,一提起凡高、高更、塞尚、雷诺阿等人的画,即使是穷乡僻壤的中学生,也大都见到过照像版。凡高的原色版绘画我也见过不少,对其笔法有兴趣和鲜艳色彩颇感兴趣,但从来没有想过,他的自画像是什么妖怪的画像。

  “这种画又怎么样呢?也像妖怪吗?”

  我从书架上取下莫迪里阿尼的画册,把其中的一幅古铜色肌肤的裸体妇人画像拿给竹一看。

  “这可了不得呀。”竹一瞪圆了眼睛感叹道。

  “就像一匹地狱之马呐。”

  “不,还是像妖怪吧。”

  “我也想画一画这种妖怪呐。”

  对人感到过分恐惧的人,反倒更加迫切地希望用自己的眼睛去看更可怕的妖怪;越是容易对事物感到胆怯的神经质的人,就越是渴望暴风雨降临得更加猛烈……啊,这一群画家被妖怪所伤害所恫吓,以致于最终相信了幻影,在白昼的自然之中栩栩如生地目睹了妖怪的所在。而且,她们并没有使用“滑稽的逗笑”来掩饰自身的恐惧,而是致力于原封不动表现自己所见。正如竹一说的,他们勇敢地描绘出“妖怪的自画像”。原来,在这里竟然存在着未来的我的同伴,这使我兴奋得热泪盈眶。

  “我也要画,画那种妖怪的画像,画那种地狱之马。”我压低嗓音对竹一说道。

  我从小学时代就喜欢上了画画和看画。但我的画不像我写的作文那样受到交口称赞。因为我压根儿就对人类的语言毫不信任,所以作文在我眼里就如同搞笑的寒暄语一般。尽管我的作文在小学和中学都逗得老师前仰后合,但我自己却并不觉得有趣。只有绘画(漫画等另当别论)让我在如何表现其对象上殚精竭虑,尽管这种殚思竭虑采用的是我自己的一套独特方式。学校绘画课的画帖实在无聊透顶,而老师的画又拙劣无比,所以我不得不自己来摸索各种各样的表现形式。进入中学后,我已经拥有了一套油画的画具,尽管我试图从印象派的画风中寻找出绘画技巧的范本,可自己画出来的东西却俨然儿童做手工的彩色印花纸一般呆滞乏味,不成样子。不过,竹一的一句话启发了我,使我意识倒自己以前对绘画的看法,——竭力想把觉得美的东西原封不动地描绘为美是幼稚和愚蠢乃至完全谬误的。绘画大师利用主观力量,对那些平淡无奇的东西加以美的创造,虽说他们对丑恶的东西感到恶心呕吐,却并不隐瞒对它们的兴趣,从而沉浸在表现的愉悦中。换言之,他们丝毫不为别人的看法左右。我从竹一那儿获得了这种画法的原始秘诀。于是,我瞒着那些女性来客,开始着手制作自画像了。

  一幅阴惨的画诞生了,甚至让我自己都大为震惊。可这就是隐匿在内心深处的自己的真实面目。表面上我在快活地欢笑,并引发别人的欢笑,可事实上,我却背负着如此阴郁的心灵。“又有什么办法呢?”我只好暗自肯定现状。但那幅画除了竹一,我没给任何人看过。我不愿被人看穿自己逗笑背后的凄凉,也不愿别人突然之间开始小心翼翼地提防起我来,我担心他们甚至没有发现这便是我的本来面目,而依旧视为一种新近发明的搞笑方式,把它当成一大笑料。这是最让我痛苦难堪的事情。所以我立刻把那幅画藏进了抽屉深处。

  在学校的绘画课上,我也收敛起了那种“妖怪式的画法”,而使用先前平庸的画法,将美的东西原封不动地描绘成美。

  以前我便是只在竹一面前才若无其事地展示自己动辄受伤的神经,所以这次的自画像也放心大胆地拿给竹一看,果然也得到了他的啧啧称赞。于是,我又连续画出了第二张、第三张妖怪的画像。竹一又送给我另一个预言:

  “你呀,肯定会成为一个了不起的画家呐。”

  “肯定会被女人迷恋上”与“肯定会成为一个了不起的画家”是傻瓜竹一在我的额头上镌刻的两种预言。随后不久,我便来到了东京。

  我本来想进美术学校,但父亲对我说,早就打定了主意让我上高中,以便将来做官从政。所以,天生就不敢跟大人顶嘴的我只好茫然地遵从父命。父亲让我从四年级开始考东京的高中,而我自己也对临海和满是樱花的中学感到厌倦,所以不等升入五年级,四年级学业结束后我便考入东京的高中,开始了学生宿舍生活。宿舍的肮脏和粗暴使我不胜畏葸,哪里还顾得上扮演丑角逗笑。我请医生开了张“肺浸润”的诊断书,搬出了学生宿舍,移居到上野樱木町父亲的别墅里。我根本无法过那种所谓集体生活,什么青春的感动,什么年轻人的骄傲等等豪言壮语,只会在我耳朵里唤起一阵凛冽的寒气,使我与那种“高中生的蓬勃朝气”格格不入。我甚至觉得,不管教室,还是宿舍,都无非是被扭曲了的性欲的垃圾堆而已。我那近于完美的逗笑本领在这里没有用武之地。

  我父亲在议会休会时,每个月只在别墅呆一周或两周,父亲不在时,这栋庞大的建筑物中便只剩下别墅管家(一对老夫妇)和我三个人。我时常逃学,也没心思去游览东京(看来我最终也看不成明治神宫、楠木正成[日本南北朝时代的武将]的铜像、泉岳寺的四十七烈士墓了),成天闷在家里读书画画。等父亲上东京后,我每天早晨都匆匆奔赴学校,但有时去的却是本乡千驮木町的西洋画画家安田新太郎的画塾,在那里连续三四小时素描练习。从高中宿舍搬出来后,连坐在课堂听讲也有了一种败兴的感觉,仿佛自己是处在旁听生那种特殊的位置上。尽管这可能只是偏见,我却是更害怕去学校了。上小学、中学、高中、我最终也没能懂得所谓爱校之心是什么东西,我甚至从来也没想过去记住学校的校歌。

  不久,在画塾里,我从一个学画的学生那儿得知了诸如酒、香烟、娼妓、当铺以及左翼思想之类的东西。尽管这些东西摆在一起,是种奇妙的组合,这却是事实。

  那个学画的学生名叫掘木正雄,出生在东京的庶民区,长我六岁,从私立美术学校毕业后,因为家里没有画室,才上这所画塾来继续学校西洋画的。

  “能借我五元钱吗?”

  在此之前,只是打过照面而已,从未说过话,所以我有些张皇失措地掏出了五元钱。

  “走啊,喝酒去吧。我请你喝。你这个象姑。”

  我无法拒绝,被他拽进了画塾附近的蓬莱町酒馆。这就是我与他交往的开始。

  “我早就注意到你了。瞧,你那种腼腆的微笑,正是大有作为的艺术家特有的表情呐。为了纪念我们的相识,干一杯吧。——阿绢,这家伙该算得上是个美男子吧。你可不要被他迷住了哟。这小子来画塾之后,害我降格成为第二号美男子了呐。”

  掘木长着一张黝黑的端庄面孔,身上穿着一套整齐的西装,脖子上系着一根素雅的领带,这种装束在学画的学生中是颇罕见的。他的头发还抹了发油,从正中间齐齐整整地向两边分开。

  身处酒馆这样陌生的环境,我心中只有恐惧。我局促地把两只胳膊一忽儿抱紧,一忽儿松开,露出一脸腼腆的微笑。可就在两三杯酒下肚之后,我却感到了一种奇妙的、获得解放似的轻松。

  “我曾琢磨着想进美术学校呐,可是……”

  “啊呀,可没劲呐,那种地方真是没劲儿透了!我们的老师乃是存在于自然之中!存在于我们对自然的激情之中!”

  但我对他说的东西却没有半点儿敬意,只是暗自思忖:这是个蠢货!他的画必定蹩脚透顶,但作为一个玩耍的伙伴,或许倒是最佳人选。我平生第一次见识了什么是真资格的都市痞子。尽管与我的表现方式大相径庭,在彻底游离于人世的营生之外、迷惘彷徨这一点上,毕竟属于同类。而且他是在无意识种实施着逗笑的丑角行为,全然没有觉察到这种丑角行为的悲惨。这正是他与我本质上迥然相异的地方。

  仅仅是在一块玩玩,把他当成玩伴来交往——我总是这样蔑视他,耻于与他交往。但在与他结伴而行的过程中,我自己却成了他的手下败将。

  最初我一直认为他是个大好人,一个难得的大好人。就连对人恐惧的我,也彻底放松了警惕,以为找到了领着我见识东京的好向导。说实话,我这个人,坐电车会对售票员犯怵;去歌舞伎剧场,一看到大门口铺红地毯的台阶两边并排站着的引路小姐又会顿生畏惧;进餐馆吧,瞥见悄悄站在身后等着收拾盘子的侍应生也会胆战心惊。天哪,特别是付钱的时候,我那双颤颤巍巍的手!买了东西之后,把钱递给对方,不是因为吝啬,而是过度紧张、害臊、不安与恐怖,只觉得头昏眼花,世界蓦然变得漆黑一团,哪里还顾得上讨价还价,有时甚至忘了接过找头,忘了拿走买下的东西。我根本无法独自在东京的街头漫步,只好整日蜷缩在家打发光阴。

  可是一旦把钱包交给掘木再一起去逛街,情形就大不相同了,掘木大肆砍价,俨然是玩耍的行家,使极少的钱发挥出最大的功效。而且,他对街头昂贵的出租车一概敬而远之,因地制宜地乘坐电车、公共汽车和小汽艇。他有利用最短的时间抵达目的地的本事,还对我现场演示教育:比如清晨从妓女那儿回家的途中,顺路拐到某个旅馆,泡个澡,再一边吃豆腐汤锅,一边咪点酒,这样不仅便宜划算,还显得很阔气。他还教给我,摊贩卖的牛肉盖浇饭和烤鸡肉串不仅价钱便宜而且富于营养。还满有把握地断言,所有酒中间,要数白兰地酒劲儿上来得最快最猛。在结帐买单时,他从来没有让我感到一星半点的不安和畏惧。

  和掘木交往的另一大好处是,掘木完全无视谈话对方的想法,只顾听凭所谓激情的驱使(或许所谓‘激情’就是要无视对方的立场),一天到晚絮叨着种种无聊的话题。所以我完全不用担心两个人逛街逛累了会陷入尴尬的沉默。与人交往时,我最介意那种可怕的沉默局面,所以天生嘴笨的我才会拼命扮演丑角以求度过难关。而眼前这个傻瓜掘木却无意中主动担当起那种逗笑的滑稽角色,使我能够对他的话置若罔闻,只要适时地科插打诨便足以应付了。

  不久我也明白了:酒、香烟和妓女,是能够帮助人暂时忘却人的可怕的绝妙手段。我甚至萌发了这样的想法:为了寻求这些,我不惜变卖我的全部家当。

  在我眼里,妓女这个种类,既不是人,也不是女性,倒像是白痴或狂人。在她们的怀抱里,我反倒能高枕无忧,安然成眠。她们没有一丁点儿的欲望,简直到达了令人悲哀的地步。或许是从我这里发现了一种同类的亲近感吧,那些妓女常常向我表现出自然的好意。这毫无算计之心,绝无勉强之意的好意,萍水相逢之人的好意,没有令我感到局促不安,使我在茫茫黑夜中,从白痴或狂人式的妓女那里,真切地看到了圣母玛利亚的圣洁光环。

  为了摆脱对人的恐惧,获得一宿安眠,我去她们那里。可就在“和我同类”的妓女玩乐的时候,一种无意识的讨厌氛围开始弥漫,这是连我自己都不曾设想过的“添加的附录”。渐渐地那“附录”浮出了水面,最终掘木点破了玄机。我不禁在愕然之余,深感厌恶。在旁人看来,说得通俗点,我是利用妓女进行着女人方面的修炼,长进显著。据说,通过妓女来磨炼与女人交往的本领,是最厉害也最富有成效的。我身上早已飘漾着那种“风月场上老手”的气息。女人(不仅限于妓女)凭本能嗅到了这种气息,并趋之若骛。人们竟把这种猥亵的、极不光彩的背景当作了我“添加的附录”,以致于它比我寻求休憩的本意更加醒目。

  或许掘木是半带着奉承说出那番话的,却不幸言中了。比如说,我就曾经收到酒馆女人写的稚拙的情书;还有樱木町邻居将军家那个二十来岁的姑娘,会在每天早晨专挑我上学的时间,故意略施粉黛踟躇于自家门前;我去吃牛肉饭时,即使一言不发,那儿的女佣也会……我经常光顾的那家香烟铺子的小姑娘,在递给我的香烟盒子里竟然也有……还有,去观赏歌舞伎时,那个邻座的女人……在深夜的市营电车上酩酊大醉而酣然入睡之时……还有,乡下亲戚家的姑娘出乎意料地寄来了缱绻缠绵的相思笺……还有,某个不知名的姑娘,在我外出时留给我一个手工制作的偶人……由于我的消极退避,每次罗曼史都如蜻蜓点水,停留于一些残缺的断片,没有深入进展。但有一点却不是信口雌黄,我身上某个地方萦绕着供女人做梦的氛围。这一点被掘木那家伙点破时,我感到一种近于屈辱的痛苦,对妓女的兴趣也倏然消失了。

  掘木出于爱慕虚荣和追赶时髦的心理(至今我也如此认为。除此之外,再也找不到别的理由)某天带我参加了一个叫做共产主义读书会的秘密研究会(大概是叫R.S吧,我也记不清了)。出席那个秘密集会只是掘木那种人领我“游览东京”的一过场罢了。我被介绍给那些所谓的“同志”,还被迫买下了一本宣传册子,听坐在上席的丑陋青年讲授马克思主义学说。而一切在我看来却是再明白也没有的内容了。或许他确实言之有理,但人的内心深处,分明存在着一种难以言喻的东西。称之为“欲望”吧,觉得言不尽意,谓之“虚荣心”也不确切,统称为“色情和欲望”仍然辞不达意。尽管我自己也是云里雾里,但我总认为,人世的底层毕竟存在某种绝不单纯是经济的、而是近于怪谭的东西。我是个极端害怕怪谭式东西的人,所以尽管赞成唯物论,就像肯定水往低处流,却不能仰仗这信仰来摆脱对人的恐惧,不能放眼绿叶而感受到希望的喜悦。不过我却一次不拉地参加了R.S的活动(仅凭记忆,可能有误)。“同志”们俨然大事临头,面孔紧绷,沉浸在“一加一等于二”那样初等算术式的理论研究中。见此情景,我觉得滑稽透顶,于是利用自己惯用的逗笑本领来活跃集会的气氛。渐渐研究会上拘谨古板的气氛得到了缓解,我成了集会上不可或缺的宠儿。那些貌似单纯的人认为我和他们一样单纯,把我看成一个乐观而诙谐的“同志”。假如当真如此,我便是彻头彻尾地欺骗了他们。我并不是他们的“同志”,却每次必到,奉上丑角的逗笑服务。

  我喜欢这样做,喜欢他们。并不是什么马克思主义建立起来的亲密感。

  不合法。这带给我小小的乐趣。不,毋宁说使我心旷神怡。其实,世上称为“合法”的东西才更可怕。(对此我预感到某种无比强大的东西)。其中的复杂构造更是不可理喻。我不能死守在一个没有门窗的寒冷房间里,既便外面是一片不合法的大海,我也要纵身跳下去。哪怕是马上死去,我也心甘情愿。

  有一个说法叫做“见不得人的人”。就是那些人间悲惨的失败者、悖德者。我觉得自打一出生我就是个“见不得人的人”,所以一旦遇到人世所谤的同类,就不由分说变得善良温柔了。这样的“温柔”足以令我自己如痴如醉。

  还有一种说法叫做“狂人意识”。我每时每刻都受着这种意识的折磨,它却又是与我休戚与共的糟糠之妻,厮磨着,进行凄寂的游戏。这已经成了我的生存方式。俗话说“腿上有伤痕,没脸来见人”。在襁褓中这种伤痕就赫然出现在我的一条腿上,随着长大非但没有治愈,反而日益加剧,扩散到骨髓深处。每夜的痛苦就如千变万化的地狱,但(说来也怪),那伤口逐渐变得比自己的血肉还要亲密无间。伤口的疼痛,仿佛有活生生的情感,如同爱情的呢喃。对我这样的男人,地下活动小组的氛围格外安心惬意。那运动的外壳比其追求的目的更为适合我。掘木则出于闹着玩的心理,把我介绍到那个集会中去,其实他自己总共只去了一次。他曾说过一句拙劣的俏皮话:“马克思主义者在研究生产这一方面的同时,也有必要观察消费这一方面嘛。”所以他不去集会,倒是一门心思拽住我到外面考察消费状况。回想当时各种各样的马克思主义者:有掘木那样爱慕虚荣、追赶时髦,心里自诩为“马克思主义者”的;也有我这样仅仅喜欢“不合法”气氛便一头扎入其中的。倘若我们的真实面目被真正的信仰者识破,无疑我俩都逃不过他们的愤怒斥责,被当成叛徒赶出组织。但我们却没有被开除,在不合法的世界里,我们比在绅士的合法世界里活得更加悠闲自在、游刃有余,显得“蓬勃健康”。以致于被当作前途无量的同志委以重任。真让人忍俊不禁。我一次也没有拒绝,泰然自若地受命,也不曾因举止反常而受到“狗”(同志们都这样称呼警察)的怀疑和审讯。我总是一边逗笑,一边准确无误地完成他们所谓的“危险”任务。(那帮从事运动的家伙常常如临大敌般高度紧张,甚至蹩脚地模仿侦探小说,警惕过了头。他们交给我的任务全是无聊透顶的,却煞有介事地制造紧张气氛)。我心情当时是,宁愿作为共产党而遭捕,即使终生身陷囹圄,也绝不反悔。我甚至觉得与其对世上的“实生活”感到恐惧,每晚在辗转难眠的地狱中呻吟叹息,还不如被关进牢房来得畅快轻松。

  父亲在樱木町的别墅里忙于接待客人,要么就是有事外出,所以虽然我和他住在同一屋檐下,有时连着三四天连一面都见不到。我总觉得父亲很难接近,严厉可怕,因此也琢磨着是不是该离开这个家搬到某个宿舍去住。还没说出口,就从别墅老管家那里听说了父亲有意出售这栋房子。

  父亲的议员任期即将届满,想必还有种种理由吧,他无意继续参选,打算在故乡建一个隐居的地方,对东京似乎并不留恋。我不过是个高中生,特地为我保留住宅和佣人在他看来是种不必要的浪费吧。(父亲的心事与世上所有人的心事一样,是我无法明白的)这样,这个家不久就转让给别人,我搬进了本乡森川町一栋名叫仙游馆的旧公寓的阴暗房间。过了一阵子,在经济上便陷入了窘境。

  在此之前我总是每月从父亲那里拿到固定金额的零花钱。即使这笔钱立马告罄,香烟、酒、乳酪、水果等等家里随时都有。书、文具、衣服和其他一切也可以在附近店铺赊帐。连款待掘木吃荞麦面或炸虾盖浇饭,只要是父亲经常光顾的这条街上的餐馆,都可以吃完后一声不响甩手而去。

  可现在一下子变成了宿舍独居的生活,一切都只能在每月的定额汇款中开销。我真是一筹莫展。汇款依旧是在两三天内花个精光,我不寒而栗,心中没底几近发狂,交替着给父亲、哥哥、姐姐又是打电报,又是写长信,催他们快点寄钱给我(信中所写之事,又全是逗人发笑的虚构。窃以为,求助他人的上策乃是引人发笑)。另外,我在掘木的教唆下,频繁出入当铺。可是手头照样拮据。

  我没有在无亲无故的宿舍中独立“生活”的能力。兀自待在宿舍房间里我感到是那么可怕,仿佛顷刻就会遭到某个人的袭击或暗算似的。所以我总是不由自主地往大街上跑,要么去帮助那种“运动”,要么和掘木一起到处寻找廉价的酒馆喝酒,学业和绘画也荒废了。进入高中翌年十一月,发生了我和那个年长于我的有夫之妇徇情的事件,彻底改变了我的命运。

  我上学经常缺席,学习也毫不用功,奇怪的是,考试答题却颇得要领,故而一直瞒过了家人。然而不久,终于因为我旷课太多,学校秘密通知了故乡的父亲。作为父亲的代理人,大哥给我寄来了一封措辞严厉的长信。不过比起这封信,倒是经济上的困境和那种运动交给我的任务给我带来了更直接、更剧烈的痛苦,使我无法以半游戏的心境来泰然处之。我当上了不知叫中央地区,还是什么地区的——反正包括本乡、小石川、下谷、神田那一带所有学校的马克思主义学生行动队的队长。听说要搞武装暴动,我买了一把小刀子(现在想来,不过是把纤细得连铅笔都削不好的水果刀),把它塞进雨衣口袋四处奔走,进行所谓的“联络”。真想喝了酒大睡一场,可手头没有钱。而且从P那儿(我记得P就是党的暗语,不过也可能记错)不停地下达了任务,连喘息的时间都没有。我这副羸弱的身子骨实在是吃不消了。本来我就是仅仅对“不合法”感兴趣而参加这种小组活动的,如今变成了假戏真做,忙得手忙脚乱,我就无法控制自己,不禁在心中恨恨地对P的人嘀咕:恐怕你们是弄错对象了吧?那些任务交给你们的嫡系成员不是更好吗?于是我逃走了。虽然逃走,心情却没有变好,我决定去死。

  那时,恰好有三个女人对我表现出特别的关心。其中一个是我寄宿的仙游馆老板娘的女儿。每当我参加运动后身心疲惫地回到房间,饭也不吃就躺下来时,那姑娘总会拿着便筏和钢笔走进我的房间,说道:

  “对不起,楼下的弟弟妹妹吵死人了,害我都没法写信了。”

  说罢就在桌子旁坐下来,一口气写上一个多小时。我本来可以佯装什么都不知道照旧躺着,可那姑娘的神情好像是希望我开口说点什么。所以我又发挥了惯用的那种被动服务的精神。尽管我其实一句话也不想说,还是拖着疲惫不堪的身体,强打精神,趴在那边一边吸烟一边“嗯嗯唔唔”地应付着。

  “听说呀有一种男人,用女人寄来的情书烧水洗澡。”

  “哎呀,那可真讨厌呐。是你吧?”

  “不,我嘛,只是用情书煮过牛奶喝。”

  “真是了不起。你喝吧。”

  我暗自忖度着:这人怎么还不快点回去?写什么信啊,不是明摆着在撒谎吗?其实不过在那儿鬼画桃符罢了。

  “把你写的信给我瞧瞧!”

  事实上我宁死也不想看。谁知这样一说,她竟连声嚷嚷:“哎呀,真讨厌,哎呀,真讨厌。”那兴奋的模样真是有失体面,让我大为扫兴。于是我想打发她去干点事。

  “对不起,你能不能去电车附近的药店,给我买点安眠药呢?我太累了,脸上发烫,反而睡不着。对不起,钱嘛……”

  “行啊,钱好说。”

  她愉快地起身走了。我深谙,打发女人去干活是不会惹她讨厌的。就是说,男人拜托女人做事,她会高兴的。

  另一个女人则是女子高等师范学校的文科学生,一个所谓的“同志”。因为运动的关系,我和她不管愿意与否,都每天碰头。碰头会结束后,这个女人总跟在我后面,不停地买东西给我。

  “你就把我当作你的亲姐姐好啦。”

  她这种酸溜溜的说法搞得我毛骨悚然。我做出一副不乏忧郁的微笑表情,说道:

  “我正是这么想的呐。”

  总之我深知,激怒女人是很可怕的。我心中只有一个想法,就是千方百计地敷衍过去。因此我甚至不惜为那个讨厌而丑陋的女人做出牺牲,让她买东西给我(其实那些东西都是些品味粗俗的东西,我大都当即送给了烤鸡肉串的老板),并装出兴高采烈的样子,开玩笑逗她开心。一个夏天的夜晚,她缠着我怎么也不肯离去,为了打发她早点回去,在街头一个阴暗角落里,我亲吻了她。谁知她却厚颜无耻地欣喜若狂,叫住一辆计程车,把我带到了一个狭窄的西式房间里(这房间是他们为了运动而秘密租借的办公室)。在那里我和她一直折腾到第二天早晨。“一个荒唐透顶的姐姐”,我暗自苦笑着想到。

  无论是房东家的女儿还是这个“同志”,都不得不每天见面,所以,不可能像从前遇到的种种女人那样巧妙避开。出于自己惯有的那种不安心理,我反而拼命讨好这两个女人,结果被她们牢牢地束缚住了。

  同时,我从银座一个大酒馆的女招待那里蒙受了意想不到的恩惠。尽管只是一面之交,但由于这种恩惠,我仍然感觉到一种被束缚住而无法动弹的忧虑和恐惧。那时,我已经毋需再借助掘木的向导,而摆出一副老油子的架势来了,比如可以一个人去乘坐电车,或是去歌舞伎剧场,亦或穿着碎花布和服光顾酒馆了。在内心深处,我依旧对人的自信心和暴力深感怀疑、恐惧和苦恼,但至少在表面上可以和他人面对面一本正经地寒暄了。不,不对,尽管就我的本性而言,不伴随败北的丑角式的苦笑,就无法与别人交谈,但我好歹磨炼出了一种“伎俩”,可以忘情地与人进行张口结舌的交谈了。莫非这应归功于我为那种运动四处奔波?亦或归功于女人?或者是酒精?但更主要得归功于经济上的窘境。无论在哪里,我都会感到恐惧。可要是在大酒吧里被一大群醉鬼或女招待、侍应生簇拥着,能够暂时忘却那种恐惧的话,那么,我这不断遭到追逐的心灵,不是也能获得片刻的宁静吗?我抱着这样的想法,揣上十块钱,一个人走进了银座的大酒吧里。我笑着对女招待说:

  “我身上只有十块钱,你看着办吧。”

  “你放心好了。”

  她的口音里夹杂着一点关西腔。她的这一句话竟然奇妙地平息了我这颗心的悸动。这倒不是因为她的话消解了我对钱的担忧,而是消解了我留在她身边的担忧。

  我喝开了酒。因为对她相当放心,所以反而无心进行滑稽表演了,只是不加掩饰地展示自己天生的沉默寡言和抑郁寡欢,一声不吭地呷着酒。

  “这种菜,你喜欢吗?”

  那女人把各式各样的菜肴摆放在我面前问我。我摇摇头。

  “只喝酒吗?那我也陪你喝吧。”

  那是一个寒冷的秋天之夜。我按照常子(我记得是叫这个名字,但记忆已经模糊不清了。瞧,我这个人竟然连一起殉情自杀的对方的名字都忘记了)所吩咐的那样,在银座背街的一个露天寿司摊铺上一边吃着难以下咽的寿司,一边等着她。(虽说忘了她的名字,可偏偏那寿司难以下咽的滋味,不知为何竟清晰地留在我的记忆里。而且,那个长着一副黄颔蛇脸相、脑袋已经秃顶的老板一边摇晃着头,一边像个行家似的捏着寿司的情景,至今仍历历在目。多年以后,好多次我乘坐在电车上,会忽然觉得某张面孔似曾相识,想来想去,才想起它原来与那个时候寿司店老板颇为相似,于是我不禁露出了苦涩的微笑。在她的名字和脸庞都从我地记忆中消隐而去了的今天,唯有那寿司店老板的面孔,我还能记得那么准确无误,以致于可以轻松地描摹出一张肖像画来。我想,这无疑是因为当时的寿司过于难吃,竟带给我寒冷与痛楚的缘故。我从没有这样的体验,被人带到一个所谓的美味无比的寿司店里去吃寿司,而真的会觉得好吃的体验。那寿司太大了。我常常想,难道不能捏成大拇指大小吗?)

  她在本所[东京的一个地名]租借了木匠家二楼的一个房间。在这儿,我一点也用不着隐匿自己平常那颗悒郁的心灵,就像受到剧烈牙痛的袭击一样,我一边用一只手捂住脸颊,一边喝茶。我的这种姿势反倒赢得了她的欢心。她给人的感觉,就像是一个完全孤立的女人,周遭刮着凛冽的寒风,只有落叶枯枝在四处飞舞。

  我一边躺着休息,一边听她唠叨自己的身世。她比我年长两岁,老家在广岛。她说道:“我是有丈夫的人呐。原本他在广岛开了个理发店。去年夏天,一起背井离乡来到了东京,可丈夫在东京却没干什么正经事。不久,被判了诈骗罪,现在还呆在监狱里呐。我呀,每天都要去监狱给他送点东西,但从明天起,我就再也不去了。”不知为什么,我这个人天生就对女人的身世毫无兴趣,不知是因为女人在这方面叙述方式拙劣,还是因为她们的谈话不得要领,反正对我来说,她们所说的话都不过是马耳东风。

  真是寂寞啊。

  比起女人连篇累牍的痛说家世,倒是这样一句短短的叹息更引发我的共鸣。尽管我一直期待着,却从来没有从这个世上的女人那儿听到过这样的叹息。不过,眼前这个女人尽管没有用言语说过一句”真是寂寞啊“,但是,她的身体轮廓中却流淌着一种剧烈而无言的寂寞,就像是一股一寸见方的气流一样,我的身体一旦考近她,就会被那股气流牢牢地包围住,与我自己所拥有的那种多少有些阴郁的气氛,恰到好处地交融在一起,宛若”枯叶落在水底的岩石之上“,使我得以从恐惧和不安中抽身逃遁。

  与躺在那些白痴妓女的怀中安然入睡的感觉截然不同(首先,那些妓女是快活的),跟这个诈骗犯之妻所度过的一夜,对我来说是获得了解放的幸福之夜(不加思索地在肯定意义上使用这样一种夸张的说法,我想,这在我的整篇手记中是绝无仅有的)

  但也仅仅只有一夜。早晨,我睁眼醒来翻身下床,又变成了原来那个浅薄无知、善于伪装的滑稽角色。胆小鬼甚至会惧怕幸福。棉花也能让人受伤。趁着还没有受伤,我想就这样赶快分道扬镳。我又放出了惯用的逗笑烟幕弹。

  “有一句话叫’钱一用完,缘分就断’,其实这句话的解释恰好被人颠倒了。并不是说钱一用光,男人就会被女人甩掉。而是说男人一旦没有钱,自个儿就会意志消沉,变得颓废窝囊。甚至连笑声都缺乏力量,而且性情出奇地乖戾,最终破罐子破摔,自个儿主动甩了女人。就是说近于半疯狂的彻底甩掉女人。据《金洋大辞林》上解释,就是这个意思呐。真可怜呀。我也多少懂得点那种心境。”

  的确,我记得自己当时说了上述那些蠢话,把常子逗得哈哈大笑。我觉得不宜久留,脸也没洗就跑了出来,可没想到我当时编造的关于“钱一用完,缘分就断”的胡言乱语,后来竟与我自己发生了意想不到的关联。

  在此后的一个月里我都没有去见那一夜的恩人。分手之后,随着日子的流逝,喜悦之情也逐渐淡漠,倒是蒙受了她恩惠这一点让我有一种隐隐的不安,感到了一种沉重的束缚。甚至对酒吧里的所有消费都由常子结的帐这种世俗的事情,也开始耿耿于怀了。常子最终也跟房东的女儿、女子高等师范学校那个女人一样,成了仅仅是胁迫着我的女人,所以即使相距甚远,我也会对常子感到恐惧,而且我觉得,一旦再遇到那些与自己睡过觉的女人,她们就会对我勃然大怒,所以对再见到她们颇为胆怯心虚。正因为我的性格如此,所以我对银座采取了敬而远之的态度。不过这种胆怯心虚的性格绝不是源于我的狡猾,而是因为我还不大明白这样一种不可思议的现象:女人这种生物在生存时,是把晚上一起睡觉与第二天早上起床之后这两者严格区分开来的,就像是彻底忘却了其间的关联一样,干净利落地斩断了那两个世界的联系。

  十一月末,我和掘木在神田的露天摊铺上喝廉价的酒。这个恶友主张离开现在的摊铺去另一个地方喝酒。可是我们已经花光了手头的钱,可在这种情况下他还是硬吵嚷着“喝呀,喝呀”。此时的我已经喝得醉醺醺的,胆子也变大了,我说道:

  “好吧,那我就带你去一个梦的国度。可别大惊小怪,那儿真可谓是’酒池肉林’……”

  “是一个酒馆?”

  “对。”

  “走吧。”

  事情就这样定了,两个人一起坐上了市营电车。掘木兴奋得欢蹦乱跳,说道:

  “今夜我可是好想要个女人呐。在那儿可以亲女招待吗?”

  平常我是不大愿意让掘木演出那种醉态的。掘木也知道这一点,所以又特意问了一句:

  “我亲她,行吗?坐在我旁边的女招待,我一定要亲给你瞧瞧。行不行?”

  “不要紧吧?”

  “那太好了!我真是太想要女人了。”

  在银座的四丁目下车后,仗着常子的关系,我们身无半文地走进了那家所谓酒池肉林的大酒馆。我和掘木挑了一个空着的包厢相对而坐,只见常子和另一个女招待迅速跑了过来。那另一个女招待坐在了我的身边,而常子则一屁股坐在了掘木的身边。我不由得吃了一惊:常子眼看就要被掘木亲吻了。

  但我并不是一种觉得可惜的感觉。我这个人本来就没有太强的占有欲,即使偶尔有可惜的感觉,也绝没有那种大胆主张自己的所有权,奋起与人抗争的力量,以致于在后来的某一天,我甚至默不做声地眼睁睁看着一个与自己同居的女人遭到了别人的玷污。

  我竭力避免介入人与人之间的芥蒂,害怕卷入那样的漩涡之中。常子与我不过是一夜的交情。她并不属于我。我不可能有觉得可惜的欲望,不过我毕竟还是吃了一惊。

  常子就在我的面前接受着掘木强烈的亲吻。我为常子的境遇感到可怜。这样一来,被掘木玷污过的常子或许就不得不与我分手了吧。而且我也不具备足够的热情来挽留住常子。啊,事情被迫到此结束了。我对常子的不幸涌起了瞬间的惊愕,但随即又如同流水般老老实实地彻底绝望了。我来回瞅着掘木与常子的面孔,嗤笑了起来。

  但事态却意想不到地恶化了。

  “算了吧!”掘木歪着嘴巴说道,“就连我这种穷光蛋也要的女人……”

  他就像是困窘至极似的交叉着双臂,目不转睛地盯着常子,苦笑了。

  “给我酒,我身上没有钱。”我小声地对常子说道。我真想喝个烂醉。从所谓的世俗眼光来看,常子的确是一个不值得醉汉亲近、丑陋而贫穷的女人。我感到自己就像是意外遭受到雷击一样。我喝呀,喝呀,从没喝过这么多酒,一直喝到烂醉如泥,与常子面面相觑,悲哀地微笑着。经掘木这么一说,我真的觉得她不过是一个疲惫不堪而又贫穷下贱的女人,可与此同时,一种同病相怜的亲近感又油然而生(我至今仍旧认为:贫富之间的矛盾尽管貌似陈腐,但却是戏剧家笔下永恒的主题)。我发现常子是那么可爱,以致于我平生第一次觉察到了自己萌发了一种虽然微弱却积极主动的恋爱之心。我吐了,吐得不省人事。喝酒喝得不省人事,这还是第一次。

  醒来一看,常子坐在我的枕边。原来我是睡在了本所木匠家二楼的房间里。

  “你说过’钱一用完,缘分就断’,我还以为是开玩笑来着。莫非你是真心说的?要不,你干嘛不来了?要断绝缘分也不是那么容易的。难道我挣钱给你用,还不行吗?”

  “不,那可不行。”

  然后那个女人也躺下睡了。拂晓时分,从女人的口中第一次迸出了“死”这个字眼。她早已被人世的生活折磨得筋疲力尽,而我一想到自己对人世的恐惧和生存的烦忧,还有金钱、女人、学业、运动等等,似乎就再也无法忍耐着活下去了。于是不加思索地赞同了她的提议。

  但当时我却没有真正做好去“死”的思想准备。其中的确隐含着某种“游戏”的成分。

  那天上午,我和她双双徜徉在浅草区,一块儿走进了一家咖啡馆,各自喝了一杯牛奶。

  “帐你先结了吧。”

  我站起身,从袖口里掏出小钱包,打开一看,里面仅有三块铜币。一种比羞耻更为凄烈的情愫一下子攫住了我。我的脑海里一闪而过的是自己在仙游馆的那个房间,那只剩下了学生制服和被褥,再也没有任何东西可以送进当铺的荒凉房间。除此之外,我的所有家当就只有此刻穿在身上的碎花布和服与斗篷了。这便是我的现实。我清醒地意识到自己已经是走投无路了。

  看见我不知所措的样子,那女人也站了起来,瞅了瞅我的钱包问道:

  “哎?!就这么点钱?!”

  尽管这句话有口无心,但分明有种疼痛感穿透了我的骨髓。这是我第一次因为自己所爱的人说的话而体验到的痛苦。三枚铜币说到底算不得是钱,它带给我从未咀嚼过的奇妙屈辱感,一种没脸再活下去的屈辱感。归根到底,那时的我还没彻底摆脱有钱人家纨绔子弟这一种属性吧。也就在这时候,我才真正地作为一种实感做出了去死的决定。

  那天夜里我们俩一块儿跳进了镰仓的海面。那女人嗫嚅着“这腰带还是从店里的朋友那儿借来的呐”,随即解了下来叠放在岩石上面。我也脱下了斗篷放在同一块岩石上,然后双双纵身跳进了海水里。

  女人死掉了,我却得救了。

  或许因为我是一个高中生,再加上父亲的名字多少具有一些所谓的新闻效应吧,情死的事儿被当作一起重大事件登载在报纸上。

  我被收容在海滨的医院里,一个亲戚还专程从故乡赶来,处理种种后事。故乡的父亲和一家人都勃然大怒,有可能就此与我断绝关系,那个亲戚这样告诉我以后就回去了。但我哪有心思顾及这些,我只是在想念死去的常子,禁不住潸然泪下。因为在我迄今为止交往的人中间,我只喜欢那个贫穷下贱的常子。

  房东的女儿给我寄来了一封长信,里面是她写的五十首短歌。这些短歌的开头一句全是清一色的“为我活着吧”这样一种奇特的句子。护士们快活地笑着到我的病房里来玩,其中有些护士总是在紧紧握过我的手之后才转身离去。

  在这所医院检查出我的左肺上有毛病。这对我来说,倒是一件好事。不久,我被警察以“协助自杀罪”为名带到了警局。在那里他们把我当病人对待,收容在特别看守室里。

  深夜,在特别看守室旁边的值班室内,一个通宵值班的年迈警察悄悄拉开两个房间中央的门,招呼我道:

  “冷吧。到这边来烤烤火吧。”

  我故作无精打采地走进值班室,坐在椅子上烤起火来。

  “到底还是舍不得那个死去的女人吧。”

  “嗯。”我故意用小得几乎听不见的声音回答道。

  “这就是所谓的人情吧。”

  接着他渐渐摆开了架势,俨然一副法官的样子装腔作势地问道。

  “最初和那女人搞上关系是在哪儿?”

  他当我是个小孩子,摆出一副审讯主任的派头,为了打发这个秋天的夜晚,企图从我身上套出什么近于猥亵的桃色新闻。我很快觉察出这一点,拼命忍住想笑的神经。尽管我也知道,对警察这种“非正式审讯”我有权利拒绝做出任何回答,但为了给这漫长的秋夜增添一点兴致,我始终在表面上奇妙地表现出一片诚意,仿佛从不怀疑他就是真正的审讯主任,而刑罚的轻重彻底取决于他的意志。我还进行了一番适当的“陈述”,以多少满足一下他那颗色迷迷的好奇心。

  “唔,这样我就大体上明白了。如果一切都照实回答。我嘛,自然会酌情从宽处理的。”

  “谢谢,还请您多多关照。”

  真是出神入化的演技。这是一种对自己毫无益处的卖力表演。

  天已经亮了。我被署长叫了过去。这一次是正式审讯。

  就在打开门走近署长室的当口,署长发话了:

  “哦,真是个好男儿啊。这倒怪不了你。怪只怪你的母亲,生下了你这样一个好男儿。”

  这是一个皮肤微黑、像是从大学毕业的年轻署长,听他突如其来地这样一说,我不禁萌发了一种悲哀的感觉,就像自己是一个半爿脸上长满了红斑的、丑陋的残疾人一样。

  这个署长的模样就像是一个柔道选手或剑道选手,他的审讯方式也显得干练爽快,与那个老警察在深夜进行的隐秘而执拗的的好色审讯相比,真可谓天壤之别。审讯结束后,署长一边整理送往检查局的文件,一边说道:

  “你得好好爱惜身体呐。你吐血了吧?”

  那天早晨我有些反常地咳嗽。一咳嗽,我就用手巾掩住嘴巴。只见手巾上就像是降了红色的霰子一样沾满了血。但那并不是从喉咙里咳出来的血,而是昨天夜里我抠耳朵下面的小疙瘩时流出来的血。我突然意识到,不挑明其间的真相或许对我更为有利,所以只是低下头,机敏地回答道:

  “是的。”

  署长写完文件后说道:

  “至于是否起诉,得由检察官来决定。不过,还是得用电报或电话通知你的担保人,让他到横滨检查局来一趟。总该有一个人吧,诸如你的担保人或监护人之类的。”

  我突然想起,一个曾经经常出入于父亲别墅、名叫涩田的书画古董商是我学校的担保人。这个叫涩田的人,和我们是同乡,常常拍我父亲的马屁,是一个长得又矮又胖、年届四十的独身男人。他的脸,特别是眼睛,与比目鱼十分相似,所以父亲总叫他“比目鱼”,我也就跟着那么叫惯了。

  我借助警察的电话簿,查到了“比目鱼”家的电话号码。我拨通了电话,请他到横滨检查局来一趟。没想到“比目鱼”就像是变了一个人似的,说起话来竟然装腔作势的,但还是答应了下来。

  “喂,那个电话话筒还是消毒一下为好。没看见他吐血了吗?”

  当我回到特别看守室坐下之后,听见署长正用大嗓门吩咐警察给电话话筒消毒。

  午饭以后,我被他们用细麻绳绑住胳膊,与一个年轻警察一起乘坐电车向横滨出发了。尽管他们准许我用斗篷遮住捆绑的痕迹,但麻绳的异端却被年轻的警察牢牢地握在手中。

  不过,我并没有丝毫的不安,倒是对警察署的特别看守和那个老警察依依不舍。呜呼,我怎么会沦落到这步田地呢?被作为犯人捆绑起来,竟反而使我如释重负,万般惬意。即使此刻我追忆当时的情形时,整个的我也不由自主地觉得心旷神怡了。

  但在那一段时期所有令人怀念的往事中,唯有一次悲惨的失败记录,它令我不胜汗颜,终生难忘。我在检查局一个阴暗的房间里接受了检察官简单的审讯。检察官年纪有四十岁左右,看起来像是一个性情温和、不乏气度的人(倘若说我长得漂亮的话,那也无疑室一种淫荡邪恶的漂亮,但这个检察官的脸上却萦绕着一种聪慧而且宁静的氛围,使你不得不承认那才是一种真正的漂亮)。所以我情不自禁地彻底放松了警惕,只是心不在焉地叙述着。突然我又咳嗽了起来。我从袖口掏出手巾,蓦地瞥见了那些血迹。顿时我涌起了一个浅薄的念头,以为或许我能够把这咳嗽作为一种筹码来进行讨价还价。“咯,咯”我夸张地大声假咳了两下,用手巾捂住嘴巴,顺势悄悄斜了检察官一眼。

  “你是在真咳吗?”

  他的微笑依旧是那么宁静。我直冒冷汗。不,即使现在我回想起来,依旧会紧张得手足无措。中学时代,当那个傻瓜竹一说我是“故意的,故意的”,戳穿了我的把戏时,我就像被一脚踢进了地狱里一样。可如果说我这一次的羞愧远远超过了那一次,也绝没有言过其实。那件事和这件事,是我整个生涯中演技惨败的两大记录,我有时甚至想:与其遭受检察官那宁静的侮辱,还不如被判处十年徒刑。

  我被予以缓期起诉,但我却高兴不起来。心中满是悲凉地坐在检查局休息室的长凳子上,等待着担保人“比目鱼”来领我出去。

  透过背后高高的窗户能望见晚霞燃烧的天空,一大群海鸥排成一个“女”字形飞走了。

手记之三

  竹一的两大预言,兑现了一个,落空了一个。“被女人迷恋上“这一并不光彩的预言化作了现实,而”肯定会成为一个伟大的画家“的这一祝福性的预言却归于泡影。

  我仅仅当上了给粗俗杂志投稿的无名的蹩脚漫画家而已。

  由于镰仓的殉情自杀事件,我遭到了学校的除名。于是,我不得不在“比目鱼“家二楼上一间三铺席大的房子里起居生活。每月从家里寄来极少金额的一点钱,并且不是直接寄给我,而是悄悄寄到“比目鱼”这儿来的。(好像是老家的哥哥们瞒着父亲寄来的)。除此之外,我与老家之间便被断绝了所有联系。而“比目鱼”也总是老大不高兴的样子,无论我怎样对着他讨好地笑,他也一笑也不笑,使我不得不怀疑:人怎么能如此轻易地变得面目全非呢?这令我感到可耻,不,毋宁说是滑稽。“比目鱼”一改过去的殷勤,只是对我反复絮叨着这样一句话:

  “不准出去。总之,请你不要出去。”

  看来,“比目鱼”认为我有自杀的嫌疑,换言之,存在着我跟随女人再度跳进大海的危险性,所以对我的外出严加禁止。我既不能喝酒,也不能抽烟,而只能从早到晚地蛰伏在二楼三铺席房间的被炉里翻一翻旧杂志,过着傻瓜一样的生活,甚至于连自杀的力气也丧失殆尽了。

  “比目鱼”的家位于大久保医专的附近,尽管招牌上堂而皇之地写着“书画古董商”、“青龙园”等等,可毕竟只占了这一栋房子两家住户中的一户。而且,店铺的门面也相当狭窄,店内落满了尘埃,堆放着很多的破烂货(本来“比目鱼”就不是靠着店里的破烂货在做生意,而是大肆活动于另一些场合,比如将某个所谓老板的珍藏品的所有权出让给另一个所谓的“老板”从中渔利)。他几乎从不呆坐在店里,而一清晨就扳起个脸,急匆匆地走出店门去了,只留下一个十七八岁的小伙计守店。当然他也是负责看守我的人了。一有闲工夫,他就跑到外面去,和邻近的孩子一起玩投球游戏,俨然把我这个二楼上的食客当作了傻瓜或是疯子,甚至有时像大人一样对我说教。这小伙计是涩田的私生子,只是其间有一些蹊跷的内幕,使得涩田和他没有父子相称。而且,涩田一直独身未娶,似乎与此也不无关系。我记得过去也从自己家里人那儿听到过一些有关的传闻,但我对别人的事情本来就没有太大的兴趣,所以对其中的详情一概不知。但那小伙计的眼神确实让人联想起那些鱼的眼睛来,所以,或许真的是“比目鱼”的私生子……倘若果然如此,他们俩倒也的确算得上一对凄凉的父子。夜深人静之时,他们常常瞒着二楼的我,一声不响地偷吃荞麦面什么的。

  在“比目鱼”家里,一直是由这个小伙计负责主厨的。我这个二楼的食客的饭菜,通常是由小伙计盛在托盘里送上来,而“比目鱼”和小伙计则在楼下四铺半席大的饮湿房间里匆匆忙忙地用餐,还一边把碗碟鼓捣得嗑嚓作响。

  在三月末的一个黄昏,或许是“比目鱼”找到了什么意料之外的赚钱门道,亦或是他另有计谋(即使这两种推测都没有错,至少也还有我等之辈无法推测的种种琐屑的原因吧),他破例把我叫到了楼下的餐桌旁。桌子上竟然很罕见地摆放着酒壶和生鱼片,而且那个生鱼片也不是廉价的比目鱼,而是昂贵的金枪鱼。就连款待我的主人家也大受感动,赞叹不已,甚至还向我这个茫然不知所措的食客劝了点酒。

  “你究竟打算怎么办呢,这以后?”

  我没有回答,只是从桌子上的盘子里夹起了一块干沙丁鱼片看着那小鱼身上银白色的眼珠子,酒劲便渐渐上来了。我开始怀念起那些四处乱转的时光,还有掘木。我是那么痛切地渴望起“自由”来了,以致差点脆弱得掩面哭泣。

  我搬进这个家以后,甚至于丧失了逗笑的欲望,只是任凭自己置身于“比目鱼”和小伙计的蔑视之中。“比目鱼”似乎也竭力避免与我进行推心置腹的长谈,而我自己也无意跟在他后面向他诉说衷肠,所以我几乎完全变成了一个湿乎乎的食客。

  “所谓缓期起诉,今后是不会变成一个人的前科的。所以就单凭你自己的决心就可以获得新生。若是你想洗心革面,正经八百地征求我的意见,那我自会加以考虑的。”

  “比目鱼”的说法,不,世上所有人的说法,总是显得转弯抹角,含糊不清,其中有一种试图逃避责任似的微妙性和复杂性。对于他们那种近于徒劳无益的严加防范的心理和无数小小的计谋,我总是感到困惑不已,最后只得听之任之,随他而去。要么我以滑稽的玩笑来敷衍塞责,要么我用无言的首肯来得过且过,总之,我采取的是一种败北者的消极态度。

  多年以后我才知道,其实当时要是“比目鱼”像下面这样简明扼要地告诉我,事情就会是另一个样子,可是……我为“比目鱼”多此一举的用心,不,为世人那不可理喻的虚荣心和面子观念,感到万般的凄凉和阴郁。

  “比目鱼”当时要是那么直截了当地告诉我就好了:

  “不管似乎官立学校还是私立学校,反正从四月开始,你得进一所学校。只要你肯进学校读书,老家就会寄来更充裕的生活费。”

  后来我才了解到,事实上,当时情况就是这样。那样说的话,我是会言听计从的吧。但是,由于“比目鱼”那种过分小心翼翼、过分转弯抹角的说法,我反倒闹起了别扭,以致于我的生活方向也完全改变了。

  “如果你没有诚心了来征求我的意见,那我就无可奈何了。”

  “征求什么意见?”我就像丈二和尚一样摸不到头脑。

  “关于你心中想的一些事情罢了。”

  “比如说?”

  “比如,你自己打算今后怎么办?”

  “还是找点活儿来干好吧?”

  “不,我是问你自己究竟是怎么想的?”

  “不过,即使我想进学校,也……”

  “那也需要钱。但问题不在钱上,而在于你的想法。”

  他为什么不挑明说一句“老家会寄钱过来”呢?仅此一句话,我就会下定决心的。可现在我却坠入了云里雾中。

  “怎么样?你对未来是否抱有希望之类的东西呢?照顾一个人有多难,这是受人照顾者所无法体会的。”

  “对不起您。”

  “这确实让我担心呐。我既然答应了照顾你,也就不希望你半途而废。我希望你拿出决心来,走上一条重新做人的道路。至于你将来的打算,如果你诚心诚意地告诉我征求我的意见,我是愿意与你一起商量着办的。当然,我“比目鱼”是个穷光蛋,但还是愿意资助你的。可是,如果你还奢望过从前那种阔绰的生活,那就大错特错了。不过,要是你的想法切实可行,明确地制定出了将来的方针,并愿意与我商量,那我会不厌其烦地帮助你获得新生。你明白吗?我的这种心情?你究竟以后打算怎么办?”

  “如果您真的不愿意收留我,我就出去找点活儿来干干……”

  “你是真心那么说的吗?在如今这个世上,就算是帝国大学的毕业生也还……”

  “不,我又不是去做什么白领阶层。”

  “那做什么呢?”

  “当画家。”我狠狠心说了出来。

  “嘿?!”

  我无法忘记当时“比目鱼”缩着脖子嗤笑的狡猾面影。那嗤笑的面影里潜藏着一种近于轻蔑却又不同于轻蔑的东西。倘若把人世间比作一片大海,那么,在大海的万丈深渊里就分明曳动着那种奇妙的影子。我正是透过那种嗤笑,管窥了成年人生活的深层奥秘。

  最后他说道:“想当画家的想法真是太荒唐了,你在情绪上一点也不稳定。你再考虑考虑吧,今天晚上你就好好地考虑一晚上吧。”被他这样一说,我就像是被人追撵着似的赶紧爬上了二楼。无论怎样辗转反侧地思考,也想不出什么别的主意。再过了一阵子,天破晓了。黎明时分,我从“比目鱼”家逃了出来。

  “傍晚时分我肯定回来,关于将来的打算,我这就去找下面所记的一位朋友商量,所以,请您不必为我担心。真的。”

  我用铅笔在便筏上写了上面的一番话。然后,又记下了浅草掘木正雄的住址和姓名,悄悄溜出了“比目鱼”家。

  我并不是因为讨厌“比目鱼”的说教才偷跑出来的。正如“比目鱼”所说的那样,我是一个情绪不稳定的男人。对于将来的打算,我一无所知,而且,如果一直呆在“比目鱼”家当食客的话,未免又对不起“比目鱼”。即使我想发奋图强,立下宏志,可一想到自己每个月都得从并不富裕的“比目鱼”那儿接受经济上的援助,不禁顿时黯然神伤,痛苦不堪。

  不过,我并不是真的想去找掘木商量什么“将来的打算”才逃离“比目鱼”家的。哪怕是片刻也好,我希望能先让“比目鱼”放下心来(而在他宽心的这段时间里,我便可以逃得再远一点,正是出于这种侦探小说式的策略,我才写下了那张留言条。不,不对,尽管不无这种心理,但更准确的说法是:我害怕自己冷不防带给“比目鱼”太大的打击,使他惊惶失措。尽管事情的真相迟早是要败露的,但我还是惧怕直截了当地说出来。因而必要进行某种掩饰。这正是我可悲的性格之一,尽管它与世人斥之为“撒谎”而百般鄙弃的性格颇为相似,但我却从来也没有为了牟取私利而那么做,我只是对那种气氛的骤然变化所造成的扫兴感到一种窒息感的恐惧,所以,即使明知事后对自己不利,也必定会进行那种拼死拼活的服务。纵然这种“服务”是一种被扭曲了的、微不足道而又愚蠢至极的东西,但恰恰是出于这种为人“服务”的心理,我才在许多场合下不由自主地添加上漂亮的修饰语。但这种习惯却常常被世上所谓的“正人君子”大肆利用),所以,就任凭记忆的驱使,把当时浮现在脑海中的掘木的住址和姓名随手写在便筏的一隅。

  我离开了“比目鱼”的家,一直步行着来到了新宿,卖掉了口袋里的书。这下我真是走投无路了。尽管我在朋友中人缘不错,可却一次也没有真切地体会到过那种所谓的“友情”。像掘木这样的耍耍朋友暂且不论,甚至所有的交往都只给我带来过痛楚。为了排遣那种痛楚,我拼命地扮演丑角,累得精疲力竭。即使是在大街上看到熟悉的面孔,哪怕只是与熟人相似的面孔,我都会大吃一惊,在一刹那间被那种令人头晕目眩的痛苦的战栗牢牢的地挟裹住。即使知道有人喜欢自己,我也缺乏去爱别人的能力(当然,我对世上的人是否真的拥有爱别人的能力这一点持怀疑态度)。这样的我是不可能拥有所谓“亲密朋友”的。而且,我甚至缺乏走访朋友的能力。对于我来说,他人的家门比《神曲》中的地狱之门还要阴森可怕。这并非危言耸听,我真有这样一种感觉:似乎有一种可怕的巨龙一般散发出腥臭的怪兽,正匍匐在别人家门的深处蠕动着。

  我和谁都没有来往,我哪儿都去不了。

  还是去掘木那儿吧。

  这是一种典型的假戏真做。我决定按照留言条上所写的那样去走访浅草的掘木。在这之前,我一次也没有主动去走访过掘木家,而大都是打电话叫掘木上我这儿来。眼下我甚至连电报费也掏不出来了,更何况凭我这副落魄潦倒之身,光发个电报,掘木恐怕是不会出来见我的吧。我决定做一次自己并不擅长的“走访“,于是叹息着坐上了电车。对于我来说,难道这个世上唯一的救命稻草就是那个掘木吗?一想到这儿,一种冷彻脊梁的凄凉感一下子笼罩了我。

  掘木在家。他的家是一栋位于肮脏的胡同深处的两层建筑。掘木占有的是二楼上一间仅有六铺席大的房间。掘木年迈的父母和三个年轻的工匠正在楼下制作木屐,一会儿敲敲打打,一会儿缝制木屐带子。

  那天,掘木向我展示了他作为都市人的崭新一面。即俗话所说的老奸巨猾的一面。他是一个冷酷狡诈的利己主义者,令我这个乡巴佬瞠目结舌。他远远不是一个像我这样永远飘泊流转的男人。

  “你真是让我吃了一惊呐。你家老爷子原谅你了吗?还没有?!”

  我没敢说自己是逃出来的。

  我像平常那样搪塞者。尽管马上就会被掘木察觉,但我还是搪塞着说道:

  “那总会有办法的。”

  “喂,那可不是闹着玩的。就算是我对你的忠告吧,干傻事到此该收手了。我嘛,今天还有点事呐,这阵子真是忙得不可开交。”

  “有事?!什么事?!”

  “喂,喂,你可别把坐垫上的带子扯断啦。”

我一边说话,一边无意识地用指尖鼓捣着铺在下面的坐垫的四个边上那穗子模样的绳子,也不知道那是坐垫上的线头子还是扎绳儿,我只是一个劲儿地扯拉着玩。只要是家里的东西,掘木似乎连坐垫上的一根细绳子都爱惜无比,甚至于不惜横眉竖眼,义正严辞地责备我。回想起来,掘木在以前与我交往中从来也没有吃过什么亏。

  掘木的老母亲把两碗年糕小豆汤放在托盘里送了上来。

  “哎呀,您这是……”

  掘木俨然一副不折不扣的孝顺儿子的模样,在老母亲面前显得诚惶诚恐的,就连说话的腔调也毕恭毕敬得有些不自然了:

  “对不起,是年糕小豆汤吗?真是太阔气了。原本用不着这么费心的,因为我们有事得马上出去呐。不过,一想到这是您特意做的拿手的年糕小豆汤,要是不吃又未免太可惜了。那我们就喝了吧。你也来一碗吧,怎么样?这可是我母亲特意做到呐。啊,这玩艺儿真好喝。太阔气啦!”

  他兴奋无比,津津有味地喝着,那神情也不完全像是在演戏。我也啜了一口小豆汤,只闻到一股白开水的味道。我又尝了尝年糕,觉得那压根儿就不是年糕,而是一种我全然不知的莫名其妙的物体。当然,我绝对不是在这里蔑视他们家的贫穷(其实当时我并不觉得难吃,而且老母亲的心意也令我大为感动。即使我对贫穷有一种恐惧感,也绝对没有什么轻蔑感)。多亏了那年糕小豆汤和因年糕小豆汤而兴高采烈的掘木,我才清楚地看到了都市人那节俭的本性,看到了东京人家庭那种内外有别、惨淡经营的真实面貌。我发现唯有愚蠢的我不分内外,接二连三地从别人的生活中四处逃窜,甚至还遭到了掘木这种人的嫌弃。这怎不令我惶恐?我鼓捣着涂漆剥落的筷子,一边喝年糕小豆汤,一边不由自主地陷入了一种难以忍受的寂寞和凄凉之中。我只想把这一点记录下来。

  “对不起,我今天有点事,”掘木站起身,一边穿上衣一边说道,“太失礼了,真是对不起。”

  这时,一个女客人来找掘木。谁知我的命运也随之发生了剧变。

  掘木一下子精神大振,说道:

  “哦,真是对不起。我正寻思着要去拜望您呐。可谁知来了个不速之客。不过没关系,喂,请吧。”

  他一副方寸大乱的样子。我把自己垫着的坐垫腾出来翻了个面递给他,他一把夺过去,又翻了个面放好,请那个女人就座。房间里除了掘木的坐垫之外,就剩下了一张客人用的坐垫。

  女人是一个瘦高个儿。她把坐垫往旁边挪了挪,在门口附近的角落边坐了下来。

  我茫然地听着他们俩的谈话,那女人像是某个杂志社的人,看样子不久前约请了掘木画什么插图,这一次是来取稿的。

  “因为很急,所以……”

  “已经画好了。而且是早就画好了的。这里就是。请过过目吧。”

  这时送来了一封电报。

  掘木看了看电报。只见他那本来兴高采烈的面孔一下子变得有些阴森可怖起来了。

  “喂,你说说,这究竟是怎么回事?”

  原来是“比目鱼”发来的电报。

  “总之,请你赶快回去。要是我能送你回去那固然好,可我眼下实在没那工夫。瞧你,从家里逃跑出来,还一副大摇大摆的模样。”

  “您住哪儿?”

  “大久保。”我不由得脱口而出道。

  “那正好是在敝公司的附近。”

  那女人出生在甲州,今年二十八岁。带着一个年满五岁的女儿住在高园寺的公寓里。据说她丈夫已去世快三年了。

  “您看起来像是吃了很多苦头才长大成人的呐。看得出您很机敏,够可怜的。”

  从此我第一次过上了男妾似的生活。在静子(就是那个女记者)去新宿的杂志社上班时,我就和她那个名叫繁子的五岁女儿一起照看家里。在此之前,当母亲外出时,繁子总是在公寓管理员的房间里玩耍,而现在有了一个“机敏”的叔叔陪着她玩,让她很是高兴。

  我在那儿稀里糊涂地呆了一周左右。透过公寓的窗户,能看见一只风筝绊在了不远的电线上。裹胁着尘土的春风把风筝吹得个七零八落,但它却牢牢地缠在电线上不肯离去,就像是在点头首肯似的。每当见此情景,我就忍不住苦笑起来,面红耳赤,甚至被恶梦所魇住。

  “我想要点钱。”

  “……要多少?”

  “要很多……俗话说‘钱一用完,缘分就断’,可真是一点儿也不假啊。“

  “你真傻。那不过是一句从前的老话而已……”

  “是吗?不过你是不会明白的。照这样下去,没准我会逃走的。”

  “到底是谁更没有钱呢?到底是谁要逃走呢?你真是奇怪呐。”

  “我要自己挣钱,用挣来的钱买酒,不,是买烟。就说画画吧,我也自认为比掘木画得好呐。”

  这种时候,我的脑子里会情不自禁地浮现出自己中学时代所画的那几张自画像,就是被竹一说成是“妖怪的画像”的那些自画像。那是一些丢失了的杰作。尽管它们在三番五次的迁徙中丢失了,但我总觉得,唯有它们才称得上优秀的画作。那以后我也尝试过画各种各样的画,但都远远及不上那记忆中的杰作,以致于我总是被一种失落感所折磨着,恍若整个胸膛都变成了一个空洞。

  一杯喝剩了的苦艾酒。

  我就这样暗暗地描述着那永远无法弥合的失落感。一提到画,那杯喝剩了的苦艾酒就会在我的面前忽隐忽现。我被一种焦躁感搅得心神不宁。啊,真想把那些画拿给她看看。我要让她相信我的绘画才能!

  “哼,怎么样?你竟然还会摆出一本正经的架势开玩笑,真是可爱呀。”

  这不是在开玩笑,而是真的!啊,真想把那些画拿给她瞧瞧。我就这样徒劳地想着。突然我改变了主意,断了那个念头,说道:

  “漫画,至少画漫画,我自认为比掘木强。”

  这句骗人的玩笑话,谁知她倒信以为真了。

  “是啊,其实我也蛮佩服你的。你平时给繁子画的那些漫画,让我看了都不禁捧腹大笑。你就试着画画看,怎么样?我也可以向我们社的总编引见你呐。”

  她们那家杂志社发行的是一种面向儿童的没有名气的月刊杂志。

  “……一看到你,大部分女人都巴不得为你做点什么呐……因为你总一副战战兢兢的样子,却又是一个出色的滑稽人物。……有时候你是那么茕茕孑然,郁郁寡欢,那模样更是让女人为之心动呐。”

  除此之外,静子还唠唠叨叨地说很多话来给我戴高帽子,可一想到那恰恰是隶属于男妾的可鄙特性,我就变得越发“郁闷消沉”、委靡不振了。我暗地里忖度到:金钱比女人更重要,我迟早都要离开静子去过自食其力的生活。可事实上,我却是越来越依赖于静子了。包括我从“比目鱼”家出走之后所有的事情,我都受到了这个胜过男性的甲州女人的关照,结果,我在静子面前更是不得不“战战兢兢”的了。

  在静子的安排下,“比目鱼”、掘木以及静子三人进行了三方会谈,达成了协议:我与老家彻底决裂,而与静子“堂堂正正”地同居。在静子的多方奔走下,我的漫画也意外地赚了些收入,我用钱来买酒和烟。谁知我的不安和悒郁却有增无减。郁郁不乐之至,使我在为静子他们的杂志画每月的连载漫画《金太郎与小太郎的冒险》时,情不自禁地回想起故乡的家人来。由于过分凄寂,手中的画笔有时会戛然停止运作,而我伏在桌子上早已是泪流满面了。

  这种时候,能稍微安慰我的就只有繁子了。繁子已经毫不忌讳地把我叫做“爸爸”了。

  “爸爸,有人说只要一祈祷,神什么都会答应的,这话可当真?”

  说来我倒是正需要这样的祈祷呐。

  啊,请赐给我冷静的意志!请告诉我“人”的本质!一个人排挤欺负另一个人,难道也不算罪过吗?请赐给我愤怒的面罩!

  “嗯,是的,对繁子嘛,神什么都会答应的。可是对爸爸呢,恐怕就不灵验了。”

  “为什么不灵验呢?”

  “因为爸爸违抗了父母之言。”

  “是吗?可大家都说,爸爸是个大好人呐。”

  那是因为我欺骗了他们。我也知道,这公寓里人人都向我表示出好感,可事实上,我是多么畏惧他们啊!我越是畏惧他们,就越是博得他们的喜欢,而越是博得他们的喜欢,我就越是畏惧他们,并不得不离他们远去。可是,要向繁子讲明我这种不幸的乖僻,分明是一件困难至极的事情。

  “繁子,你究竟想向神祈祷些什么呢?”我漫不经心地改变了话题。

  “繁子我想要自己真正的爸爸呐。”

  我吃了一惊,眼前一片晕眩。敌人。我是繁子的敌人?还是繁子是我的敌人?总之,这里也有一个威胁着我的可怕的大人。他人,不可思议的他人,尽是秘密的他人。顷刻间在我眼里,繁子一下子变成了那样一个他人。

  原以为只有繁子是个例外,没想到她的身上也隐藏着“无意中抽死牛虻的牛尾巴。”打那以后,我甚至在繁子面前也不得不提心吊胆了。

  “色魔!在家吗?”

  掘木又开始上这儿来找我了。我从“比目鱼”家出走的日子里,他曾经那么冷漠地对待我,可现在我却无法拒绝他,只能微笑着迎接他。

  “不是听人说你的漫画很受欢迎吗?像你这样的业余爱好者,倒很有点‘初生牛犊不怕虎’的胆量啊。不过也万万大意不得呀。你的素描就一点也不成样子呐!”

  他在我面前摆出一副绘画大师的架势。要是我把那些“妖怪的画像”拿给他看,他会是怎样一种表情呢?我又像惯常那样开始徒劳地焦虑不安起来。我说道:

  “你别那么说我,要不我会大哭一场的。”

  掘木越发得意了:

  “如果仅仅依靠为人处世的才能,迟早会露陷的哟。”

  为人处世的才能……听他这么一说,我除了苦笑之外无以对答。我居然具有为人处世的才能!莫非在别人眼里,我那种畏惧他人、躲避他人、搪塞他人的性格,竟然与遵从俗话所说的那种“明哲保身、得过且过”的处世训条的做法,在表现形式上是相同的吗?啊,人们彼此并不了解,相互截然不同,却自以为是亲密无间的挚友,一辈子也没有觉察到彼此的殊异。待等对方死去,不是还哭哭啼啼地念一番悼词吗?

  掘木是处理我离开“比目鱼”家之后各种问题的见证人(他肯定是在静子的央求之下才勉强答应下来的),所以,他摆出一副像是我重新做人的大恩人亦或月下老人的派头,要么煞有介事地对我进行说教,要么深更半夜喝得烂醉跑来借宿,要么从我这儿借走五块钱(每次都毫无例外是五块)。

  “不过,你玩女人也该到此为止了吧。再玩下去的话,世间是不会容忍的。”

  所谓世间,又是什么呢?是人的复数吗?可哪儿存在着“世间”这个东西的实体呢?迄今为止,我一直以为它是一种苛烈、严酷、而且可怕的东西,并且一直生活在这种想法之中,如今被掘木那么一说,有句话差一点就迸出了我的喉咙口:

  “所谓的世间,不就是你吗?”

  我害怕激怒了掘木,所以,话到嘴边又咽了回去。

  (世间是不会容许那么做的。)

  (不是世间,而是你不会容许那么做的吧。)

  (如果那么做,世间会让你头破血流的!)

  (你不久就会被世间埋葬。)

  (不是被世间,而是被你埋葬吧。)

  (对自己的可怕、怪异、恶毒、狡诈喝诡谲,你要有点自知之明!)

  诸如此类的话语在我胸中你来我往。尽管如此,我却只能用手巾揩拭着汗涔涔的脸庞,笑着嗫嚅道:

  “冷汗,冷汗!”

  打那时候起,我开始萌发了一种可以称之为“思想”的念头:所谓的世间,不就是个人吗?

  从我萌发了这个念头之后,与以前相比,我多多少少能够按照自己的意志行事了。借静子的话来说,我变得有点任性了,不再像以前那样战战兢兢了。再借掘木的话来说,我变得出奇地吝啬小气了。而借繁子的话,我不大宠着她了。

  我变得不苟言笑了,每天一边照看繁子,一边应各家杂志社之约(渐渐地,静子他们以外的出版社也开始向我约稿了,不过,那都是一些比静子她们更低级的所谓三流出版社的约稿)画一些连自己都不知所云的、以自暴自弃为题的连载漫画,诸如《金太郎与小太郎的冒险》,还有明显模仿《悠闲爸爸》而作的《悠闲和尚》,以及《急性子小阿乒》等等。我满心忧郁,慢条斯理地画着(我的运笔速度算是相当迟缓的),以此来挣点酒钱。静子从杂志社回到家里之后,就轮到我外出了。我阴沉着脸走出家门,在高园寺车站附近的滩铺上,或是简易酒馆里,啜饮着廉价而烈性的酒,等待心情变得快活之后,才又回到公寓里,我对着静子说道:

  “越看越觉得你长相怪怪的。其实啊,悠闲和尚的造型就是你睡觉时的模样中得到灵感的呐。”

  “你睡觉时的模样,也显得很苍老哟。就像是个四十岁的男人。”

  “还不是都怪你。我都被你吸干了。俗话说‘河里的水流,人的身体’,有什么闷闷不乐想不开的呢?”

  “别瞎嚷嚷了,早点休息吧。要不,你先吃点饭吧。”她是那么平心静气的,根本不理睬我那一套。

  “如果是酒的话,我倒很想喝一点……河里的水流和人的身体,人的水流和……不,是河里的水流和流水的身体……”

  我一边哼哼唧唧的,一边让静子给我脱下衣服。然后我就把额头埋在静子的胸脯里睡了过去。这便是我的日常生活。

  第二天也重复着同一件事情
  只需遵从与昨天相同的习性
  倘若愿意避免狂喜狂乐
  大惊大悲就不会降临
  躲开前方的挡路巨石
  像蟾蜍一般迂回前进

  当我读到由上田敏[日本诗人、翻译家],由夏尔・库洛所作的这首诗时,整个脸庞羞赧得就像火苗在燃烧一样。

  蟾蜍。

  (这就是我。世间对我已经无所谓容忍与不容忍,埋葬与不埋葬了。我是比狗和猫更劣等的动物。蟾蜍。只会趴在地上悉索蠕动的蟾蜍。)

  我的酒量越来越大了。不仅到高园寺车站附近,还到新宿、银座一带去喝酒,甚至有时还在外面过夜。为了避免“遵从与昨天相同的习性”,我要么在酒吧里装出无赖汉的模样,要么接二连三地乱亲女人,总之,我又回复到了情死之前的那种状态,不,甚至成了比那时候更粗野更卑鄙的酒鬼。被钱所困时,我还把静子的衣服拿出去当掉。

  自从我来到这个公寓,对着那被大风刮得七零八落的风筝露出苦涩的微笑之后,已经过去了一年多的时间。当樱花树长出嫩叶的时节,我悄悄偷走了静子和服上的腰带和衬衫,拿到当铺去典当,然后用换来的钱去银座喝酒。我连续在外面过了两夜,到了第三天的晚上,我感到身体不适,不知不觉地又蹑手蹑脚地来到了静子的房门前。只听到里面传来了静子和繁子的谈话声:

  “干吗要喝酒?”

  “爸爸可不是因为喜欢喝酒才喝的。只因为他人太好了,所以……”

  “好人就要喝酒吗?”

  “倒也不是那样,不过……”

  “爸爸没准会大吃一惊的。”

  “没准会讨厌呐。瞧,瞧,又从箱子里跳出来了。”

  “就像是急性子的小阿乒一样。”

  “说得也是。”

能听到静子那压低了嗓门却发自肺腑的幸福笑声。

  我把门打开了一条缝瞅了瞅里面,原来是一只小白兔。只见小白兔在房间里欢蹦乱跳,而静子母女俩正追着它玩。

  (真幸福啊,她们俩。可我这个混蛋却夹在她们中间,把她们俩的生活搅得一塌糊涂。节俭的幸福。一对好母女。啊,倘若神灵能够听见一次我这种人的祈求的话,那么,我会祈求神灵赐给我一次幸福,哪怕只是一生中唯一的一次幸福也罢。)

  我蹲在那里,真想合掌祈祷。我轻轻地拉上门,又回银座去了。从那以后,我就再也没有回过那个公寓。

  而我却又一次以男妾的形式寄宿于离京桥很近的一家简易酒吧的二楼上了。

  世间。我开始隐隐约约明白了世间的真相,它就是个人与个人之间的争斗,而且是即时即地的斗争。人需要在那种争斗中当场取胜。人是绝不可能服从他人的。即使是当奴隶,也会以奴隶的方式进行卑屈的反击。所以,人除了当场一决胜负之外,不可能有别的生存方式。虽然人们提倡大义名分,但努力的目标毕竟是属于个人的。超越了个人之后依旧还是个人。世间的不可思议其实也就是个人的不可思议。所谓的汪洋大盗,实际上并不是世间,而是个人。想到这儿,我多少从对所谓的世间这一汪洋大海的幻影所感到的恐惧中解放了出来。不再像以前那样漫无止境地劳心费神了。即是说,为了适应眼前的需要,我多少学会了一些厚颜无耻。

  离开高园寺的公寓后,我来到了京桥的一家简易酒吧。“我和她分手了。”我只对老板娘说了这一句话,但仅凭这一句话我已经决出了胜负。从那天夜里起,我便毫不客气地住进了那里的二楼。尽管如此,那本该十分可怕的“世间”却并没有施加给我任何伤害,而我自己也没有向“世间”进行任何辩解。只要老板娘不反对,一切的一切便不在话下了。

  我既像是店里的顾客,又像是店老板,也像个跑腿的侍从,还像是个亲戚。在旁人眼里,我无疑是一个来路不明的人。但“世间”却没有表现出丝毫的惊讶,而且店里的常客们也“阿叶、阿叶”地叫我,对我充满了善意,还向我劝酒。

  慢慢地我对世间不再小心翼翼了。我渐渐觉得,所谓的世间这个地方并非那么可怕了。换言之,迄今为止的那种恐怖感很有点杞人忧天的味道,就好比担心春风里有成千上万的咳细菌,担心澡堂里隐藏着成千上万导致人双目失明的细菌,担心理发店里潜伏着秃头病的病菌,担心生鱼片和生烤猪肉牛肉里埋伏着涤虫的幼虫啦、肝蛭啦,还有什么虫卵等等,担心赤脚走路时会有小小的玻璃渣扎破脚心,而那玻璃渣竟会进入体内循环,刺破眼珠,使人失明。的确,所谓“成千上万的细菌在那儿蠕动”或许从“科学”的角度看准确无误,但同时我开始懂得:只要我彻底抹煞他们的存在,他们也就成了和我毫无关联,转瞬即逝的“科学的幽灵”。人们常说,如果饭盒里剩下三粒饭,一千万人一天都剩三粒,那就等于白白浪费了好几袋大米;还有如果一千万人一天都节约一张擤鼻涕纸,就会汇聚成多么大的一池纸浆啊。这种“科学的统计”曾经使我多么胆战心惊啊。每当我吃剩一粒米饭时,或是擤一次鼻涕,我就觉得自己白白浪费了堆积如山的大米和纸浆。这种错觉死死地攫住我,使我黯然神伤,仿佛自己正犯下重大的罪孽一样。但这恰恰是“科学的谎言”、“统计的谎言”、“数学的谎言”。在黑灯瞎火的厕所粒,人们踩虚脚掉进粪坑里的事,会在多少次中出现一次呢?还有,乘客不小心跌进车站出入口与月台边缘缝隙中的事,又是会在多少人中有一个人发生呢?统计这种可能性是愚蠢可笑的,与此相同,三粒米饭也是不可能被汇集一处的。即使作为乘法除法的应用题,这也是过于原始而低能的题目。尽管它的确有可能发生,但真正在厕所的茅坑上踩虚了脚而受伤的事例却从没有听说过。不过,这样一种假设却被作为“科学的事实”灌输进我的大脑。直到昨天我还完全把它作为现实来接受并担惊受怕。我觉得自己是那么天真可爱,忍不住想笑。我开始一点一点地了解“世间”的实体了。

  尽管如此,人这种东西在我的眼里仍旧十分可怕。在下去见店里的顾客时,我必须得先喝干一杯才行。可我又是多么想看到那些可怕的东西啊,所以我每天晚上都到店堂里去,就像小孩子总是把自己害怕的小动物紧紧捏在手中一样,我开始在喝醉的时候向店里的客人吹嘘自己拙劣的艺术论。

  漫画家。啊,我只是一个没有大悲也没有大喜的无名漫画家。我内心中焦急地期盼着狂烈的巨大快乐,即使再大的悲哀紧随而来,我也在所不惜。可是,眼下我的乐趣却不外乎与客人闲聊神吹,喝客人请我喝的酒。

  来到京桥以后,我已过了一年如此无聊的生活。我的漫画也不再仅仅限于儿童杂志,而开始登载在车站上贩卖的粗俗猥亵的杂志上。我以“上司几太”(情死未遂)这个谐谑的笔名,画了一些龌鹾的裸体画,并大都插入了《鲁拜集》[波斯诗人欧玛儿・海亚姆所著四行诗集]中的诗句:

  停止做那些徒劳的祈祷,
  不要再让泪水白白流掉。
  来,干一杯吧,只想着美妙的事情
  忘记一切多余的烦恼。

  那用不安和恐怖威胁人的家伙
  惧怕自己制造的弥天罪恶,
  为了防备死者的愤然复仇,
  终日算计,不得安卧。

  叫喊吧!我的心因醉意而充满欢欣,
  今早醒来却只有一片凄清。
  真是怪我,相隔一夜,
  我的心竟判若两人!

  难道正义是人生的指针?
  那么,在血迹斑斑的战壕
  瞧那暗杀者的刀锋上
  又是何种正义在喧嚣?

  哪里有真理给我们的指示?
  又是何种睿智之光在照耀闪烁?
  美丽与恐惧并存于浮世,
  软弱的人子负起不堪忍受的重荷。

  因为我们被播撒了情欲的种子,
  所以总听到善与恶、罪与罚的咒语。
  我们只能束手无策彷徨踟躇,
  因为神没有赐给我们力量和意志。

  你在哪里彳亍徘徊?
  你在对什么进行抨击、思索和忏悔?
  是并不存在的幻觉,还是空虚的梦乡?
  哎,忘了喝酒,那全成了虚假的思量!

  请遥望那漫无边际的天空,
  我们乃是其中浮现的一小点。
  怎能知道这地球是凭什么自转?!
  自转,公转,反转,又与我们有何相干?!

  到处都有至高无上的力量,
  所有的国家,所有的民族,
  无不具有相同的人性。
  难道只有我一个是异端之族?

  人们都读了《圣经》,
  要不就是缺乏常识和智慧。
  竟然忌讳肉体之乐,还禁止喝酒,
  好啊,穆斯塔法,我最讨厌那种虚伪!

  (摘自掘井梁步译《鲁拜集》)

  那时,有一个处女劝我戒酒。她说道:

  “那可不行啊,你每天一吃午饭就开始喝得醉醺醺的。”

  她就是酒吧对面那家香烟铺子里的小女孩,年纪有十七八岁,名字叫良子。白白的肤色,长着一颗虎牙。每当我去买香烟时,她都会笑着给我忠告。

  “为什么不行呢?有什么不好呢?有多少酒就喝多少酒。’人之子呀,用酒来消除憎恨吧!’这是古代波斯一个诗人说的,哎呀,不用说这么复杂。他还说’给我这悲哀疲惫的心灵带来希望的,正是那让我微醉的玉杯’呐。这你懂吗?”

  “不懂。”

  “你这小家伙,让我来亲你一下吧。”

  “亲就亲呗。”

  她毫不胆怯地翘起了下嘴唇。

  “混蛋,居然没有一点贞操观念。”

  但良子的表情里分明却飘漾着一种没有被任何人玷污过的处女的气息。

  在开年后的一个严寒的夜晚,我喝得醉醺醺地出去买香烟。不料掉进了香烟铺前面那个下水道的出口里,我连声叫着:“良子,救救我救救我。”良子把我使劲拽了上来,还帮我治疗右手上的伤口。这时她一笑也不笑,恳切地说道:

  “你喝得太多了。”

  我对死倒是满不在乎,但若是受伤出血以致于身体残废,那我是死活不干的。就在良子给我护理手上的伤口时,我寻思我是不是真的该适当地戒酒了。

  “我戒酒。从明天起一滴也不沾。”

  “真的?!”

  “我一定戒。如果我戒了,良子肯嫁给我吗?”

  关于她嫁给我的事,其实只是一句玩笑话而已。

  “当然咯。”

  所谓“当然咯”,是“当然肯咯”的省略语。当时正流行各种各样的省略语,比如时男(时髦男子)呀,时女(时髦女子)等等。

  “那好哇。我们就拉拉勾一言为定吧。我一定戒酒。”

  可第二天我从吃午饭时又开始喝酒了。

  傍晚时分,我踉踉跄跄地走到外面,站在良子的店铺前面,高喊道:

  “良子,对不起,我又喝了。”

  “哎呀,真讨厌,故意装出一副醉了的样子。”

  我被她的话惊了一跳,仿佛酒也醒了许多。

  “不,是真的。我真喝了呐。我可不是故意装出醉了的样子。”

  “别作弄我,你真坏。”

  她一点也不怀疑我。

  “不是一眼就明白了吗?我今天从中午起又喝酒了。原谅我吧。”

  “你可真会演戏呐。”

  “不是演戏,你这个傻瓜。让我亲亲你吧。”

  “亲呀!”

  “不,我可没有资格呀。娶你做媳妇的事也只有死心了。瞧我的脸,该是通红吧。我喝了酒呐。”

  “那是因为夕阳照着脸上的缘故。你想耍弄我可不行。昨天不是说定了吗?你不可能去喝酒的。因为我们拉了勾的。你说你喝了酒,肯定是在撒谎,撒谎,撒谎!”

  良子坐在昏暗的店铺里微笑着。她那白皙的脸庞,啊,还有她那不知污秽为何物的“童贞”,是多么宝贵的东西。迄今为止,我还没和比我年轻的处女一起睡过觉。和她结婚吧,即使再大的悲哀因此而降临吾身,我也在所不惜。我要体验那近于狂暴的巨大欢乐,哪怕一生中仅有一次也行。尽管我曾经认为,童贞的美丽不过是愚蠢的诗人所抱有的天真而悲伤的幻觉罢了,可我现在发现,它确实真真切切地存在于这个世界上。结婚吧,等到春天到来,我和她一起骑着自行车去看绿叶掩映的瀑布吧!我当即下了决心,也就是抱着所谓的“一决胜负”的心理,毫不犹豫地决定:偷摘这朵美丽的鲜花。

  不久我们便结婚了。由此而获得的快乐并不一定很大,但其后降临的悲哀却可以形容为凄烈之至,难以想象。对于我来说,“世间”的确是一个深不可测的可怕地方,也绝不是可以依靠“一决胜负”便可以轻易解决一切的场所。

  掘木与我。

  相互轻蔑却又彼此来往,并一起自我作践——倘若这就是世上所谓“朋友”的真面目,那我和掘木的关系无疑正好属于“朋友”的范畴。

  仰仗着京桥那家酒吧老板娘的狭义之心(尽管所谓女人的狭义之心乃是语言的一种奇妙用法,但据我的经验来看,至少在都市的男女中,女人比男人更具有可以称之为狭义之心的东西。男人大都心虚胆怯,只知道装点门面,其实吝啬无比),我得以和那香烟铺子的良子同居在一起了。我们在筑地[东京的一个地名]靠近隅田川的一栋木结构的两层公寓处租借了楼下一个房间住了下来。我把酒也戒掉了,开始拼命地从事那日渐成为我固定职业的漫画创作。晚饭后我们俩一起去看电影,在回家的路上或是双双折进咖啡馆喝点什么,或是买下一个花钵,不,这一切都算不了什么,我最大的乐趣乃是和由衷信赖自己的这个小新娘子呆在一起,倾听她说出的每一句话,观赏她做出的每一个动作。我甚至觉得自己正变得越来越像一个真正的人了,用不着再悲惨地死去。就在我心中慢慢酝酿着这种天真的想法时,掘木又出现在了我的面前。

  “哟,色魔!哎呀,从你的表情看来,像是多少变得通晓事理了。今天我是从高圆寺那个女士那儿派来的使者呐。”他开口说道,又突然降低了嗓门,朝正在厨房里砌茶的良子那边翘起下巴,问我:“不要紧吧?”

  “没什么,说什么都无所谓。”我平静地回答道。

  事实上,良子真是算得上信赖的天才。我和京桥那家酒吧的老板娘之间的关系自不用说,就连我告诉她自己在镰仓发生的那件事时,她对我和常子之间的事也毫不怀疑。这倒不是因为我自己善于撒谎,有时候我甚至采取的是一种再明白不过的说法,可良子也只当是笑话来听。

  “你还是那么自命不凡呐。也没什么大不了的事,她让我转告你,偶尔也去高圆寺那边玩玩吧。”

  就在我刚要忘却之际,一只怪鸟扑打着翅膀飞了过来,用嘴啄破了我记忆的伤口。于是,转眼之间,过去那些耻辱与罪恶的记忆又在脑海里复苏了,使我感到一种禁不住要高声呐喊的恐怖,再也不能平心而坐了。

  “去喝一杯吧。”我说道。

  “好的。”掘木回答道。

  我和掘木。我们俩在外表上是那么相似,甚至被误认为是一模一样的人。当然这也仅仅局限于四处游荡着喝那种廉价酒的时候。总之,两个人一碰面,就顷刻变成了外表相同、毛色相同的两条狗,一起在下着雪的小巷里来回窜动。

  打那天以后,我们又开始重温过去的交情,还结伴去了京桥那家酒吧。最后,两条醉成烂泥的狗还造访了高圆寺静子的公寓,在那里过夜留宿。

  那是一个无法遗忘的闷热的夏夜。黄昏时分,掘木穿着一件皱巴巴的浴衣来到了我在筑地的公寓。他说他今天有急用当掉了夏天的衣服,但倘若被他的老母知道了,事情就会变得很糟糕,所以想马上用钱赎回来,让我借点钱给他。不巧我手头也没有钱,所以就按照惯例,让良子拿她的衣服去当铺换点现钱回来。可借给掘木后还剩了点钱,于是让良子去买了烧酒。隅田川上不时吹来夹杂着泥土味的凉风,我们来到屋顶上摆了一桌不干不净的纳凉晚宴。

  这时,我们开始了喜剧名词和悲剧名词的字谜游戏。这是我发明的一种游戏。所有的名词都有阴性名词、阳性名词、中性名词之分,同样,也应该有喜剧名词与悲剧名词之分。比如说,轮船和火车就属于悲剧名词,而市营电车和公共汽车就属于喜剧名词。如果不懂得如此划分的缘由,是无权奢谈什么艺术的。作为一个剧作家,哪怕是喜剧中只夹杂了一个悲剧名词,也会因此而丧失资格。当然,悲剧场合亦然。

  “准备好了没有?香烟是什么名词?”我问道。

  “悲剧(悲剧名词的略称)”掘木立即回答道。

  “药品呢?”

  “药粉还是药丸?”

  “针剂。”

  “悲剧。”

  “是吗?可还有荷尔蒙针剂呐。”

  “不,绝对是悲剧。你说,注射用的针首先不就是一个出色的悲剧吗?”

  “好吧,先算我输给你了吧。不过你说,药品和医生不都意外地属于喜剧吗?那么,死亡呢?”

  “喜剧。牧师与和尚也一样。”

  “棒极了!那么,生存就该是悲剧了吧。”

  “不,生存也是喜剧。”

  “这样一来,不是什么都变成了喜剧了吗?我再问你一个,漫画家呢?不能再说是喜剧了吧?”

  “悲剧,悲剧,一个极大的悲剧名词呐。”

  一旦变成了这样一种粗俗的谐谑,的确是有些无聊了,但我们却自命不凡地把这种游戏看作世界上所有沙龙都不曾有过的巧妙的东西。

  当时我还发明了另一种与此类似的游戏。那就是反义词的字谜游戏。比如,黑色的反义(反义词的略称)是白色,白色的反义却是红色,而红色的反义是黑色。

  “花的反义词呢?”我问道。

  掘木撇着嘴巴,想了想说道:

  “哎,有一个餐馆的名字叫‘花月’,这样说来,就该是月亮吧。”

  “不,那可不能成其为反义词呐,毋宁说是同义词。星星和紫罗兰,不就是同义词吗?那绝对不是反义词。”

  “我明白了。那就是蜜蜂。”

  “蜜蜂?!”

  “莫非牡丹与蚂蚁相配?”

  “什么呀,那是画题呐。你可别想蒙混过关。”

  “我明白了。花儿是与云朵相对吧。”

  “对,对,花与风呐。是风。花的反义词是风。”

  “这可太蹩脚了。那不是浪花节[一种三弦伴奏的民间说唱歌曲,类似中国的评弹]中的句子吗?你这下可真是泄漏了老底儿呐。”

  “要不,就是琵琶。”

  “这就更不对了。关于花的反义词嘛,应该是举出这个世界上最不像花的东西才对。”

  “所以……等一等,什么呀,莫非是女人?”

  “顺便问一句,女人的同义词是什么?”

  “是内脏呗。”

  “你真是个对诗一窍不通的人。那么,内脏的反义词呢?”

  “是牛奶。”

  “这倒是有点精彩。按照这个样子再来一个。耻辱的反义词是什么?”

  “是无耻。是流行漫画家上司几太。”

  “那掘木正雄呢?”

  说到这里,我们俩却再也笑不起来了。一种阴郁的气氛笼罩住了我们,就仿佛喝醉了烧酒之后所特有的那种玻璃碎片扎着脑袋似的感觉。

  “你别出言不逊!我还没有像你那样蒙受过当罪犯的耻辱呐。”

  这让我大吃一惊。原来在掘木心中,并没有把我当作真正的人来看待,而只是把我视为一个自杀未遂的、不知廉耻的愚蠢怪物,即所谓“活着的僵尸”。他仅仅是为了自己的快乐而在最大限度上利用我罢了。一想到我和他的交情仅止于此,我不禁耿耿于怀。但转念一想,掘木那样对待我也是在所难免的。打一开始我就像是一个没有做人资格的小男孩一样。遭到掘木的蔑视也是理所当然的。

  “罪。罪的反义词是什么呢?这可是一道难题哟。”我装着若无其事的表情说道。

  “法律。”掘木平静地回答道。

  我不由得再一次审视着掘木的面孔。附近那栋大楼上的霓虹灯闪烁着照耀在掘木身上,使他的脸看起来就像是魔鬼刑警一般威风凛凛。我煞是惊讶地说道:

  “你说什么呀?罪的反义词不会是那种东西吧。”

  他竟然说罪的反义词是法律!或许世人都是抱着那样一种简单的想法而装模作样地生活着。以为罪恶只是在没有警察的地方蠢蠢欲动。

  “那么,你说是什么呢?是神吧?因为在你身上有一种恍若僧侣的东西,真让人讨厌。”

  “别那么轻易下结论,让我们俩再想想看吧。不过,这不是一个有趣的题目吗?我觉得,单凭对这个题目的回答,就可以知晓那个人的全部秘密。”

  “未必吧。……罪的反义词是善。善良的市民,也就是像我们这样的人。”

  “别再开这种玩笑了。不过,善是恶的反义词,而不是罪的反义词呐。”

  “恶与罪难道有什么不同吗?”

  “我想是不同的。善恶的概念是由人创造出来的,是人随随便便创造出来的道德词语。”

  “真讨厌呐。那么,还是神吧。神,神。把什么都归结为神,总不会有错吧。哎呀,我的肚子都饿了呐。”

  “良子现在正在楼下煮蚕豆呐。”

  “那太棒了。那可是好东西呀。”

  他把两只手交叉着枕在脑袋后面,仰面躺在了地上。

  “你好像对罪一点兴趣也没有。”

  “说来也是,因为我不像你那样是个罪人呀。即使我玩女人,也决不会让女人去死,我也没有卷走女人的钱财。”

  并不是我让女人去死的,我也没有卷走女人的钱财。只听见我的内心深处某个角落里回荡着这低沉的、但却竭尽全力的抗议之声。随即我又转念想到,那一切都是自己的不是。而这正是我奇特的特性。

  我怎么也无法与人当面抗辩。我拼命克制着,不让自己的心情因烧酒阴郁的醉意而变得更加阴森可怕。我几乎是在自言自语的嗫嚅着:

  “不过,唯有被关进监狱这一点,不算是我的罪。我觉得,只要弄清了罪的反义词,那么也就把握住了罪的实体。神……拯救……爱……光明……但是,神本身有撒旦这个反义词,而拯救的反义词却是苦恼,爱的反义词则是恨,光明的反义词则是黑暗,善的反义词则是恶。罪与祈祷,罪与忏悔,罪与告白,罪与……呜呼,全是同义词。罪的反义词究竟是什么呢?”

  “罪的反义词是蜜,如蜂蜜般甘甜。哎呀,我肚子都恶了,快去拿点吃的东西来吧。“

  “你自己去拿来不就得了吗?”

  我用平生从未有过的愤怒的声音说道。

  “好吧,那我就到楼下去,和良子一起犯罪后再上来吧。与其空谈大论,还不如实地考察呐。罪的反义词是蜜兜,不,是蚕豆吗?”

  他已经酩酊大醉,语无伦次了。

  “随你的便,随你滚到哪儿去都行!”

  “罪与饥饿,饥饿与蚕豆,不对,这是同义词吧?”

  他一边信口雌黄,一边站了起来。

  罪与罚。陀斯妥耶夫斯基。这念头倏然间掠过了我大脑的某个角落,使我大吃一惊。倘若那个陀斯妥耶夫斯基不是把罪与罚作为同义词,而是作为反义词并列在一切的话,那么……罪与罚,绝无相通之处的两样东西,水火不相容的两样东西。把罪与罚作为反义词的陀氏,他笔下的绿藻,腐烂的水池、一团乱麻的内心世界……我开始明白了,不,还没有……这一个个念头如走马灯一般闪过我的脑海。这时,忽然传来了掘木的叫声:

  “喂,他妈的什么蚕豆呀!快来看!”

  他的声音和脸色都恍然变了个人。他是刚刚才蹒跚着起身下楼去的,没想到马上就折了回来。

  “什么事?!”

  周围的气氛蓦然变得紧张起来。我和他从楼顶上下到二楼,又从二楼往下走。在中途的楼梯上掘木停下了脚步,用手指着说道:

  “瞧!”

  我自己那间屋子上方的小窗户正敞开着,从那儿可以看到房间的里面。只见房间里亮着电灯,有两只“动物”正在干着什么。

  我感到头晕目眩,呼吸急促。“这也不失为人间景象之一。这也是人类的面目之一。大可不必大惊小怪。”我在心里嘀咕着,以致于忘记了该去救出良子,而只是久久地呆立在楼梯上。

  掘木大声地咳嗽。我就像是一个人逃命似的又跑回到了屋顶上,躺在地上仰望着夏夜布满水汽的天空,此时,席卷我心灵的情感不是愤怒,也不是厌恶,更不是悲哀,而是剧烈的恐惧。它并非那种对墓地幽灵的恐惧,而是在神社的杉树林中撞上身着白衣的神体时所感到的那种不容分说的来自远古的极端的恐惧。从那天夜里起,我的头发开始出现少年白,对所有的一切越来越丧失了信心,对他人越来越感到怀疑,从此永久地远离了对人世生活所抱有的全部期待、喜悦与共鸣等等。事实上,这在我的整个生涯中也是一件决定性的事件,仿佛有人迎面砍伤了我前额的中央,使我无论与谁接近,都会感到那道伤口在隐隐作痛。

  “尽管我很同情你、但你也该多少识点相吧。我再也不到这儿来了。这儿完全是一座地狱。……不过,关于良子嘛,你可得原谅她哟。因为你自己也不是一条好汉呐。我这就告辞了。”

  掘木绝不是那种傻瓜蛋,会甘愿驻留在一个令人尴尬的地方。

  我站起身来,兀自一个人喝着烧酒,然后便“哇”地一声放声痛哭起来。哭啊,哭啊,我就那么一直痛哭着。

  不知不觉间,良子已怔怔地站在我身后,手里端着盛满蚕豆的盘子。

  “要是我说我什么都没有干……”

  “好啦,好啦什么都别说了。你是一个不知道怀疑别人的人。坐下一起吃蚕豆吧。”

  我们并排坐下吃着蚕豆。呜呼,难道信赖别人也算是罪过?!对方是个三十岁左右的小个子男人,是一个不学无术的商人。他常常请我给他画一点漫画,然后煞有介事地留下很多报酬扬长而去。

  打那以后,那个商人就再也没来过。不知为什么,比起那个商人,我倒是更恨掘木。是他第一个目睹了那幅场景,可他却什么都没有做——比如故意干咳一声等等——就直接折回到屋顶上诡秘地通知了我。对掘木的憎恶和愤怒会在不眠之夜油然而生,使我叹息呻吟。

  不存在什么原谅与不原谅的问题。良子是一个信赖的天才。她不知道怀疑他人。也正因为如此,才愈加悲惨。

  我不禁问神灵:难道信赖他人也算是罪过吗?

  在我看来,比起良子的身体遭到玷污,倒是良子对他人的信赖遭到玷污这件事,在以后漫长的岁月中埋下了我无法生活下去的苦恼的种子。我是一个畏畏缩缩、光看别人脸色行事、对他人的信赖之心已经裂纹丛生的人。对于这样的我来说,良子那种纯真无瑕的信赖之心就恰如绿叶掩映的瀑布一般赏心悦目。谁知它却在一夜之间蜕变为发黄的污水。这不,从那夜起,良子甚至对我的一颦一笑都开始大加注意了。

  “喂,”我的一声叫喊便会让她胆战心惊。她似乎不知道该把视线投向哪里。无论我多么想逗她发笑而大肆进行滑稽表演,她都一直战战兢兢、畏首畏尾的,甚至在和我说话时滥用敬语。

  难道纯真无瑕的信赖之心真的是罪恶之源吗?

  我四处搜罗那些描写妻子被人奸污的故事书来看,但我认为,没有一个女人遭到良子那样悲惨的奸污。她的遭遇是不能成其为故事的。在那个小个子商人与良子之间,倘若存在着哪怕是一丁点儿近似于恋爱的情感,那么,或许我的心境反而会获得拯救。然而,就是在夏天的那个夜晚,良子相信了那个家伙。事情不过如此而已,却害得我被人迎面砍伤了额头,声音变得嘎哑,头发出现少年白,而良子也不得不一辈子提心吊胆了。大部分故事都把重点放在丈夫是否原谅妻子那种“行为”之上,但这一点对我来说,却并不是那么令人苦恼的重大问题。原谅与不原谅,拥有这种权利的丈夫无疑是幸运的,倘若认为自己无法原谅妻子,那么也毋用大声喧哗,只要立即与她分道扬镳,然后再娶一个新娘子不就一了百了了吗?如果做不到这一点,那就只好“原谅”对方,自我忍耐罢了。不管怎么说,单凭丈夫自己的心情就能够平息八方事态的吧。总之,在我看来,即使是那种事件是对丈夫的一个巨大打击,但也仅限于“打击”而已。与那种永不休止地冲击海岸的波涛不同,它是一种可以借助拥有权利的丈夫的愤怒来加以处置和化解的纠葛。而我的情形又是如何呢?作为丈夫不具备任何权利,不用说发怒,甚至连一句怨言也不能吐露。而妻子恰恰是被她自己的那种罕见的美好品质残酷地奸污了。并且,那种美好的品质正好是丈夫久已向往的、被称之为“纯真无瑕的信赖之心”的这样一种可怜之物。

  难道纯真无瑕的信赖之心也算是罪过吗?

  我甚至对这种唯一值得依傍的美好品质也产生了疑惑,一切的一切都变得越发不可理喻,以致于我的前方只剩下了酒精。我脸上的表情变得极度的卑微,一大早就喝开了烧酒,而牙齿也落得残缺不全了,手头的漫画也只是一些近似于淫画的东西了。不,还是让我坦白地说吧。那时候我开始复制春画进行秘密贩卖,因为我急需喝酒的钱。每当我看到良子把视线从我身上挪开,一副惴惴不安的模样时,我甚至会胡思乱想到:她是一个完全不知道防备别人的女人,没准和那个商人之间并非只有一次吧?——疑心生疑心,结果形成了一个恶性循环的怪圈。可我却没有勇气去加以证实,以致于被那惯有的不安和恐惧纠缠着,只能在喝得醉醺醺之后,才敢小心翼翼地试着进行卑屈的诱导性审讯。尽管内心深处是忽而高兴忽而沮丧,可表面上我却拼命地进行滑稽表演,在对良子施加地狱般可憎的爱抚之后,如同一滩烂泥似的酣然大睡。

  那一年的年末,到了夜深人静之时我才酩酊大醉地回到家里。当时我很想喝一杯白糖开水,可良子像是已经睡着了,所以我只好自个儿去厨房找出白糖罐。打开盖子一看,里面却没有白糖,只有一个细长的黑色纸盒。我漫不经心地拿在手里一看,只见盒子上贴着一张标签,使我目瞪口呆。尽管那标签被人用指甲抠去了一大半,但标有洋文的部分却留了下来,上面一目了然地写着:DIAL。

  巴比妥酸。那时我全是喝烧酒,并没有服用安眠药。不过,不眠症似乎成了我的宿疴,所以对大部分安眠药都相当了解。单凭这一盒巴比妥酸就足以致人于死地。盒子尚未开封,想必她曾经涌起过轻生的念头,才会撕掉上面的标签把药盒子隐藏在这种地方吧。也真够可怜的,这孩子因为读不懂标签上的洋文,所以只用指甲抠掉其中的一半,以为这样一来就无人知晓了。(你是无辜的。)

  我没有发出声响,只是悄悄地倒满一杯水,然后慢慢地给盒子开了封,一口气把药全部塞进了嘴巴里,冷静地喝干杯中的水,随即关掉电灯就那么躺下睡了。

  据说整整三个昼夜,我就像死掉了一般。医生认为是过失所致,所以一直犹豫着没有报警。据说我苏醒过来第一句话就是“回家”。所谓的“家”,究竟指的哪儿,就连我自己也不得而知。总之,听说我是那么说了,并且号啕大哭了一场。

  渐渐地眼前的雾散开了,我定睛一看,原来是“比目鱼”一副老大不高兴的样子坐在我的枕边。

  “上一次也是发生在年末的时候。这种时候谁不是忙得个团团转呐。可他偏偏爱挑准年末来干这种事,这不是要我的命吗?”

  在一旁听比目鱼发牢骚的,是京桥那家酒吧的老板娘。

  “夫人。”我叫道。

  “嗯,有什么事?你醒过来了?”

  老板娘一边说着,一边把她的那张笑脸贴在了我的脸上。

  我不由得泪如泉涌。

  “就让我和良子分手吧。”

  脱口而出的竟是这样一句连我自己也意想不到的话。

  老板娘欠起身,流露出轻微的叹息。

  接下来我又失言了,而且这一次的失言是那么唐突,简直无法断言到底是滑稽还是愚蠢。

  “我要到没有女人的地方去。”

  “哈——哈——哈—”首先是“比目鱼”大声地笑了,然后老板娘也哧哧地笑出了声。最后连我自己也一边流着眼泪,一边红着脸苦笑了起来。

  “唔,那样倒是好呀。”“比目鱼”一直在粗俗地笑着,他说道,“最好是到没有女人的地方去。要是有女人的话,怎么着都不行,去没有女人的地方,这倒是个好主意呐。”

  没有女人的地方。但我这近于痴人说梦般的胡言乱语,不久居然悲惨地化作了现实。

  良子似乎一直认为,我是作为她的替代而吞下毒品的,因此在我面前比过去更加胆战心惊了。无论我说什么,她都不苟言笑,所以,呆在公寓的房间里我会感到胸闷气短,忍不住又跑到外面酗酒去了。但自从巴比妥酸事件以后,我的身体明显消瘦了,手脚也变得软弱兀立,画漫画稿时也常常偷懒怠工。那时,作为探望费,“比目鱼”留给我一笔钱(“比目鱼”说“这是我的一点心意”,随即递给我那笔钱,就好像是从他自己的荷包里掏出来的一样。可事实上这也是老家的哥哥们寄来的钱。这时,我已经不同于当初逃离“比目鱼”家时的我了,能够隐隐约约地看穿“比目鱼”那种装腔作势的把戏了,所以我也就能狡猾地装出不知内情的样子,向“比目鱼”道了谢。但是,“比目鱼”等人干吗要弃简从繁,不直截了当地说出真相呢?其中的缘由我似懂非懂,觉得十分蹊跷)。我打定主意用那笔钱独自到南伊豆温泉去看看。不过,我不属于那种能够长时间地绕着温泉悠闲旅行的人,一想到良子,我就感到无限的悲凉。而我自己与那种透过旅馆房间的窗户眺望山峦的平和心境更是相距甚远,在那里我既没有换穿棉和服,也没有泡温泉澡,只是跑进外面一家并不干净的茶馆似的地方,拼命地喝酒,把身体糟蹋得更加羸弱之后才回到了东京。

  那是在一场大雪降临于东京的某个夜晚。我醉醺醺地沿着银座的背街漫步走着,一边小声地反复哼唱着“这儿离故乡有几百里,这儿离故乡有几百里”。我一边唱一边用鞋尖踹开街头的积雪,突然间我呕吐了,这是我第一次吐血。只见雪地上出现了一面硕大的太阳旗。好一阵子我都蹲在原地,然后用双手捧起那些没有弄脏的白雪,一面洗脸一面哭了起来。

  这儿是何方的小道?

  这儿是何方的小道?

  一个女孩哀婉的歌声恍若幻听一般隐隐约约地从远处传了过来。不幸。在这个世上不乏不幸之人,不,尽是些不幸之人。即使这么说也绝非过激之辞。但是,他们的不幸却可以堂而皇之地向世间发出抗议,并且,“世间”也很容易理解和同情他们的抗议。可是,我的不幸却全部缘于自己的罪恶,所以不可能向任何人进行抗议。假如我斗胆结巴着说出某一句近于抗议的话,不仅是“比目鱼”,甚至世间的所有人都无疑会因我口出狂言而惊讶无比的。到底我是像俗话所说的那样“刚愎自用”呢?还是与此相反,显得过分怯懦萎缩呢?这一点连我自己都弄不明白。总之,我是罪孽的凝固体,所以,我只能变得越来越不幸,而这是无法阻止和防范的。

  我站起身来,琢磨着:应该先吃点什么对症的药。于是,我走进了附近的一家药店。就在我与店老板双目交汇的那一瞬间,我看见她就像是被闪光灯照花了眼睛一样,抬起头瞪大了双眼,呆呆地伫立着。但那瞪大的眼睛里既没有惊愕的神色,也没有厌恶的感觉,而是流露出一副像是在求救、又像是充满了渴慕般的表情。啊,她也肯定是一个不幸的人,因为不幸的人总是对别人的不幸敏感万分。正当我如此思忖着的时候,我发现那个女人是柱着拐杖、颤巍巍地站立着的。我遏制住了朝她飞奔过去的念头,在她和我面面相觑之时,我的眼泪不禁夺眶而出。于是,从她那双睁大的眼睛里也流出了泪水。

  仅此而已。我一言不发地走出了那家药店,踉踉跄跄地回到了公寓,让良子化了杯盐水给我喝。然后默默地睡下了。第二天我慌称是感冒,昏睡了一整天。晚上,我对自己的吐血(尽管谁也不知道)感到很是不安,于是起身去了那家药店。这一次我是笑着向老板娘坦诉了自己的身体情况,向她咨询治疗方法。

  “你必须得戒酒。”

  我们就像是亲生骨肉一般。

  “或许是酒精中毒吧。我现在都还想喝酒呐。”

  “那可不行。我的丈夫得了肺结核,却偏说酒可以杀菌,整天都泡在酒里,结果是自己缩短了自己的寿命。”

  “我真是担心得很。我好害怕,我已经不行了。”

  “我这就给你药。可唯独酒这一样,你必须得戒掉哟。”

  老板娘(她是个寡妇,膝下有一个男孩,考上了千叶或是什么地方的医科大学,但不久就患上了与父亲相同的病,现在正休学住院。家里还躺着一个中风的公公,而她自己在五岁时因患小儿麻痹症,有一只脚已经彻底不行了)柱着松树的拐杖,翻箱倒柜地找出各种药品来了。

  这是造血剂。

  这是维生素注射液,而这是注射器。

  这是钙片。这是淀粉酶,可以治疗肠胃不好。

  这是什么,那是什么,她满怀爱心地给我介绍了五六种药品。但这个不幸的夫人的爱情,对我来说是过于深厚了。最后她说道“这是你实在忍不住想喝酒时用的药”,说罢迅速地将那种药品包在了一个纸盒子里。

  原来这是吗啡的注射液。

  夫人说“这药至少比酒的危害要小”,我也就听信了她的话,再则那正好是在我自己也认为酗酒颇为丢人现眼的当口,所以,暗自庆幸自己终于能够摆脱酒精这个恶魔的纠缠了,于是毫不犹豫地将吗啡注射进了自己的手臂。不安、焦躁、腼腆等等,一下子全都被扫荡一空了,我甚至变成了一个神清气爽的雄辩家。而且每当注射了吗啡以后,我就会忘记自己身体的虚弱,而拼命地工作,一边创作漫画,一边在脑子里构思出令人捧腹大笑的绝妙方案。

  本打算一天注射一针的,没想到一天增加到了两针,最后增加到一天四针的时候,一旦缺少了那玩意儿,我就简直无法工作了。

  “那可不行哟。一旦中了毒,那就要命了。”

  经药店的夫人一提醒,我才发现自己已经成了一个相当严重的中毒者(我这个人天性脆弱,动不动就听信别人的暗示。比如有人说,尽管这笔钱是用不得的,可既然是你嘛,那就……一听这话,我就会产生一种奇妙的错觉:仿佛不用掉那笔钱,反倒会辜负对方的期待似的,于是马上把它花掉了)。出于对中毒的担心,我反倒开始大肆需求那种药品了。

  “拜托,再给我一盒。月底我一定会付钱的。”

  “钱嘛,什么时候付都没关系,只是警察管起来就很讨厌了。”

  啊,我的周围总是笼罩着某种浑浊而灰暗的、见不得人的可疑气氛。

  “请你无论如何得搪塞过去,求求你了,夫人。让我吻你一下吧。”

  夫人的脸一下子红到了耳根。

  我趁势央求道:

  “如果没有药的话,工作就一点也进展不了。对于我来说,那就像是强精剂一样。”

  “那样的话,还不如注射荷尔蒙吧。”

  “你开什么玩笑呀。要么是借助酒,要么是用那种药,否则我是没法工作的。”

  “酒可不行。”

  “对吧?自从我用那种药以后,就一直滴酒未沾呐。多亏了这样,我的身体状况可谓好得很哩。我也不认为自己会永远画蹩脚的漫画,从今以后,我要把酒戒掉,调节好身体、努力地学习,成为一个伟大的画家给你们瞧瞧。眼下正处于节骨眼上,所以我求求你啦,让我吻你吧。”

  夫人噗哧笑了起来:

  “这可为难啊,自个儿中毒了还不知道呐。”

  她“嗑吱嗑吱”地柱着拐杖,从药品架上取下那种药,说道:

  “不能给你一整盒,你马上就会用完的。给你一半吧。”

  “真小气,哎,没办法呀。”

  回到家以后,我立即注射了一针。

  “不疼吗?”良子战战兢兢地问我。

  “那当然疼啦。不过,为了提高工作效率,即使不愿意也得这样啊。这阵子我很精神吧?好,我这就开始工作。工作,工作。”我兴奋地嚷嚷着。

  我甚至还在夜深人静之时扣打过药店的店门。夫人身上裹着睡衣,“嗑吱嗑吱”地柱着拐杖走了出来。我扑上去抱住她,一边吻她,一边做出一副痛哭流涕的样子。

  夫人只是一声不吭地递给我一盒药品。

  药品与烧酒一样,不,甚至是更讨厌更龌龊的东西——当我深切地体会到这一点时,我已经变成了一个彻彻底底的中毒者。那真可谓无耻至极。为了得到药品,我又开始了复制春画,并且与那家药店的残废女老板建立了一种彻头彻尾的丑恶关系。

  我想死。索性死掉算了。事态已经不可挽回。无论干什么,都是徒劳一场,都只会丢人现眼,雪上加霜。骑自行车去观赏绿叶掩映的瀑布,这只是我难以企及的奢望罢了。只会在污秽的罪恶上增添可耻的罪恶,让烦恼变得更多更强烈。我想死,我必须得死。活着便是罪恶的种子。尽管我如此这般地左思右想着,却依旧不改那种半疯狂的模样,只是往返穿梭于公寓与药店之间。

  无论我多么拼命地工作,由于药品的用量随之递增,所以,欠下的药费也达到了令人恐惧的额度。夫人一看到我的脸,就会泪流满面,而我也禁不住潸然泪下。

  地狱。

  倘若为了逃出地狱的最后手段也归于失败了的话,那么,往后便只有勒颈自尽了。我决定不惜把神的存在与否作为赌注,斗胆给老家的父亲写了一封长信,坦白地告诉他关于我自己的一切实情(有关女人的事儿,最终还是没能写上)。

  没想到结果更加糟糕。无论我怎么等待,都一直杳无音讯。等待的焦灼与不安反而使我加大了药量。

  今夜,索性一口气注射十针,然后跳进大海里一死方休——就在我如此暗下决心的那天下午,“比目鱼“就像是用恶魔的直觉嗅到了什么似的,带着掘木出现在我面前。

  “听说你咳血了。”

  掘木说着,在我面前盘腿坐下。他脸上的微笑荡漾着一种我从未见过的温柔。那温柔的微笑使我感激涕零,兴奋不已,以致于我不由得背过身子潸然泪下。仅仅因为他那温柔的微笑,我便被彻底打碎了,被一下子埋葬了。

  他们把我强行送上汽车。无论如何我必须得住院治疗,而且其他的事情全部由他们解决,“比目鱼”就这样用平静的语气规劝着我(那是一种平静得甚至可以形容为大慈大悲的语调)。我就俨然是一个没有意志、没有判断力的人一般,只是抽抽嗒嗒地哭着,唯唯诺诺地服从他们俩的指示。加上良子,我们一共是四个人在汽车上颠簸了许久,直到周围变得有些昏暗的时候,才抵达了森林中一所大医院的门口。

  我以为这是一所结核病疗养院。

  我接受了一个年轻医生温柔而周到的检查,然后他有些腼腆地笑着说道:

  “那就在这里静养一阵子吧。”

  “比目鱼”、掘木和良子撂下我一个人回去了。临走时良子递给我一个装有换洗衣服的包袱,接着一声不响地从腰带中间取出注射器和没有用完的药品给我。她还蒙在鼓里,以为那是强精剂。

  “不,我不要那个。”

  这可是一件罕见的事情。在别人劝我的情况下,敢于加以拒绝,这是我迄今为止的生涯中,是绝无仅有的例外,这样说一点也不夸张。我的不幸乃是一个缺乏拒绝能力的人的不幸。我时常陷入一种恐惧之中,以为如果别人劝我干什么而自己加以拒绝的话,就会在对方的心灵和自己的心灵中剜开一道永远无法修复的裂痕。可是,在良子递给我药品时,我却自然而然地拒绝了自己几近疯狂地四处寻求的吗啡。或许是我被良子那种“神灵一般的无知”所打动了吧。在那一瞬间,难道我不是并没有中毒吗?

  我被那个有些腼腆地微笑着的年轻医生带着,进入了某一栋病房。大门上“喀嚓”一声挂上了大锁。原来这是一所精神病医院。

  “去一个没有女人的地方。”我在服用巴比妥酸时的胡言乱语竟然奇妙地化作了现实。在这栋病房里,全部是发疯的男人。甚至连护士也是男的,没有一个女人。

  如今我已不再是罪人,而是狂人。不,我绝对没有发狂。哪怕是一瞬间,我不曾疯狂过。但是,被关进这所医院的人全是狂人,而逍遥在外的全都是正常人。

  我问神灵:难道不反抗也是一种罪过吗?

  面对掘木那不可思议的美丽微笑,我曾经感激涕零,甚至忘记了判断和反抗便坐上了汽车,被他们带进这儿,变成了一个狂人。即使再从这里出去,我的额头上也会被打上“狂人”,不,是“废人”的烙印。

  我已丧失了做人的资格。

  我已彻底变得不是一个人了。

  来到这儿时,还是在初夏时节。从镶有铁格子的窗户向外望去,能看见庭院内的小小池塘里盛开的红色睡莲花,又是三个月过去了,庭院里开始绽放出波斯菊花了。这时,意想不到的事情发生了:老家的大哥带着“比目鱼”前来接我出院了。大哥用他惯有的那种一本正经而又不失紧张的语气说道:“父亲在上个月的月末因患胃溃疡去世了。我们对你既往不咎,也不想让你为生活操心费神,你什么都不用做。不过,有一个前提条件,尽管你肯定是依依不舍的,但必须离开东京,回老家去过一种疗养生活。你在东京所闯下的祸,涩田先生已大体帮你了结了,你不必记挂在心。”

  蓦然间故乡的山水栩栩如生地浮现在我的眼前。我轻轻地点了点头。

  我已完全变成了一个废人。

  得知父亲病故后,我越发变得委靡颓废了。父亲已经去了。父亲作为片刻也不曾离开我心际的、一种可亲又可怕的存在,已经消失而去了,我觉得自己那收容苦恼的器皿也陡然变得空空荡荡的。我甚至觉得,自己那苦恼的器皿之所以曾经那么沉重,也完全是因为父亲的缘故。于是我顷刻之间变成了一只泄了气的皮球,甚至丧失了苦恼的能力。

  大哥不折不扣地履行了对我的诺言。在从我生长的城镇坐火车南下四五个小时的地方,有一处东北地区少有的温暖的海滨温泉。村边有五栋破旧的茅屋,里面的墙壁已经剥落,柱子也被虫蛀了,几乎无法修缮。但大哥却为我买下了那些房子,并为我雇了一个年近六十、长着一头红发的丑陋女佣。

  那以后又过去了三年的光阴。其间我多次奇妙地遭到那个名叫阿铁的老女佣的强暴。有时我和她甚至还像一对夫妻似的吵架顶嘴。我肺上的毛病时好时坏,忽而胖了,忽然瘦了,甚至还咳出了血痰。昨天我让阿铁去村里的药铺买点卡尔莫钦[一种烈性镇静安眠药]谁知她买回来的药和我平时服用的那种药,其药盒形状上就大为不同。对此我也没有特别留意,可睡前我连吃了十粒也无法入睡。正当我觉得蹊跷时,肚子开始七上八下的,于是急急忙忙地跑进厕所,结果腹泻得厉害。那以后又接连上了三次厕所。我觉得好生奇怪,这才仔仔细细地看了装药的盒子,原来是一种名叫“海诺莫钦”的泻药。

  我仰面躺在床上,把热水袋放在腹部,恨不得对阿铁发一通牢骚。

  “你呀,这不是卡尔莫钦,而是海诺莫钦呐。”

  我刚一开口,就哈哈地笑了。“废人”,这的确像是一个喜剧名词。本想入睡,却吃成了泻药,而那泻药的名字正好叫海诺莫钦。

  对于我来说,如今已经不再存在着什么幸福与不幸福了。

  只是一切都将过去。

  在迄今为止我一直痛苦不堪地生活过来的这个所谓“人”的世界里,唯一可以视为真理的东西,就只有这一样。

  只是一切都将过去。

  今年我才刚满二十七岁。因为白发明显增多的缘故,人们大都认为我已经四十有余了。

后记

  我与写下上述手记的狂人,其实并不直接相识,但我却与另一个人略有交情,她可能就是上述手记中所出现的京桥那家酒吧的老板娘。她是一个个头不大的女人,脸色苍白,细细的眼睛向上挑着,高高的鼻梁给人一种硬派的感觉,与其说是一个美人,不如说更像一个英俊青年。这三篇手记主要描写了昭和五至七年那段时间的东京风情。我曾在朋友的带领下顺道去京桥的酒吧喝过三次加冰的威士忌酒,当时正是昭和十年前后,恰逢日本的“军部”越来越露骨地猖獗于世之时。所以,我不可能见到过写下这些手记的那个男人。

  然而今年二月,我去拜访了疏散在千叶县船桥的一位朋友。他是我大学时代的所谓学友,现在是某女子大学的讲师。事实上,我曾经拜托这个朋友给我的一个亲戚说媒,也因为有这层原因,再加上我打算顺道采购一下新鲜的海产品给家里人吃,所以就背上帆布包向船桥出发了。

  船桥是一个濒临泥海的大城镇。无论我怎样告诉当地人那个朋友的门牌号数,因为是新搬过去的缘故,也没人知道。天气格外寒冷,我背着帆布包的肩膀也早已疼痛不已,这时我被唱机里发出的提琴声吸引住了,于是我推开了一家咖啡馆的大门。

  那儿的老板娘似曾相识,一问才知道,原来她就是十年前京桥那家酒吧的老板娘。她似乎也马上想起了我似的。我们彼此都很吃惊,然后又相视而笑了。我们没有像当时的惯例那样彼此询问遭到空袭的经历,而是非常自豪地相互寒暄道:

  “你呀,可真是一点也没变呐。”

  “不,都成老太婆了。身子骨都快散架了。倒是你才年轻呐。”

  “哪里哪里。小孩都有三个了。今天就是为了他们才出来买东西的。”

  我们彼此寒暄着,说了一通久别重逢的人之间常说的话,然后相互打听着共同的朋友以后的消息。过了一会儿,老板娘突然改变了语调问我道:“你认识阿叶吗?”我说:“不认识。”老板娘走到里面去,拿来了三本笔记本和三张照片,交给我说道:

  “或许可以成为小说的素材呐。”

  我的天性如此,对于别人硬塞给我的材料是无法加工写成小说的,所以,我当场就打算还给她,但却被那些照片吸引住了(关于那三张照片的怪异,我在前言中已经提及)以致于决定暂且保管一下那些笔记本。我说:“我回来时还会顺道来的,不过,你认识××街××号的××人吗?他在女子大学当老师。”毕竟她也是新近搬来的,所以她倒认识。她还说,我的那个朋友也常常光顾这家咖啡馆,他的家就在附近。

  那天夜里,我和那个朋友一起喝了点酒,决定留宿在他那里。直到早晨我都没能入眠,一直出神地阅读那三篇手记。

  手记上所记述的都是些过去的事了,但即使现代的人们读来,想必也会兴致勃勃的。我想,与其拙劣地加以添笔,还不如原封不动地让哪家杂志社发表出来更有意义。

  给孩子买的海产品,尽是一些干货。背上帆布包,告别了朋友,我又折进那家酒吧。

  “昨天真是太感谢你了。不过……”我马上直奔主题,说道,“能不能把那些笔记本借给我一段时间?”

  “行啊,你就拿去吧。”

  “这个人还活着吗?”

  “哎呀,这可就不知道了。大约十年前,一个装着笔记本和照片的邮包寄到了京桥的店里。寄件人肯定是阿叶,不过,邮包上却没有写阿叶的住址和名字。在空袭期间,这些东西和别的东西混在了一起,竟然神奇地逃过了劫难,这阵子我才把它全部读完了……”

  “你哭了?”

  “不,与其说是哭,……不行啊,人一旦变成那个样子,就已经不行了。”

  “如果是已经过了十年,那么,或许他已经不在这个世上了吧。这是作为对你的感谢而寄给你的吧,尽管有些地方言过其实,但好像的确是蒙受了相当大的磨难呐。倘若这些全部都是事实,而且我也是他的朋友的话,那么,说不定我也会带他去精神病医院的。”

  “都是他的父亲不好。”她漫不经心地说道,“我们所认识的阿叶,又诚实又乖巧,要是不喝酒的话,不,即使是喝酒……也是一个神一样的好孩子呐。”

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