人間失格

太宰たいさい治おさむ

はしがき

私わたしは、その男おとこの写真しゃしんを三葉みつば、見たみたことがある。
一葉いちようは、その男おとこの、幼年ようねん時代じだい、とでも言ういうべきであろうか、十じゅう歳さい前後ぜんごかと推定すいていされる頃ころの写真しゃしんであって、その子供こどもが大勢おおぜいの女おんなのひとに取りかこまとりかこまれ、（それは、その子供こどもの姉あねたち、妹いもうとたち、それから、従姉妹いとこたちかと想像そうぞうされる）庭園ていえんの池いけのほとりに、荒いあらい縞しまの袴はかまをはいて立ちたち、首くびを三十度どほど左ひだりに傾けかたむけ、醜くみにくく笑ってわらっている写真しゃしんである。醜くみにくく？　けれども、鈍いにぶい人ひとたち（つまり、美醜びしゅうなどに関心かんしんを持たもたぬ人ひとたち）は、面白くおもしろくも何ともなんとも無いないような顔かおをして、
「可愛いかわいい坊ちゃんぼっちゃんですね」
といい加減ないいかげんなお世辞おせじを言っていっても、まんざら空そらお世辞せじに聞えきこえないくらいの、謂わばいわば通俗つうぞくの「可愛らしかわいらしさ」みたいな影かげもその子供こどもの笑顔えがおに無いないわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜びしゅうに就いてついての訓練くんれんを経てへて来たきたひとなら、ひとめ見てみてすぐ、
「なんて、いやな子供こどもだ」
と頗る不快ふかいそうに呟きつぶやき、毛虫けむしでも払いのけるはらいのける時ときのような手つきてつきで、その写真しゃしんをほうり投げるほうりなげるかも知れしれない。
まったく、その子供こどもの笑顔えがおは、よく見ればみれば見るみるほど、何ともなんとも知れしれず、イヤないやな薄気味悪いうすきみわるいものが感ぜかんぜられて来るくる。どだい、それは、笑顔えがおでない。この子こは、少しもすこしも笑ってわらってはいないのだ。その証拠しょうこには、この子こは、両方りょうほうのこぶしを固くかたく握ってにぎって立ってたっている。人間にんげんは、こぶしを固くかたく握りにぎりながら笑えるわらえるものでは無いないのである。猿さるだ。猿さるの笑顔えがおだ。ただ、顔かおに醜いみにくい皺しわを寄せてよせているだけなのである。「皺しわくちゃ坊ちゃんぼっちゃん」とでも言いいいたくなるくらいの、まことに奇妙なきみょうな、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカむかむかさせる表情ひょうじょうの写真しゃしんであった。私わたしはこれまで、こんな不思議なふしぎな表情ひょうじょうの子供こどもを見たみた事ことが、いちども無かったなかった。
第だい二に葉ようの写真しゃしんの顔かおは、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。学生がくせいの姿すがたである。高等こうとう学校がっこう時代じだいの写真しゃしんか、大学だいがく時代じだいの写真しゃしんか、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌びぼうの学生がくせいである。しかし、これもまた、不思議にふしぎにも、生きていきている人間にんげんの感じかんじはしなかった。学生がくせい服ふくを着てきて、胸むねのポケットぽけっとから白いしろいハンケチを覗かのぞかせ、籐椅子いすに腰かけてこしかけて足あしを組みくみ、そうして、やはり、笑ってわらっている。こんどの笑顔えがおは、皺しわくちゃの猿さるの笑いわらいでなく、かなり巧みなたくみな微笑びしょうになってはいるが、しかし、人間にんげんの笑いわらいと、どこやら違うちがう。血ちの重おもさ、とでも言おういおうか、生命せいめいの渋しぶさ、とでも言おういおうか、そのような充実じゅうじつ感かんは少しもすこしも無くなく、それこそ、鳥とりのようではなく、羽毛うもうのように軽くかるく、ただ白紙はくし一いち枚まい、そうして、笑ってわらっている。つまり、一いちから十じゅうまで造りつくり物ものの感じかんじなのである。キザと言っていっても足りたりない。軽薄けいはくと言っていっても足りたりない。ニヤケと言っていっても足りたりない。おしゃれと言っていっても、もちろん足りたりない。しかも、よく見てみていると、やはりこの美貌びぼうの学生がくせいにも、どこか怪談かいだんじみた気味きみ悪いわるいものが感ぜかんぜられて来るのである。私わたしはこれまで、こんな不思議なふしぎな美貌びぼうの青年せいねんを見たみた事ことが、いちども無かったなかった。
もう一いち葉ようの写真しゃしんは、最ももっとも奇怪なきかいなものである。まるでもう、としの頃ころがわからない。頭あたまはいくぶん白髪しらがのようである。それが、ひどく汚いきたない部屋へや（部屋へやの壁かべが三さん箇所かしょほど崩れ落ちてくずれおちているのが、その写真しゃしんにハッキリはっきり写ってうつっている）の片隅かたすみで、小さいちいさい火鉢ひばちに両手りょうてをかざし、こんどは笑ってわらっていない。どんな表情ひょうじょうも無いない。謂わばいわば、坐ってすわって火鉢ひばちに両手りょうてをかざしながら、自然にしぜんに死んでしんでいるような、まことにいまわしい、不吉なふきつなにおいのする写真しゃしんであった。奇怪なきかいなのは、それだけでない。その写真しゃしんには、わりに顔かおが大きくおおきく写ってうつっていたので、私わたしは、つくづくその顔かおの構造こうぞうを調べるしらべる事ことが出来たできたのであるが、額がくは平凡へいぼん、額がくの皺しわも平凡へいぼん、眉まゆも平凡へいぼん、眼めも平凡へいぼん、鼻はなも口くちも顎あごも、ああ、この顔かおには表情ひょうじょうが無いないばかりか、印象いんしょうさえ無いない。特徴とくちょうが無いないのだ。たとえば、私わたしがこの写真しゃしんを見てみて、眼めをつぶる。既にすでに私わたしはこの顔かおを忘れてわすれている。部屋へやの壁かべや、小さいちいさい火鉢ひばちは思い出すおもいだす事ことが出来るできるけれども、その部屋へやの主人公しゅじんこうの顔かおの印象いんしょうは、すっと霧きり消してけして、どうしても、何となんとしても思い出せおもいだせない。画がにならない顔かおである。漫画まんがにも何もなにもならない顔かおである。眼めをひらく。あ、こんな顔かおだったのか、思い出したおもいだした、というようなよろこびさえ無いない。極端なきょくたんな言いいい方かたをすれば、眼めをひらいてその写真しゃしんを再びふたたび見てみても、思い出せおもいだせない。そうして、ただもう不愉快ふゆかい、イライラいらいらして、つい眼がんをそむけたくなる。
所謂「死相しそう」というものにだって、もっと何なにか表情ひょうじょうなり印象いんしょうなりがあるものだろうに、人間にんげんのからだに駄馬の首くびでもくっつけたなら、こんな感じかんじのものになるであろうか、とにかく、どこという事ことなく、見るみる者ものをして、ぞっとさせ、いやな気持きもちにさせるのだ。私わたしはこれまで、こんな不思議なふしぎな男おとこの顔かおを見たみた事ことが、やはり、いちども無かったなかった。
［＃改頁］

第だい一いちの手記しゅき

恥はじの多いおおい生涯しょうがいを送っておくって来きました。
自分じぶんには、人間にんげんの生活せいかつというものが、見当けんとうつかないのです。自分じぶんは東北とうほくの田舎いなかに生れうまれましたので、汽車きしゃをはじめて見たみたのは、よほど大きくおおきくなってからでした。自分じぶんは停車場ていしゃばのブリッジぶりっじを、上ってのぼって、降りておりて、そうしてそれが線路せんろをまたぎ越えるこえるために造らつくられたものだという事ことには全然ぜんぜん気づかきづかず、ただそれは停車場ていしゃばの構内こうないを外国がいこくの遊戯ゆうぎ場じょうみたいに、複雑にふくざつに楽しくたのしく、ハイカラにはいからにするためにのみ、設備せつびせられてあるものだとばかり思っておもっていました。しかも、かなり永いながい間あいだそう思っておもっていたのです。ブリッジぶりっじの上ったりのぼったり降りたりおりたりは、自分じぶんにはむしろ、ずいぶん垢抜けあかぬけのした遊戯ゆうぎで、それは鉄道てつどうのサーヴィスの中なかでも、最ももっとも気きのきいたサーヴィスの一いちつだと思っておもっていたのですが、のちにそれはただ旅客りょかくが線路せんろをまたぎ越えるこえるための頗る実利じつり的なてきな階段かいだんに過ぎすぎないのを発見はっけんして、にわかに興きょうが覚めさめました。
また、自分じぶんは子供こどもの頃ころ、絵本えほんで地下ちか鉄道てつどうというものを見てみて、これもやはり、実利じつり的なてきな必要ひつようから案あん出せだせられたものではなく、地上ちじょうの車くるまに乗るのるよりは、地下ちかの車くるまに乗ったのったほうが風がわりでふうがわりで面白いおもしろい遊びあそびだから、とばかり思っておもっていました。
自分じぶんは子供こどもの頃ころから病弱でびょうじゃくで、よく寝ね込みこみましたが、寝ねながら、敷布しきふ、枕まくらのカヴァ、掛かかり蒲団ふとんのカヴァを、つくづく、つまらない装飾そうしょくだと思いおもい、それが案外にあんがいに実用じつよう品ひんだった事ことを、二十歳さいちかくになってわかって、人間にんげんのつましさに暗然とし、悲しいかなしい思いしいをしました。
また、自分じぶんは、空腹くうふくという事ことを知りしりませんでした。いや、それは、自分じぶんが衣食住いしょくじゅうに困らこまらない家いえに育ったそだったという意味いみではなく、そんな馬鹿なばかな意味いみではなく、自分じぶんには「空腹くうふく」という感覚かんかくはどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いいいかたですが、おなかが空いてあいていても、自分じぶんでそれに気きがつかないのです。小学校しょうがっこう、中学校ちゅうがっこう、自分じぶんが学校がっこうから帰ってかえって来るくると、周囲しゅういの人ひとたちが、それ、おなかが空いたろうあいたろう、自分じぶんたちにも覚えおぼえがある、学校がっこうから帰ってかえって来たきた時ときの空腹くうふくは全くまったくひどいからな、甘納豆はどう？　カステラかすてらも、パンぱんもあるよ、などと言っていって騒ぎさわぎますので、自分じぶんは持ち前もちまえのおべっか精神せいしんを発揮はっきして、おなかが空いたあいた、と呟いてつぶやいて、甘納豆を十じゅう粒つぶばかり口くちにほうり込むこむのですが、空腹くうふく感かんとは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
自分じぶんだって、それは勿論もちろん、大いにおおいにものを食べたべますが、しかし、空腹くうふく感かんから、ものを食べたたべた記憶きおくは、ほとんどありません。めずらしいと思わおもわれたものを食べたべます。豪華ごうかと思わおもわれたものを食べたべます。また、よそへ行っておこなって出さだされたものも、無理むりをしてまで、たいてい食べたべます。そうして、子供こどもの頃ころの自分じぶんにとって、最ももっとも苦痛くつうな時刻じこくは、実にじつに、自分じぶんの家いえの食事しょくじの時間じかんでした。
自分じぶんの田舎いなかの家いえでは、十じゅう人にんくらいの家族かぞく全部ぜんぶ、めいめいのお膳ぜんを二に列れつに向い合せあわせに並べてならべて、末っ子すえっこの自分じぶんは、もちろん一ばんひとばん下かの座ざでしたが、その食事しょくじの部屋へやは薄暗くうすぐらく、昼ひるごはんの時ときなど、十じゅう幾いく人にんの家族かぞくが、ただ黙々ともくもくとしてめしを食ってくっている有様ありさまには、自分じぶんはいつも肌寒いはださむい思いしいをしました。それに田舎いなかの昔気質のむかしかたぎの家いえでしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なごうかなもの、そんなものは望むのぞむべくもなかったので、いよいよ自分じぶんは食事しょくじの時刻じこくを恐怖きょうふしました。自分じぶんはその薄暗いうすぐらい部屋へやの末席まっせきに、寒さむさにがたがた震えるふるえる思いしいで口くちにごはんを少量しょうりょうずつ運びはこび、押しおし込みこみ、人間にんげんは、どうして一いち日にちに三さん度ど々々ごはんを食べるたべるのだろう、実にじつにみな厳粛なげんしゅくな顔かおをして食べてたべている、これも一種いっしゅの儀式ぎしきのようなもので、家族かぞくが日ひに三さん度ど々々、時刻じこくをきめて薄暗いうすぐらい一いち部屋へやに集しゅうり、お膳ぜんを順序じゅんじょ正しくただしく並べならべ、食べたべたくなくても無言むごんでごはんを噛みかみながら、うつむき、家中いえじゅうにうごめいている霊れいたちに祈るいのるためのものかも知れしれない、とさえ考えたかんがえた事ことがあるくらいでした。
めしを食べたべなければ死ぬしぬ、という言葉ことばは、自分じぶんの耳みみには、ただイヤないやなおどかしとしか聞えきこえませんでした。その迷信めいしんは、（いまでも自分じぶんには、何だかなんだか迷信めいしんのように思わおもわれてならないのですが）しかし、いつも自分じぶんに不安ふあんと恐怖きょうふを与えあたえました。人間にんげんは、めしを食べたべなければ死ぬしぬから、そのために働いてはたらいて、めしを食べたべなければならぬ、という言葉ことばほど自分じぶんにとって難解でなんかいで晦渋で、そうして脅迫きょうはくめいた響きひびきを感じかんじさせる言葉ことばは、無かったなかったのです。
つまり自分じぶんには、人間にんげんの営みいとなみというものが未だにいまだに何もなにもわかっていない、という事ことになりそうです。自分じぶんの幸福こうふくの観念かんねんと、世よのすべての人ひとたちの幸福こうふくの観念かんねんとが、まるで食いちがってくいちがっているような不安ふあん、自分じぶんはその不安ふあんのために夜々、転輾し、呻吟しんぎんし、発狂はっきょうしかけた事ことさえあります。自分じぶんは、いったい幸福なこうふくなのでしょうか。自分じぶんは小さいちいさい時ときから、実にじつにしばしば、仕合せ者しゃだと人ひとに言わいわれて来きましたが、自分じぶんではいつも地獄じごくの思いしいで、かえって、自分じぶんを仕合しあいせ者しゃだと言ったいったひとたちのほうが、比較ひかくにも何もなにもならぬくらいずっとずっと安楽なあんらくなように自分じぶんには見えるみえるのです。
自分じぶんには、禍いのかたまりが十じゅう個こあって、その中なかの一いち個こでも、隣人りんじんが脊負ったらおったら、その一いち個こだけでも充分にじゅうぶんに隣人りんじんの生命せいめい取りとりになるのではあるまいかと、思ったおもった事ことさえありました。
つまり、わからないのです。隣人りんじんの苦しみくるしみの性質せいしつ、程度ていどが、まるで見当けんとうつかないのです。プラクテカルな苦しみくるしみ、ただ、めしを食えたらくえたらそれで解決かいけつできる苦しみくるしみ、しかし、それこそ最ももっとも強いつよい痛苦つうくで、自分じぶんの例れいの十じゅう個この禍いなど、吹っ飛んでふっとんでしまう程ほどの、凄惨なせいさんな阿鼻地獄じごくなのかも知れしれない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺じさつもせず、発狂はっきょうもせず、政党せいとうを論じろんじ、絶望ぜつぼうせず、屈せくっせず生活せいかつのたたかいを続けてつづけて行けるいける、苦しくくるしくないんじゃないか？　エゴイストになりきって、しかもそれを当然のとうぜんの事ことと確信かくしんし、いちども自分じぶんを疑ったうたがった事ことが無いないんじゃないか？　それなら、楽だらくだ、しかし、人間にんげんというものは、皆みんなそんなもので、またそれで満点まんてんなのではないかしら、わからない、……夜よるはぐっすり眠りねむり、朝あさは爽快なそうかいなのかしら、どんな夢ゆめを見てみているのだろう、道みちを步きながら何なにを考えてかんがえているのだろう、金？　まさか、それだけでも無いないだろう、人間にんげんは、めしを食うくうために生きていきているのだ、という説せつは聞いたきいた事ことがあるような気きがするけれども、金きんのために生きていきている、という言葉ことばは、耳みみにした事ことが無いない、いや、しかし、ことに依るよると、……いや、それもわからない、……考えればかんがえれば考えるかんがえるほど、自分じぶんには、わからなくなり、自分じぶんひとり全くまったく変ってかわっているような、不安ふあんと恐怖きょうふに襲わおそわれるばかりなのです。自分じぶんは隣人りんじんと、ほとんど会話かいわが出来できません。何なにを、どう言ったらいったらいいのか、わからないのです。
そこで考えかんがえ出しただしたのは、道化どうけでした。
それは、自分じぶんの、人間にんげんに対するたいする最後のさいごの求愛きゅうあいでした。自分じぶんは、人間にんげんを極度にきょくどに恐れておそれていながら、それでいて、人間にんげんを、どうしても思い切れおもいきれなかったらしいのです。そうして自分じぶんは、この道化どうけの一線いっせんでわずかに人間にんげんにつながる事ことが出来たできたのでした。おもてでは、絶えずたえず笑顔えがおをつくりながらも、内心ないしんは必死のひっしの、それこそ千せん番ばんに一番いちばんの兼ね合いかねあいとでもいうべき危機一髪ききいっぱつの、油あぶら汗あせ流してながしてのサーヴィスでした。
自分じぶんは子供こどもの頃ころから、自分じぶんの家族かぞくの者ものたちに対してたいしてさえ、彼かれ等とうがどんなに苦しくくるしく、またどんな事ことを考えてかんがえて生きていきているのか、まるでちっとも見当けんとうつかず、ただおそろしく、その気まずきまずさに堪えるたえる事ことが出来できず、既にすでに道みち化かの上手うわてになっていました。つまり、自分じぶんは、いつのまにやら、一言ひとことも本当のほんとうの事ことを言わいわない子こになっていたのです。
その頃そのころの、家族かぞくたちと一緒にいっしょにうつした写真しゃしんなどを見るみると、他たの者ものたちは皆みんなまじめな顔かおをしているのに、自分じぶんひとり、必ずかならず奇妙にきみょうに顔かおをゆがめて笑ってわらっているのです。これもまた、自分じぶんの幼くおさなく悲しいかなしい道化どうけの一種いっしゅでした。
また自分じぶんは、肉親にくしんたちに何なにか言わいわれて、口くち応えこたえした事ことはいちども有りありませんでした。そのわずかなおこごとは、自分じぶんには霹靂へきれきの如くごとく強くつよく感ぜかんぜられ、狂うくるうみたいになり、口くち応えこたえどころか、そのおこごとこそ、謂わばいわば万世一系ばんせいいっけいの人間にんげんの「真理しんり」とかいうものに違いちがいない、自分じぶんにはその真理しんりを行うおこなう力ちからが無いないのだから、もはや人間にんげんと一緒にいっしょに住めすめないのではないかしら、と思いおもい込んでこんでしまうのでした。だから自分じぶんには、言い争いいいあらそいも自己じこ弁解べんかいも出来できないのでした。人ひとから悪くわるく言わいわれると、いかにも、もっとも、自分じぶんがひどい思い違いおもいちがいをしているような気きがして来てきて、いつもその攻撃こうげきを黙してもくして受けうけ、内心ないしん、狂うくるうほどの恐怖きょうふを感じかんじました。
それは誰だれでも、人ひとから非難ひなんせられたり、怒らいかられたりしていい気持きもちがするものでは無いないかも知れしれませんが、自分じぶんは怒っておこっている人間にんげんの顔かおに、獅子ししよりも鰐わによりも竜りゅうよりも、もっとおそろしい動物どうぶつの本性ほんしょうを見るみるのです。ふだんは、その本性ほんしょうをかくしているようですけれども、何なにかの機会きかいに、たとえば、牛うしが草原そうげんでおっとりした形かたちで寝てねていて、突如とつじょ、尻尾しっぽでピシッと腹はらの虻あぶを打ちうち殺すころすみたいに、不意にふいに人間にんげんのおそろしい正体しょうたいを、怒りいかりに依ってよって暴露ばくろする様子ようすを見てみて、自分じぶんはいつも髪かみの逆ぎゃく立つたつほどの戦慄せんりつを覚えおぼえ、この本性ほんしょうもまた人間にんげんの生きていきて行くいく資格しかくの一いちつなのかも知れしれないと思えばおもえば、ほとんど自分じぶんに絶望ぜつぼうを感じるかんじるのでした。
人間にんげんに対してたいして、いつも恐怖きょうふに震しんいおののき、また、人間にんげんとしての自分じぶんの言動げんどうに、みじんも自信じしんを持てもてず、そうして自分じぶんひとりの懊悩は胸むねの中なかの小箱に秘めひめ、その憂鬱ゆううつ、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠してかくして、ひたすら無邪気むじゃきの楽天らくてん性せいを装いよそおい、自分じぶんはお道化どうけたお変人へんじんとして、次第にしだいに完成かんせいされて行きいきました。
何なにでもいいから、笑わわらわせておればいいのだ、そうすると、人間にんげんたちは、自分じぶんが彼かれ等とうの所謂「生活せいかつ」の外そとにいても、あまりそれを気きにしないのではないかしら、とにかく、彼かれ等とう人間にんげんたちの目障りにめざわりになってはいけない、自分じぶんは無むだ、風かぜだ、空からだ、というような思いしいばかりが募りつのり、自分じぶんはお道化どうけに依ってよって家族かぞくを笑わわらわせ、また、家族かぞくよりも、もっと不可解でふかかいでおそろしい下男や下女にまで、必死のひっしのお道化どうけのサーヴィスをしたのです。
自分じぶんは夏なつに、浴衣ゆかたの下したに赤いあかい毛糸けいとのセエターを着てきて廊下ろうかを步き、家中いえじゅうの者ものを笑わわらわせました。めったに笑わわらわない長兄ちょうけいも、それを見てみて噴き出しふきだし、
「それあ、葉はちゃん、似合わにあわない」
と、可愛くてかわいくてたまらないような口調くちょうで言いいいました。なに、自分じぶんだって、真夏まなつに毛糸けいとのセエターを着てきて步くほど、いくら何でもなんでも、そんな、暑あつさ寒さむさを知らしらぬお変人へんじんではありません。姉あねの脚絆きゃはんを両腕りょううでにはめて、浴衣ゆかたの袖口そでぐちから覗かのぞかせ、以てセエターを着てきているように見せかけてみせかけていたのです。
自分じぶんの父ちちは、東京とうきょうに用事ようじの多いおおいひとでしたので、上野うえのの桜木さくらぎ町ちょうに別荘べっそうを持ってもっていて、月つきの大半たいはんは東京とうきょうのその別荘べっそうで暮してくらしていました。そうして帰るかえる時ときには家族かぞくの者ものたち、また親戚しんせきの者ものたちにまで、実にじつにおびただしくお土産みやげを買ってかって来るくるのが、まあ、父ちちの趣味しゅみみたいなものでした。
いつかの父ちちの上京じょうきょうの前夜ぜんや、父ちちは子供こどもたちを客間きゃくまに集めあつめ、こんど帰るかえる時ときには、どんなお土産みやげがいいか、一いち人にん々々に笑いわらいながら尋ねたずね、それに対するたいする子供こどもたちの答こたえをいちいち手帖てちょうに書きとめるかきとめるのでした。父ちちが、こんなに子供こどもたちと親しくしたしくするのは、めずらしい事ことでした。
「葉蔵は？」
と聞かきかれて、自分じぶんは、口ごもってくちごもってしまいました。
何なにが欲しいほしいと聞かきかれると、とたんに、何もなにも欲しくほしくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分じぶんを楽しくたのしくさせてくれるものなんか無いないんだという思いしいが、ちらと動くうごくのです。と、同時にどうじに、人ひとから与えあたえられるものを、どんなに自分じぶんの好みよしみに合わあわなくても、それを拒むこばむ事ことも出来できませんでした。イヤないやな事ことを、イヤいやと言えいえず、また、好きなすきな事ことも、おずおずと盗むぬすむように、極めてきわめてにがく味あじい、そうして言いいい知れしれぬ恐怖きょうふ感かんにもだえるのでした。つまり、自分じぶんには、二に者しゃ選一せんいつの力ちからさえ無かったなかったのです。これが、後年こうねんに到り、いよいよ自分じぶんの所ところ謂「恥はじの多いおおい生涯しょうがい」の、重大なじゅうだいな原因げんいんともなる性癖せいへきの一いちつだったように思わおもわれます。
自分じぶんが黙ってだまって、もじもじしているので、父ちちはちょっと不機嫌なふきげんな顔かおになり、
「やはり、本ほんか。浅草あさくさの仲なか店てんにお正月しょうがつの獅子しし舞いまいのお獅子しし、子供こどもがかぶって遊ぶあそぶのには手頃なてごろな大きおおきさのが売ってうっていたけど、欲しくほしくないか」
欲しくほしくないか、と言わいわれると、もうダメなだめなんです。お道化どうけた返事へんじも何もなにも出来できやしないんです。お道化どうけ役者やくしゃは、完全にかんぜんに落第らくだいでした。
「本ほんが、いいでしょう」
長ちょう兄あには、まじめな顔かおをして言いいいました。
「そうか」
父ちちは、興きょう覚めさめ顔かおに手帖てちょうに書きとめかきとめもせず、パチぱちと手帖てちょうを閉じとじました。
何というなんという失敗しっぱい、自分じぶんは父ちちを怒らいからせた、父ちちの復讐ふくしゅうは、きっと、おそるべきものに違いちがいない、いまのうちに何とかなんとかして取りかえとりかえしのつかぬものか、とその夜よる、蒲団ふとんの中なかでがたがた震えふるえながら考えかんがえ、そっと起きておきて客間きゃくまに行きいき、父ちちが先刻せんこく、手帖てちょうをしまい込んだまいこんだ筈はずの机つくえの引き出しひきだしをあけて、手帖てちょうを取りとり上げあげ、パラパラぱらぱらめくって、お土産みやげの注文ちゅうもん記入きにゅうの個所かしょを見つけみつけ、手帖てちょうの鉛筆えんぴつをなめて、シシししマイまい、と書いてかいて寝ねました。自分じぶんはその獅子しし舞いまいのお獅子ししを、ちっとも欲しくほしくは無かったなかったのです。かえって、本ほんのほうがいいくらいでした。けれども、自分じぶんは、父ちちがそのお獅子ししを自分じぶんに買ってかって与えあたえたいのだという事ことに気きがつき、父ちちのその意向いこうに迎合げいごうして、父ちちの機嫌きげんを直しなおしたいばかりに、深夜しんや、客間きゃくまに忍び込むしのびこむという冒険ぼうけんを、敢えてあえておかしたのでした。
そうして、この自分じぶんの非常ひじょうの手段しゅだんは、果してはたして思いどおりのおもいどおりの大だい成功せいこうを以て報いむくいられました。やがて、父ちちは東京とうきょうから帰ってかえって来てきて、母ははに大声おおごえで言っていっているのを、自分じぶんは子供こども部屋へやで聞いてきいていました。
「仲なか店てんのおもちゃ屋やで、この手帖てちょうを開いてひらいてみたら、これ、ここに、シシししマイまい、と書いてかいてある。これは、私わたしの字じではない。はてな？　と首くびをかしげて、思い当りおもいあたりました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私わたしが聞いたきいた時ときには、にやにやして黙ってだまっていたが、あとで、どうしてもお獅子ししが欲しくてほしくてたまらなくなったんだね。何せなにせ、どうも、あれは、変ったかわった坊主ぼうずですからね。知らん振りしらんふりして、ちゃんと書いてかいている。そんなに欲しかったほしかったのなら、そう言えばいえばよいのに。私わたしは、おもちゃ屋やの店先みせさきで笑いわらいましたよ。葉蔵を早くはやくここへ呼びよびなさい」
また一方いっぽう、自分じぶんは、下男や下女たちを洋室ようしつに集めてあつめて、下男のひとりに滅茶めちゃ苦く茶ちゃにピアノぴあののキイをたたかせ、（田舎いなかではありましたが、その家いえには、たいていのものが、そろっていました）自分じぶんはその出鱈目でたらめの曲きょくに合せてあわせて、インデヤンやんの踊りおどりを踊っておどって見せてみせて、皆みんなを大笑いおおわらいさせました。次兄じけいは、フラッシュふらっしゅを焚いてたいて、自分じぶんのインいんデヤン踊りおどりを撮影さつえいして、その写真しゃしんが出来たできたのを見るみると、自分じぶんの腰こし布ぬの（それは更紗さらさの風呂敷ふろしきでした）の合せあわせ目めから、小さいちいさいおチンポが見えてみえていたので、これがまた家中いえなかの大笑いおおわらいでした。自分じぶんにとって、これまた意外のいがいの成功せいこうというべきものだったかも知れしれません。
自分じぶんは毎月まいつき、新刊しんかんの少年しょうねん雑誌ざっしを十じゅう冊さつ以上いじょうも、とっていて、またその他そのたにも、さまざまの本ほんを東京とうきょうから取り寄せてとりよせて黙ってだまって読んでよんでいましたので、メチャめちゃラクらくチャラ博士はかせだの、また、ナンジャモンジャ博士はかせなどとは、たいへんな馴染なじみで、また、怪談かいだん、講談こうだん、落語らくご、江戸えど小咄こばなしなどの類るいにも、かなり通じてつうじていましたから、剽軽な事ことをまじめな顔かおをして言っていって、家いえの者ものたちを笑わわらわせるのには事ことを欠きかきませんでした。
しかし、嗚呼、学校がっこう！
自分じぶんは、そこでは、尊敬そんけいされかけていたのです。尊敬そんけいされるという観念かんねんもまた、甚だはなはだ自分じぶんを、おびえさせました。ほとんど完全にかんぜんに近くちかく人ひとをだまして、そうして、或るあるひとりの全知全能ぜんちぜんのうの者ものに見破らみやぶられ、木きっ葉はみじんにやられて、死しぬる以上いじょうの赤あか恥はじをかかせられる、それが、「尊敬そんけいされる」という状態じょうたいの自分じぶんの定義ていぎでありました。人間にんげんをだまして、「尊敬そんけいされ」ても、誰だれかひとりが知ってしっている、そうして、人間にんげんたちも、やがて、そのひとりから教えおしえられて、だまされた事ことに気づいたきづいた時とき、その時ときの人間にんげんたちの怒りいかり、復讐ふくしゅうは、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像そうぞうしてさえ、身みの毛けがよだつ心地ここちがするのです。
自分じぶんは、金持ちかねもちの家いえに生れたうまれたという事ことよりも、俗にぞくにいう「できる」事ことに依ってよって、学校がっこう中ちゅうの尊敬そんけいを得えそうになりました。自分じぶんは、子供こどもの頃ころから病弱でびょうじゃくで、よく一いちつき二につき、また一いち学年がくねんちかくも寝ね込んでこんで学校がっこうを休んだやすんだ事じさえあったのですが、それでも、病みやみ上りのぼりのからだで人力車じんりきしゃに乗ってのって学校がっこうへ行きいき、学年がくねん末まつの試験しけんを受けてうけてみると、クラスくらすの誰だれよりも所謂「できて」いるようでした。からだ具ぐ合いあいのよい時ときでも、自分じぶんは、さっぱり勉強べんきょうせず、学校がっこうへ行っていっても授業じゅぎょう時間じかんに漫画まんがなどを書きかき、休憩きゅうけい時間じかんにはそれをクラスくらすの者ものたちに説明せつめいして聞かきかせて、笑わわらわせてやりました。また、綴りつづり方がたには、滑稽こっけい噺はなしばかり書きかき、先生せんせいから注意ちゅういされても、しかし、自分じぶんは、やめませんでした。先生せんせいは、実はじつはこっそり自分じぶんのその滑稽こっけい噺はなしを楽しみにたのしみにしている事ことを自分じぶんは、知ってしっていたからでした。或るある日ひ、自分じぶんは、れいに依ってよって、自分じぶんが母ははに連れつれられて上京じょうきょうの途中とちゅうの汽車きしゃで、おしっこを客車きゃくしゃの通路つうろにある痰壺たんつぼにしてしまった失敗しっぱい談だん（しかし、その上京じょうきょうの時ときに、自分じぶんは痰壺たんつぼと知らしらずにしたのではありませんでした。子供こどもの無邪気むじゃきをてらって、わざと、そうしたのでした）を、ことさらに悲しかなしそうな筆致ひっちで書いてかいて提出ていしゅつし、先生せんせいは、きっと笑うわらうという自信じしんがありましたので、職員しょくいん室しつに引き揚げてひきあげて行くいく先生せんせいのあとを、そっとつけて行きいきましたら、先生せんせいは、教室きょうしつを出るでるとすぐ、自分じぶんのその綴りつづり方かたを、他たのクラスくらすの者ものたちの綴りつづり方かたの中なかから選びえらび出しだし、廊下ろうかを步きながら読みよみはじめて、クスクスくすくす笑いわらい、やがて職員しょくいん室しつにはいって読みよみ終えたおえたのか、顔かおを真赤にして大声おおごえを挙げてあげて笑いわらい、他たの先生せんせいに、さっそくそれを読まよませているのを見とどけみとどけ、自分じぶんは、たいへん満足でしたまんぞくでした。
お茶目ちゃめ。
自分じぶんは、所謂お茶目にちゃめに見みられる事ことに成功せいこうしました。尊敬そんけいされる事ことから、のがれる事ことに成功せいこうしました。通信つうしん簿ぼは全ぜん学科がっかとも十じゅう点てんでしたが、操みさお行こうというものだけは、七なな点てんだったり、六ろく点てんだったりして、それもまた家中いえなかの大笑いおおわらいの種しゅでした。
けれども自分じぶんの本ほん性せいは、そんなお茶目ちゃめさんなどとは、凡そおよそ対蹠的なてきなものでした。その頃そのころ、既にすでに自分じぶんは、女おんな中ちゅうや下男から、哀しいかなしい事ことを教えおしえられ、犯さおかされていました。幼少ようしょうの者ものに対してたいして、そのような事ことを行うおこなうのは、人間にんげんの行いおこない得るえる犯罪はんざいの中なかで最ももっとも醜悪でしゅうあくで下等でかとうで、残酷なざんこくな犯罪はんざいだと、自分じぶんはいまでは思っておもっています。しかし、自分じぶんは、忍びしのびました。これでまた一いちつ、人間にんげんの特質とくしつを見たみたというような気持きもちさえして、そうして、力無くちからなく笑ってわらっていました。もし自分じぶんに、本当のほんとうの事ことを言ういう習慣しゅうかんがついていたなら、悪びれわるびれず、彼かれ等とうの犯罪はんざいを父ちちや母ははに訴えるうったえる事ことが出来たできたのかも知れしれませんが、しかし、自分じぶんは、その父ちちや母ははをも全ぜん部ぶは理解りかいする事ことが出来できなかったのです。人間にんげんに訴えるうったえる、自分じぶんは、その手段しゅだんには少しもすこしも期待きたいできませんでした。父ちちに訴えてうったえても、母ははに訴えてうったえても、お巡りめぐりに訴えてうったえても、政府せいふに訴えてうったえても、結局けっきょくは世渡りよわたりに強いつよい人ひとの、世間せけんに通りとおりのいい言いいいぶんに言いいいまくられるだけの事ことでは無いないかしら。
必ずかならず片手かたて落おとしのあるのが、わかり切ってきっている、所詮しょせん、人間にんげんに訴えるうったえるのは無駄であるむだである、自分じぶんはやはり、本当のほんとうの事ことは何もなにも言わいわず、忍んでしのんで、そうしてお道化どうけをつづけているより他ほか、無いない気持きもちなのでした。
なんだ、人間にんげんへの不信ふしんを言っていっているのか？　へえ？　お前まえはいつクリスチャンくりすちゃんになったんだい、と嘲笑ちょうしょうする人ひとも或いはあるいはあるかも知れしれませんが、しかし、人間にんげんへの不信ふしんは、必ずしもかならずしもすぐに宗教しゅうきょうの道みちに通じてつうじているとは限らかぎらないと、自分じぶんには思わおもわれるのですけど。現にげんにその嘲笑ちょうしょうする人ひとをも含めてふくめて、人間にんげんは、お互いおたがいの不信ふしんの中なかで［＃「お互いおたがいの不信ふしんの中なかで」に傍点ぼうてん］、エホバえほばも何もなにも念頭ねんとうに置かおかず、平気でへいきで生きていきているではありませんか。やはり、自分じぶんの幼少ようしょうの頃ころの事ことでありましたが、父ちちの属してぞくしていた或るある政党せいとうの有名ゆうめい人じんが、この町まちに演説えんぜつに来て、自分じぶんは下男たちに連れつれられて劇場げきじょうに聞きききに行きいきました。満員まんいんで、そうして、この町まちの特にとくに父ちちと親しくしたしくしている人ひとたちの顔かおは皆みんな、見えてみえて、大いにおおいに拍手はくしゅなどしていました。演説えんぜつがすんで、聴衆ちょうしゅうは雪ゆきの夜道よみちを三々五々さんさんごごかたまって家路いえじに就きつき、クソくそミソみそに今夜こんやの演説えんぜつ会かいの悪口わるくちを言っていっているのでした。中なかには、父ちちと特にとくに親しいしたしい人ひとの声こえもまじっていました。父ちちの開会かいかいの辞じも下手したて、れいの有名ゆうめい人じんの演説えんぜつも何なにが何やらなにやら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志どうしたち」が怒声どせいに似たにた口調くちょうで言っていっているのです。そうしてそのひとたちは、自分じぶんの家いえに立ち寄ってたちよって客間きゃくまに上りのぼり込みこみ、今夜こんやの演説えんぜつ会かいは大だい成功せいこうだったと、しんから嬉しうれしそうな顔かおをして父ちちに言っていっていました。下男たちまで、今夜こんやの演説えんぜつ会かいはどうだったと母ははに聞かきかれ、とても面白かったおもしろかった、と言っていってけろりとしているのです。演説えんぜつ会かいほど面白くおもしろくないものはない、と帰るかえる途々、下男たちが嘆きなげき合ってあっていたのです。
しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例いちれいに過ぎすぎません。互いにたがいにあざむき合ってあって、しかもいずれも不思議ふしぎに何のなんの傷きずもつかず、あざむき合ってむきあっている事ことにさえ気きがついていないみたいな、実にじつにあざやかな、それこそ清くきよく明るくあかるくほがらかな不信ふしんの例れいが、人間にんげんの生活せいかつに充満じゅうまんしているように思わおもわれます。けれども、自分じぶんには、あざむき合ってむきあっているという事ことには、さして特別のとくべつの興味きょうみもありません。自分じぶんだって、お道化どうけに依ってよって、朝あさから晚まで人間にんげんをあざむいているのです。自分じぶんは、修身しゅうしん教科きょうか書しょ的なてきな正義せいぎとか何とかなんとかいう道徳どうとくには、あまり関心かんしんを持てもてないのです。自分じぶんには、あざむき合ってむきあっていながら、清くきよく明るくあかるく朗らかにほがらかに［＃「清くきよく明るくあかるく朗らかにほがらかに」に傍点ぼうてん］生きていきている、或いはあるいは生きいき得るえる自信じしんを持ってもっているみたいな人間にんげんが難解ななんかいなのです。人間にんげんは、ついに自分じぶんにその妙諦を教えておしえてはくれませんでした。それさえわかったら、自分じぶんは、人間にんげんをこんなに恐怖きょうふし、また、必死のひっしのサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間にんげんの生活せいかつと対立たいりつしてしまって、夜々の地獄じごくのこれほどの苦しみくるしみを嘗めなめずにすんだのでしょう。つまり、自分じぶんが下男下女たちの憎むにくむべきあの犯罪はんざいをさえ、誰だれにも訴えうったえなかったのは、人間にんげんへの不信ふしんからではなく、また勿論もちろんクリスト主義しゅぎのためでもなく、人間にんげんが、葉蔵という自分じぶんに対してたいして信用しんようの殻からを固くかたく閉じてとじていたからだったと思いおもいます。父母ふぼでさえ、自分じぶんにとって難解ななんかいなものを、時折ときおり、見せるみせる事ことがあったのですから。
そうして、その、誰だれにも訴えうったえない、自分じぶんの孤独こどくの匂いにおいが、多くおおくの女性じょせいに、本能ほんのうに依ってよって嗅ぎかぎ当てあてられ、後年こうねんさまざま、自分じぶんがつけ込まつけこまれる誘因ゆういんの一いちつになったような気きもするのです。
つまり、自分じぶんは、女性じょせいにとって、恋こいの秘密ひみつを守れるまもれる男おとこであったというわけなのでした。
［＃改頁］

第だい二にの手記しゅき

海うみの、波打なみうち際さい、といってもいいくらいに海うみにちかい岸辺きしべに、真黒い樹じゅ肌はだの山桜やまざくらの、かなり大きいおおきいのが二十本ほん以上いじょうも立ちたちならび、新しん学年がくねんがはじまると、山桜やまざくらは、褐色かっしょくのねばっこいような嫩葉どんようと共にともに、青いあおい海うみを背景はいけいにして、その絢爛けんらんたる花はなをひらき、やがて、花はな吹雪ふぶきの時ときには、花びらはなびらがおびただしく海うみに散りちり込みこみ、海面かいめんを鏤めてちりばめて漂いただよい、波なみに乗せのせられ再びふたたび波打なみうち際さいに打ちうちかえされる、その桜さくらの砂浜すなはまが、そのまま校庭こうていとして使用しようせられている東北とうほくの或るある中学校ちゅうがっこうに、自分じぶんは受験じゅけん勉強べんきょうもろくにしなかったのに、どうやら無事にぶじに入学にゅうがくできました。そうして、その中学ちゅうがくの制帽せいぼうの徽章にも、制服せいふくのボタンぼたんにも、桜さくらの花はなが図案ずあん化せかせられて咲いてさいていました。
その中学校ちゅうがっこうのすぐ近くちかくに、自分じぶんの家いえと遠いとおい親戚しんせきに当るあたる者ものの家いえがありましたので、その理由りゆうもあって、父ちちがその海うみと桜さくらの中学校ちゅうがっこうを自分じぶんに選んでえらんでくれたのでした。自分じぶんは、その家いえにあずけられ、何せなにせ学校がっこうのすぐ近くちかくなので、朝礼ちょうれいの鐘かねの鳴るなるのを聞いてきいてから、走ってはしって登校とうこうするというような、かなり怠惰なたいだな中学生ちゅうがくせいでしたが、それでも、れいのお道化どうけに依ってよって、日一日ひいちにちとクラスくらすの人気にんきを得てえていました。
生れてうまれてはじめて、謂わばいわば他郷へ出たでたわけなのですが、自分じぶんには、その他そのた郷ごうのほうが、自分じぶんの生れうまれ故郷こきょうよりも、ずっと気楽なきらくな場所ばしょのように思わおもわれました。それは、自分じぶんのお道みち化かもその頃ころにはいよいよぴったり身みについて来てきて、人ひとをあざむくのに以前いぜんほどの苦労くろうを必要ひつようとしなくなっていたからである、と解説かいせつしてもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親にくしんと他人たにん、故郷こきょうと他郷、そこには抜くぬくべからざる演技えんぎの難易なんいの差さが、どのような天才てんさいにとっても、たとい神の子かみのこのイエスにとっても、存在そんざいしているものなのではないでしょうか。俳優はいゆうにとって、最ももっとも演じえんじにくい場所ばしょは、故郷こきょうの劇場げきじょうであって、しかも六ろく親眷属ぞく全部ぜんぶそろって坐ってすわっている一いち部屋へやの中なかに在ってあっては、いかな名優めいゆうも演技えんぎどころでは無くなるなくなるのではないでしょうか。けれども自分じぶんは演じてえんじて来きました。しかも、それが、かなりの成功せいこうを収めたおさめたのです。それほどの曲者くせものが、他郷に出てでて、万が一まんがいちにも演じえんじ損ねるそこねるなどという事ことは無いないわけでした。
自分じぶんの人間にんげん恐怖きょうふは、それは以前いぜんにまさるとも劣らおとらぬくらい烈しく胸むねの底そこで蠕動ぜんどうしていましたが、しかし、演技えんぎは実にじつにのびのびとして来てきて、教室きょうしつにあっては、いつもクラスくらすの者ものたちを笑わわらわせ、教師きょうしも、このクラスくらすは大庭おおばさえいないと、とてもいいクラスくらすなんだが、と言葉ことばでは嘆なげきじながら、手てで口くちを覆っておおって笑ってわらっていました。自分じぶんは、あの雷かみなりの如きごとき蛮声を張り上げるはりあげる配属はいぞく将校しょうこうをさえ、実にじつに容易によういに噴き出ふきでさせる事ことが出来たできたのです。
もはや、自分じぶんの正体しょうたいを完全にかんぜんに隠蔽いんぺいし得たえたのではあるまいか、とほっとしかけた矢先やさきに、自分じぶんは実にじつに意外にいがいにも背後はいごから突き刺さつきさされました。それは、背後はいごから突き刺すつきさす男おとこのごたぶんにもれず、クラスくらすで最ももっとも貧弱なひんじゃくな肉体にくたいをして、顔かおも青あおぶくれで、そうしてたしかに父兄ふけいのお古いにしえと思わおもわれる袖そでが聖徳太子しょうとくたいしの袖そでみたいに長ながすぎる上衣じょういを着てきて、学課がっかは少しもすこしも出来できず、教練や体操たいそうはいつも見学けんがくという白痴はくちに似たにた生徒せいとでした。自分じぶんもさすがに、その生徒せいとにさえ警戒けいかいする必要ひつようは認めてみとめていなかったのでした。
その日ひ、体操たいそうの時間じかんに、その生徒せいと（姓せいはいま記憶きおくしていませんが、名なは竹一といったかと覚えておぼえています）その竹一は、れいに依ってよって見学けんがく、自分じぶんたちは鉄棒てつぼうの練習れんしゅうをさせられていました。自分じぶんは、わざと出来るできるだけ厳粛なげんしゅくな顔かおをして、鉄棒てつぼうめがけて、えいっと叫んでさけんで飛びとび、そのまま幅はば飛びとびのように前方ぜんぽうへ飛んでとんでしまって、砂地すなじにドスンどすんと尻餅しりもちをつきました。すべて、計画けいかく的なてきな失敗しっぱいでした。果してはたして皆みんなの大笑いおおわらいになり、自分じぶんも苦笑くしょうしながら起き上っておきあがってズボンずぼんの砂すなを払ってはらっていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分じぶんの背中せなかをつつき、低いひくい声こえでこう囁きささやきました。
「ワザわざ。ワザわざ」
自分じぶんは震撼しんかんしました。ワザわざと失敗しっぱいしたという事ことを、人ひともあろうに、竹一に見破らみやぶられるとは全くまったく思いおもいも掛けかけない事ことでした。自分じぶんは、世界せかいが一瞬にしていっしゅんにして地獄じごくの業火に包まつつまれて燃えもえ上るのぼるのを眼前がんぜんに見るみるような心地ここちがして、わあっ！　と叫んでさけんで発狂はっきょうしそうな気配けはいを必死のひっしの力ちからで抑えおさえました。
それからの日々ひびの、自分じぶんの不安ふあんと恐怖きょうふ。
表面ひょうめんは相あい変らかわらず哀しいかなしいお道化どうけを演じてえんじて皆みんなを笑わわらわせていましたが、ふっと思わずおもわず重苦しいおもくるしい溜息ためいきが出てでて、何なにをしたってすべて竹一に木きっ葉はみじんに見破らみやぶられていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰だれかれとなく、それを言いふらしていいふらして步くに違いないちがいないのだ、と考えるかんがえると、額がくにじっとり油あぶら汗あせがわいて来てきて、狂人きょうじんみたいに妙なみょうな眼めつきで、あたりをキョロキョロきょろきょろむなしく見み廻したりまわしたりしました。できる事ことなら、朝あさ、昼ひる、晚、四六時中しろくじちゅう、竹一の傍そばから離れはなれず彼かれが秘密ひみつを口走らくちばしらないように監視かんししていたい気持きもちでした。そうして、自分じぶんが、彼かれにまつわりついている間あいだに、自分じぶんのお道みち化かは、所謂「ワザわざ」では無くてなくて、ほんものであったというよう思いおもい込まこませるようにあらゆる努力どりょくを払いはらい、あわよくば、彼かれと無二むにの親友しんゆうになってしまいたいものだ、もし、その事ことが皆みんな、不可能ふかのうなら、もはや、彼かれの死しを祈るいのるより他たは無いない、とさえ思いおもいつめました。しかし、さすがに、彼かれを殺そうころそうという気きだけは起りおこりませんでした。自分じぶんは、これまでの生涯しょうがいに於いておいて、人ひとに殺さころされたいと願望がんぼうした事ことは幾いく度どとなくありましたが、人ひとを殺しころしたいと思ったおもった事ことは、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手あいてに、かえって幸福こうふくを与えるあたえるだけの事ことだと考えてかんがえていたからです。
自分じぶんは、彼かれを手なずけるてなずけるため、まず、顔かおに偽にせクリスチャンくりすちゃんのような「優しいやさしい」媚笑を湛えたたえ、首くびを三十度どくらい左ひだりに曲げてまげて、彼かれの小さいちいさい肩かたを軽くかるく抱きいだき、そうして猫撫で声ねこなでごえに似たにた甘ったるいあまったるい声こえで、彼かれを自分じぶんの寄宿きしゅくしている家いえに遊びあそびに来るようしばしば誘いさそいましたが、彼かれは、いつも、ぼんやりした眼めつきをして、黙ってだまっていました。しかし、自分じぶんは、或るある日ひの放課後ほうかご、たしか初夏しょかの頃ころの事ことでした、夕ゆう立ちたちが白くしろく降ってふって、生徒せいとたちは帰宅きたくに困ってこまっていたようでしたが、自分じぶんは家いえがすぐ近くちかくなので平気でへいきで外そとへ飛び出そうとびだそうとして、ふと下駄げた箱はこのかげに、竹一がしょんぼり立ってたっているのを見つけみつけ、行こういこう、傘かさを貸してかしてあげる、と言いいい、臆するおくする竹一の手てを引っぱってひっぱって、一緒にいっしょに夕立ゆうだちちの中ちゅうを走りはしり、家いえに着いてついて、二に人にんの上衣じょういを小母さんに乾かしてかわかしてもらうようにたのみ、竹一を二に階かいの自分じぶんの部屋へやに誘いさそい込むこむのに成功せいこうしました。
その家いえには、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡めがねをかけて、病身びょうしんらしい背せの高いたかい姉娘（この娘むすめは、いちどよそへお嫁よめに行っていって、それからまた、家いえへ帰ってかえっているひとでした。自分じぶんは、このひとを、ここの家いえのひとたちにならって、アネサと呼んでよんでいました）それと、最近さいきん女学校じょがっこうを卒業そつぎょうしたばかりらしい、セッちゃんという姉あねに似にず背せが低くひくく丸顔まるがおの妹娘と、三さん人にんだけの家族かぞくで、下したの店みせには、文房具ぶんぼうぐやら運動うんどう用具ようぐを少々しょうしょう並べてならべていましたが、主なおもな収入しゅうにゅうは、なくなった主人しゅじんが建ててたてて残してのこして行ったおこなった五六棟むねの長屋ながやの家賃やちんのようでした。
「耳みみが痛いいたい」
竹一は、立ったたったままでそう言いいいました。
「雨あめに濡れたらぬれたら、痛くいたくなったよ」
自分じぶんが、見てみてみると、両方りょうほうの耳みみが、ひどい耳みみだれでした。膿うみが、いまにも耳殻の外そとに流れ出ようながれでようとしていました。
「これは、いけない。痛いいたいだろう」
と自分じぶんは大袈裟におおげさにおどろいて見せてみせて、
「雨あめの中なかを、引っぱり出したりひっぱりだしたりして、ごめんね」
と女おんなの言葉ことばみたいな言葉ことばを遣ってつかって「優しくやさしく」謝りあやまり、それから、下したへ行っていって綿めんとアルコールあるこーるをもらって来てきて、竹一を自分じぶんの膝ひざを枕まくらにして寝かせねかせ、念入りにねんいりに耳みみの掃除そうじをしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善ぎぜんの悪計であることには気き附かなかったようで、
「お前おまえは、きっと、女おんなに惚れほれられるよ」
と自分じぶんの膝枕ひざまくらで寝ねながら、無智なお世辞おせじを言ったいったくらいでした。
しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識いしきしなかったほどの、おそろしい悪魔あくまの予言よげんのようなものだったという事ことを、自分じぶんは後年こうねんに到って思い知りおもいしりました。惚れるほれると言いいい、惚れほれられると言いいい、その言葉ことばはひどく下品でげひんで、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じかんじで、どんなに所謂「厳粛げんしゅく」の場ばであっても、そこへこの言葉ことばが一言いちげんでもひょいと顔かおを出すだすと、みるみる憂鬱ゆううつの伽藍がらんが崩壊ほうかいし、ただのっぺらぼうになってしまうような心地ここちがするものですけれども、惚れほれられるつらさ、などという俗語ぞくごでなく、愛せあいせられる不安ふあん、とでもいう文学ぶんがく語ごを用いるもちいると、あながち憂鬱ゆううつの伽藍がらんをぶちこわす事ことにはならないようですから、奇妙なきみょうなものだと思いおもいます。
竹一が、自分じぶんに耳みみだれの膿うみの仕つかえ末すえをしてもらって、お前まえは惚れほれられるという馬鹿なばかなお世辞せじを言いいい、自分じぶんはその時とき、ただ顔かおを赤らめてあからめて笑ってわらって、何もなにも答えこたえませんでしたけれども、しかし、実はじつは、幽かに思い当るおもいあたるところもあったのでした。でも、「惚れほれられる」というような野の卑な言葉ことばに依ってよって生じるしょうじるやにさがった雰囲気ふんいきに対してたいして、そう言わいわれると、思い当るおもいあたるところもある、などと書くかくのは、ほとんど落語らくごの若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感かん懐ふところを示すしめすようなもので、まさか、自分じぶんは、そんなふざけた、やにさがった気持きもちで、「思い当るおもいあたるところもあった」わけでは無いないのです。
自分じぶんには、人間にんげんの女性じょせいのほうが、男性だんせいよりもさらに数すう倍ばい難解でしたなんかいでした。自分じぶんの家族かぞくは、女性じょせいのほうが男性だんせいよりも数かずが多くおおく、また親戚しんせきにも、女の子おんなのこがたくさんあり、またれいの「犯罪はんざい」の女おんな中ちゅうなどもいまして、自分じぶんは幼いおさない時ときから、女おんなとばかり遊んであそんで育ったそだったといっても過言かごんではないと思っておもっていますが、それは、また、しかし、実にじつに、薄氷はくひょうを踏むふむ思いしいで、その女おんなのひとたちと附附き合ってあって来たきたのです。ほとんど、まるで見当けんとうが、つかないのです。五里霧中ごりむちゅうで、そうして時たまときたま、虎とらの尾おを踏むふむ失敗しっぱいをして、ひどい痛手いたでを負いおい、それがまた、男性だんせいから受けるうける笞とちがって、内出血ないしゅっけつみたいに極度にきょくどに不快にふかいに内攻して、なかなか治癒ちゆし難いがたい傷きずでした。
女おんなは引き寄せてひきよせて、つっ放すはなす、或いはあるいはまた、女おんなは、人ひとのいるところでは自分じぶんをさげすみ、邪慳にし、誰だれもいなくなると、ひしと抱きしめるだきしめる、女おんなは死んだしんだように深くふかく眠るねむる、女おんなは眠るねむるために生きていきているのではないかしら、その他そのほか、女おんなに就いてついてのさまざまの観察かんさつを、すでに自分じぶんは、幼年ようねん時代じだいから得てえていたのですが、同じおなじ人類じんるいのようでありながら、男おとことはまた、全くまったく異った生きものいきもののような感じかんじで、そうしてまた、この不可解でふかかいで油断ゆだんのならぬ生きものいきものは、奇妙にきみょうに自分じぶんをかまうのでした。「惚れほれられる」なんていう言葉ことばも、また「好かすかれる」という言葉ことばも、自分じぶんの場合ばあいにはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったいったほうが、まだしも実状の説明せつめいに適しててきしているかも知れしれません。
女おんなは、男おとこよりも更にさらに、道化どうけには、くつろぐようでした。自分じぶんがお道化どうけを演じえんじ、男おとこはさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってわらってもいませんし、それに自分じぶんも男おとこのひとに対したいし、調子ちょうしに乗ってのってあまりお道化どうけを演じえんじすぎると失敗しっぱいするという事ことを知ってしっていましたので、必ずかならず適当てきとうのところで切り上げるきりあげるように心掛けてこころがけていましたが、女おんなは適度てきどという事ことを知らしらず、いつまでもいつまでも、自分じぶんにお道化どうけを要求ようきゅうし、自分じぶんはその限りかぎりないアンコールあんこーるに応じておうじて、へとへとになるのでした。実にじつに、よく笑うわらうのです。いったいに、女おんなは、男おとこよりも快楽かいらくをよけいに頬張るほおばる事ことが出来るできるようです。
自分じぶんが中学ちゅうがく時代じだいに世話せわになったその家いえの姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二に階かいの自分じぶんの部屋へやにやって来てきて、自分じぶんはその度たび毎ごとに飛び上らとびあがらんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、
「御ご勉強べんきょう？」
「いいえ」
と微笑びしょうして本ほんを閉じとじ、
「きょうね、学校がっこうでね、コンボウという地理ちりの先生せんせいがね」
とするする口くちから流れ出るながれでるものは、心こころにも無いない滑稽こっけい噺はなしでした。
「葉はちゃん、眼鏡めがねをかけてごらん」
或るある晚、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒にいっしょに自分じぶんの部屋へやへ遊びあそびに来て、さんざん自分じぶんにお道化どうけを演じえんじさせた揚句あげくの果かに、そんな事ことを言いいい出しだしました。
「なぜ？」
「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡めがねを借りかりなさい」
いつでも、こんな乱暴ならんぼうな命令めいれい口調くちょうで言ういうのでした。道化どうけ師しは、素直にすなおにアネサの眼鏡めがねをかけました。とたんに、二に人にんの娘むすめは、笑いころげわらいころげました。
「そっくり。ロイドに、そっくり」
当時とうじ、ハロルド．ロイドとかいう外国がいこくの映画えいがの喜劇きげき役者やくしゃが、日本にほんで人気にんきがありました。
自分じぶんは立ってたって片手かたてを挙げあげ、
「諸君しょくん」
と言いいい、
「このたび、日本にっぽんのファンふぁんの皆様みなさまがたに、……」
と一場いちじょうの挨拶あいさつを試みこころみ、さらに大笑いおおわらいさせて、それから、ロイドの映画えいががそのまちの劇場げきじょうに来るたび毎ごとに見みに行っていって、ひそかに彼かれの表情ひょうじょうなどを研究けんきゅうしました。
また、或るある秋あきの夜よる、自分じぶんが寝ねながら本ほんを読んでよんでいると、アネサが鳥とりのように素早くすばやく部屋へやへはいって来てきて、いきなり自分じぶんの掛かかり蒲団ふとんの上うえに倒れてたおれて泣きなき、
「葉はちゃんが、あたしを助けてたすけてくれるのだわね。そうだわね。こんな家いえ、一緒にいっしょに出てでてしまったほうがいいのだわ。助けてたすけてね。助けてたすけて」
などと、はげしい事ことを口走ってくちばしっては、また泣くなくのでした。けれども、自分じぶんには、女おんなから、こんな態度たいどを見せつけみせつけられるのは、これが最初さいしょではありませんでしたので、アネサの過激なかげきな言葉ことばにも、さして驚かおどろかず、かえってその陳腐ちんぷ、無む内容ないように興きょうが覚めたさめた心地ここちで、そっと蒲団ふとんから脱け出しぬけだし、机つくえの上うえの柿かきをむいて、その一いちきれをアネサに手渡しててわたしてやりました。すると、アネサは、しゃくり上げしゃくりあげながらその柿かきを食べたべ、
「何なにか面白いおもしろい本ほんが無いない？　貸してかしてよ」
と言いいいました。
自分じぶんは漱石の「吾輩わがはいは猫ねこである」という本ほんを、本棚ほんだなから選んでえらんであげました。
「ごちそうさま」
アネサは、恥ずかしはずかしそうに笑ってわらって部屋へやから出てでて行きいきましたが、このアネサに限らかぎらず、いったい女おんなは、どんな気持きもちで生きていきているのかを考えるかんがえる事ことは、自分じぶんにとって、蚯蚓みみずの思いしいをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄うす気味のぎみの悪いわるいものに感ぜかんぜられていました。ただ、自分じぶんは、女おんながあんなに急にきゅうに泣きなき出したりだしたりした場合ばあい、何なにか甘いあまいものを手渡しててわたしてやると、それを食べてたべて機嫌きげんを直すなおすという事ことだけは、幼いおさない時ときから、自分じぶんの経験けいけんに依ってよって知ってしっていました。
また、妹娘のセッちゃんは、その友だちともだちまで自分じぶんの部屋へやに連れてつれて来てきて、自分じぶんがれいに依ってよって公平にこうへいに皆みんなを笑わわらわせ、友だちともだちが帰るかえると、セッちゃんは、必ずかならずその友だちともだちの悪口わるくちを言ういうのでした。あのひとは不良ふりょう少女しょうじょだから、気きをつけるように、ときまって言ういうのでした。そんなら、わざわざ連れてつれて来こなければ、よいのに、おかげで自分じぶんの部屋へやの来客らいきゃくの、ほとんど全部ぜんぶが女おんな、という事ことになってしまいました。
しかし、それは、竹一のお世辞おせじの「惚れほれられる」事ことの実現じつげんでは未だいまだ決してけっして無かったなかったのでした。つまり、自分じぶんは、日本にっぽんの東北とうほくのハロルド．ロイドに過ぎすぎなかったのです。竹たけ一いちの無智なお世辞せじが、いまわしい予言よげんとして、なまなまと生きていきて来てきて、不吉なふきつな形貌を呈するていするようになったのは、更にさらにそれから、数すう年ねん経ったたった後あとの事ことでありました。
竹一は、また、自分じぶんにもう一いちつ、重大なじゅうだいな贈り物おくりものをしていました。
「お化けおばけの絵えだよ」
いつか竹一が、自分じぶんの二に階かいへ遊びあそびに来た時とき、ご持参じさんの、一いち枚まいの原色げんしょく版はんの口絵くちえを得意とくいそうに自分じぶんに見せてみせて、そう説明せつめいしました。
おや？　と思いおもいました。その瞬間しゅんかん、自分じぶんの落ちおち行くいく道みちが決定けっていせられたように、後年こうねんに到って、そんな気きがしてなりません。自分じぶんは、知ってしっていました。それは、ゴッホの例のれいの自画じが像ぞうに過ぎすぎないのを知ってしっていました。自分じぶんたちの少年しょうねんの頃ころには、日本にほんではフランスふらんすの所謂印象いんしょう派はの画がが大だい流行りゅうこうしていて、洋画ようが鑑賞かんしょうの第だい一いち步を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵えは、田舎いなかの中学生ちゅうがくせいでも、たいていその写真しゃしん版はんを見てみて知ってしっていたのでした。自分じぶんなども、ゴッホの原色げんしょく版はんをかなりたくさん見てみて、タッチたっちの面白おもしろさ、色彩しきさいの鮮やかあざやかさに興趣を覚えておぼえてはいたのですが、しかし、お化けおばけの絵え、だとは、いちども考えたかんがえた事ことが無かったなかったのでした。
「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けおばけかしら」
自分じぶんは本棚ほんだなから、モジリアニの画集がしゅうを出しだし、焼けたやけた赤銅しゃくどうのような肌はだの、れいの裸婦らふの像ぞうを竹一に見せみせました。
「すげえなあ」
竹一は眼めを丸くまるくして感嘆かんたんしました。
「地獄じごくの馬うまみたい」
「やっぱり、お化けおばけかね」
「おれも、こんなお化けおばけの絵えがかきたいよ」
あまりに人間にんげんを恐怖きょうふしている人ひとたちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪ようかいを確実にかくじつにこの眼めで見みたいと願望がんぼうするに到る心理しんり、神経質なしんけいしつな、ものにおびえ易いやすい人ひとほど、暴風ぼうふう雨うの更にさらに強からつよからん事じを祈るいのる心理しんり、ああ、この一群いちぐんの画家がかたちは、人間にんげんという化け物ばけものに傷めいためつけられ、おびやかされた揚句あげくの果か、ついに幻影げんえいを信じしんじ、白昼はくちゅうの自然しぜんの中なかに、ありありと妖怪ようかいを見たみたのだ、しかも彼かれ等とうは、それを道化どうけなどでごまかさず、見えたみえたままの表現ひょうげんに努力どりょくしたのだ、竹一の言ういうように、敢然とかんぜんと「お化けおばけの絵え」をかいてしまったのだ、ここに将来しょうらいの自分じぶんの、仲間なかまがいる、と自分じぶんは、涙なみだが出たでたほどに興奮こうふんし、
「僕ぼくも画かくくよ。お化けおばけの絵えを画かくくよ。地獄じごくの馬うまを、画かくくよ」
と、なぜだか、ひどく声こえをひそめて、竹一に言ったいったのでした。
自分じぶんは、小学校しょうがっこうの頃ころから、絵えはかくのも、見るみるのも好きでしたすきでした。けれども、自分じぶんのかいた絵えは、自分じぶんの綴りつづり方かたほどには、周囲しゅういの評判ひょうばんが、よくありませんでした。自分じぶんは、どだい人間にんげんの言葉ことばを一向にいっこうに信用しんようしていませんでしたので、綴りつづり方かたなどは、自分じぶんにとって、ただお道化どうけの御挨拶ごあいさつみたいなもので、小学校しょうがっこう、中学校ちゅうがっこう、と続いてつづいて先生せんせいたちを狂喜きょうきさせて来きましたが、しかし、自分じぶんでは、さっぱり面白くおもしろくなく、絵えだけは、（漫画まんがなどは別ですべつですけれども）その対象たいしょうの表現ひょうげんに、幼いおさない我流がりゅうながら、多少たしょうの苦心くしんを払ってはらっていました。学校がっこうの図画ずがのお手おて本ほんはつまらないし、先生せんせいの絵えは下手くそだへたくそだし、自分じぶんは、全くまったく出鱈目でたらめにさまざまの表現ひょうげん法ほうを自分じぶんで工夫くふうして試みこころみなければならないのでした。中学校ちゅうがっこうへはいって、自分じぶんは油絵あぶらえの道具どうぐも一いち揃いそろい持ってもっていましたが、しかし、そのタッチたっちの手本てほんを、印象いんしょう派はの画風がふうに求めてもとめても、自分じぶんの画がいたものは、まるで千代紙ちよがみ細工さいくのようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分じぶんは、竹一の言葉ことばに依ってよって、自分じぶんのそれまでの絵画かいがに対するたいする心構えこころがまえが、まるで間違ってまちがっていた事ことに気きが附きました。美しいうつくしいと感じたかんじたものを、そのまま美しくうつくしく表現ひょうげんしようと努力どりょくする甘あまさ、おろかしさ。マイまいスターすたーたちは、何でもなんでも無いないものを、主観しゅかんに依ってよって美しくうつくしく創造そうぞうし、或いはあるいは醜いみにくいものに嘔吐おうとをもよおしながらも、それに対するたいする興味きょうみを隠さかくさず、表現ひょうげんのよろこびにひたっている、つまり、人ひとの思惑おもわくに少しもすこしもたよっていないらしいという、画法がほうのプリミチヴな虎の巻とらのまきを、竹一から、さずけられて、れいの女おんなの来客らいきゃくたちには隠してかくして、少しずつすこしずつ、自画じが像ぞうの制作せいさくに取りかかってとりかかってみました。
自分じぶんでも、ぎょっとしたほど、陰惨ないんさんな絵えが出来でき上りのぼりました。しかし、これこそ胸むね底そこにひた隠しひたかくしに隠してかくしている自分じぶんの正体しょうたいなのだ、おもては陽気にようきに笑いわらい、また人ひとを笑わわらわせているけれども、実はじつは、こんな陰かげ鬱うつな心こころを自分じぶんは持ってもっているのだ、仕方しかたが無いない、とひそかに肯定こうていし、けれどもその絵えは、竹一以外いがいの人ひとには、さすがに誰だれにも見せみせませんでした。自分じぶんのお道化どうけの底そこの陰惨いんさんを見破らみやぶられ、急にきゅうにケチけちくさく警戒けいかいせられるのもいやでしたし、また、これを自分じぶんの正体しょうたいとも気づかきづかず、やっぱり新しん趣向しゅこうのお道化どうけと見なさみなされ、大笑いおおわらいの種しゅにせられるかも知れしれぬという懸念けねんもあり、それは何よりなによりもつらい事ことでしたので、その絵えはすぐに押入れおしいれの奥深くおくふかくしまい込みまいこみました。
また、学校がっこうの図画ずがの時間じかんにも、自分じぶんはあの「お化けおばけ式しき手法しゅほう」は秘めてひめて、いままでどおりの美しいうつくしいものを美しくうつくしく画かくく式しきの凡庸なタッチたっちで画かくいていました。
自分じぶんは竹一にだけは、前まえから自分じぶんの傷みいたみ易いやすい神経しんけいを平気でへいきで見せてみせていましたし、こんどの自画じが像ぞうも安心あんしんして竹一に見せみせ、たいへんほめられ、さらに二に枚まい三さん枚まいと、お化けおばけの絵えを画がきつづけ、竹一からもう一いちつの、
「お前おまえは、偉いえらい絵画かいがきになる」
という予言よげんを得たえたのでした。
惚れほれられるという予言よげんと、偉いえらい絵画かいがきになるという予言よげんと、この二につの予言よげんを馬鹿ばかの竹一に依ってよって額がくに刻印こくいんせられて、やがて、自分じぶんは東京とうきょうへ出てでて来きました。
自分じぶんは、美術びじゅつ学校がっこうにはいりたかったのですが、父ちちは、前まえから自分じぶんを高等こうとう学校がっこうにいれて、末すえは官吏かんりにするつもりで、自分じぶんにもそれを言いいい渡してわたしてあったので、口くち応えこたえ一いちつ出来できないたちの自分じぶんは、ぼんやりそれに従ったしたがったのでした。四よん年ねんから受けてうけて見よみよ、と言わいわれたので、自分じぶんも桜さくらと海うみの中ちゅう学がくはもういい加減いいかげんあきていましたし、五ご年ねんに進級しんきゅうせず、四よん年ねん修了しゅうりょうのままで、東京とうきょうの高等こうとう学校がっこうに受験じゅけんして合格ごうかくし、すぐに寮りょう生活せいかつにはいりましたが、その不潔ふけつと粗暴にそぼうに辟易へきえきして、道化どうけどころではなく、医師いしに肺浸潤の診断しんだん書しょを書いてかいてもらい、寮りょうから出てでて、上野うえの桜木さくらぎ町ちょうの父ちちの別荘べっそうに移りうつりました。自分じぶんには、団体だんたい生活せいかつというものが、どうしても出来できません。それにまた、青春せいしゅんの感激かんげきだとか、若人わこうどの誇りほこりだとかいう言葉ことばは、聞いてきいて寒気かんきがして来てきて、とても、あの、ハイはいスクールすくーる．スピリットとかいうものには、ついて行けいけなかったのです。教室きょうしつも寮りょうも、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気きさえして、自分じぶんの完璧にかんぺきに近いちかいお道みち化かも、そこでは何のなんの役やくにも立ちたちませんでした。
父ちちは議会ぎかいの無いない時ときは、月つきに一いち週間しゅうかんか二に週間しゅうかんしかその家いえに滞在たいざいしていませんでしたので、父ちちの留守るすの時ときは、かなり広いひろいその家いえに、別荘べっそう番ばんの老ろう夫婦ふうふと自分じぶんと三さん人にんだけで、自分じぶんは、ちょいちょい学校がっこうを休んでやすんで、さりとて東京とうきょう見物けんぶつなどをする気きも起らおこらず（自分じぶんはとうとう、明治めいじ神宮じんぐうも、楠くすのき正成の銅像どうぞうも、泉岳寺の四十七士しの墓はかも見みずに終りおわりそうです）家いえで一いち日にち中ちゅう、本ほんを読んだりよんだり、絵えをかいたりしていました。父ちちが上京じょうきょうして来るくると、自分じぶんは、毎朝まいあさそそくさと登校とうこうするのでしたが、しかし、本郷ほんごう千駄木せんだぎ町ちょうの洋画ようが家か、安田やすだ新太郎しんたろう氏しの画塾がじゅくに行きいき、三さん時間じかんも四よん時間じかんも、デッサンでっさんの練習れんしゅうをしている事こともあったのです。高等こうとう学校がっこうの寮りょうから脱だつけたら、学校がっこうの授業じゅぎょうに出てでても、自分じぶんはまるで聴講ちょうこう生みうみたいな特別のとくべつの位置いちにいるような、それは自分じぶんのひがみかも知れしれなかったのですが、何ともなんとも自分じぶん自身じしんで白々しいしらじらしい気持きもちがして来てきて、いっそう学校がっこうへ行くいくのが、おっくうになったのでした。自分じぶんには、小学校しょうがっこう、中学校ちゅうがっこう、高等こうとう学校がっこうを通じてつうじて、ついに愛校あいこう心こころというものが理解りかいできずに終りおわりました。校歌こうかなどというものも、いちども覚えようおぼえようとした事ことがありません。
自分じぶんは、やがて画塾がじゅくで、或るある画が学生がくせいから、酒さけと煙草たばこと淫売婦ふと質屋しちやと左翼さよく思想しそうとを知らしらされました。妙なみょうな取とり合せあわせでしたが、しかし、それは事実じじつでした。
その画が学生がくせいは、堀木正雄まさおといって、東京とうきょうの下町したまちに生れうまれ、自分じぶんより六ろくつ年長ねんちょう者しゃで、私立しりつの美術びじゅつ学校がっこうを卒業そつぎょうして、家いえにアトリエあとりえが無いないので、この画塾がじゅくに通いかよい、洋画ようがの勉強べんきょうをつづけているのだそうです。
「五ご円えん、貸してかしてくれないか」
お互いおたがいただ顔かおを見み知ってしっているだけで、それまで一言ひとことも話はなし合ったあった事ことが無かったなかったのです。自分じぶんは、へどもどして五ご円えん差し出しさしだしました。
「よし、飲もうのもう。おれが、お前おまえにおごるんだ。よかチゴじゃのう」
自分じぶんは拒否きょひし切れきれず、その画塾がじゅくの近くちかくの、蓬莱ほうらい町ちょうのカフエに引っぱってひっぱって行かいかれたのが、彼かれとの交友こうゆうのはじまりでした。
「前まえから、お前おまえに眼がんをつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑びしょう、それが見込みみこみのある芸術げいじゅつ家か特有のとくゆうの表情ひょうじょうなんだ。お近づきちかづきのしるしに、乾杯かんぱい！　キヌさん、こいつは美男びなん子しだろう？　惚れちゃほれちゃいけないぜ。こいつが塾じゅくへ来たおかげで、残念ざんねんながらおれは、第だい二に番ばんの美男びなん子しという事ことになった」
堀木は、色いろが浅黒くあさぐろく端正なたんせいな顔かおをしていて、画が学生がくせいには珍ちんらしく、ちゃんとした脊広を着てきて、ネクタイねくたいの好みよしみも地味でじみで、そうして頭髪とうはつもポマードをつけてまん中ちゅうからぺったりとわけていました。
自分じぶんは馴れなれぬ場所ばしょでもあり、ただもうおそろしく、腕うでを組んだりくんだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑びしょうばかりしていましたが、ビイルを二に、三さん杯はい飲んでのんでいるうちに、妙にみょうに解放かいほうせられたような軽かるさを感じてかんじて来たきたのです。
「僕ぼくは、美術びじゅつ学校がっこうにはいろうと思っておもっていたんですけど、……」
「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校がっこうは、つまらん。われらの教師きょうしは、自然しぜんの中なかにあり！　自然にしぜんに対するたいするパアぱあトスとす！」
しかし、自分じぶんは、彼かれの言ういう事ことに一向にいっこうに敬意けいいを感じかんじませんでした。馬鹿なばかなひとだ、絵えも下手にしたてにちがいない、しかし、遊ぶあそぶのには、いい相手あいてかも知れしれないと考えかんがえました。つまり、自分じぶんはその時とき、生れてうまれてはじめて、ほんものの都会とかいの与太者よたものを見たみたのでした。それは、自分じぶんと形かたちは違ってちがっていても、やはり、この世このよの人間にんげんの営みいとなみから完全にかんぜんに遊離ゆうりしてしまって、戸と迷いまよいしている点てんに於いておいてだけは、たしかに同どう類るいなのでした。そうして、彼かれはそのお道化どうけを意識いしきせずに行いおこない、しかも、そのお道化どうけの悲惨にひさんに全くまったく気きがついていないのが、自分じぶんと本質ほんしつ的にてきに異色のいしょくのところでした。
ただ遊ぶあそぶだけだ、遊びあそびの相手あいてとして附附き合ってあっているだけだ、とつねに彼かれを軽蔑けいべつし、時ときには彼かれとの交友こうゆうを恥ずかしくはずかしくさえ思いおもいながら、彼かれと連れ立ってつれだって步いているうちに、結局けっきょく、自分じぶんは、この男おとこにさえ打ち破らうちやぶられました。
しかし、はじめは、この男おとこを好こう人物じんぶつ、まれに見るみる好こう人物じんぶつとばかり思いおもい込みこみ、さすが人間にんげん恐怖きょうふの自分じぶんも全くまったく油断ゆだんをして、東京とうきょうのよい案内あんない者しゃが出来たできた、くらいに思っておもっていました。自分じぶんは、実はじつは、ひとりでは、電車でんしゃに乗るのると車掌しゃしょうがおそろしく、歌舞伎かぶき座ざへはいりたくても、あの正面しょうめん玄関げんかんの緋の絨緞じゅうたんが敷かしかれてある階段かいだんの両側りょうがわに並んでならんで立ってたっている案内あんない嬢じょうたちがおそろしく、レストランれすとらんへはいると、自分じぶんの背後はいごにひっそり立ってたって、皿さらのあくのを待ってまっている給仕きゅうじのボーイぼーいがおそろしく、殊にことにも勘定かんじょうを払うはらう時とき、ああ、ぎごちない自分じぶんの手つきてつき、自分じぶんは買い物かいものをしてお金かねを手渡すてわたす時ときには、吝嗇ゆえでなく、あまりの緊張きんちょう、あまりの恥ずかしはずかしさ、あまりの不安ふあん、恐怖きょうふに、くらくら目めまいして、世界せかいが真まこと暗にあんになり、ほとんど半はん狂乱きょうらんの気持きもちになってしまって、値切るねぎるどころか、お釣おつりを受け取るうけとるのを忘れるわすれるばかりでなく、買ったかった品物しなものを持ち帰るもちかえるのを忘れたわすれた事じさえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京とうきょうのまちを步けず、それで仕方なくしかたなく、一いち日にち一いちぱい家かの中なかで、ごろごろしていたという内情ないじょうもあったのでした。
それが、堀木に財布さいふを渡してわたして一緒にいっしょに步くと、堀木は大いにおおいに値切ってねぎって、しかも遊びあそび上手じょうずというのか、わずかなお金かねで最大のさいだいの効果こうかのあるような支払いしはらい振りふりを発揮はっきし、また、高いたかい円えんタクは敬遠けいえんして、電車でんしゃ、バスばす、ポンポンぽんぽん蒸気じょうきなど、それぞれ利用りようし分けてわけて、最短さいたん時間じかんで目的もくてき地ちへ着くつくという手腕しゅわんをも示ししめし、淫売婦ふのところから朝あさ帰るかえる途中とちゅうには、何なん々という料亭りょうていに立ち寄ってたちよって朝あさ風呂ふろへはいり、湯豆腐ゆどうふで軽くかるくお酒さけを飲むのむのが、安いやすい割わりに、ぜいたくな気分きぶんになれるものだと実地じっち教育きょういくをしてくれたり、その他そのた、屋台やたいの牛うしめし焼やきとりの安価にあんかにして滋養じように富むとむものたる事ことを説きとき、酔いよいの早くはやく発するはっするのは、電気でんきブランの右みぎに出るでるものはないと保証ほしょうし、とにかくその勘定かんじょうに就いてついては自分じぶんに、一いちつも不安ふあん、恐怖きょうふを覚えおぼえさせた事ことがありませんでした。
さらにまた、堀木と附合って救わすくわれるのは、堀木が聞ききき手ての思惑おもわくなどをてんで無視むしして、その所謂情熱じょうねつの噴出ふんしゅつするがままに、（或いはあるいは、情熱じょうねつとは、相手あいての立場たちばを無視むしする事ことかも知れしれませんが）四六時中しろくじちゅう、くだらないおしゃべりを続けつづけ、あの、二に人にんで步いて疲れつかれ、気まずいきまずい沈黙ちんもくにおちいる危懼が、全くまったく無いないという事ことでした。人ひとに接しせっし、あのおそろしい沈黙ちんもくがその場ばにあらわれる事ことを警戒けいかいして、もともと口くちの重いおもい自分じぶんが、ここを先途と必死のひっしのお道化どうけを言っていって来たきたものですが、いまこの堀木の馬鹿ばかげが、意識いしきせずに、そのお道化どうけ役やくをみずからすすんでやってくれているので、自分じぶんは、返事へんじもろくにせずに、ただ聞き流しききながし、時折ときおり、まさか、などと言っていって笑ってわらっておれば、いいのでした。
酒さけ、煙草たばこ、淫売婦ふ、それは皆みんな、人間にんげん恐怖きょうふを、たとい一いち時じでも、まぎらす事ことの出来るできるずいぶんよい手段しゅだんである事ことが、やがて自分じぶんにもわかって来きました。それらの手段しゅだんを求めるもとめるためには、自分じぶんの持ち物もちもの全部ぜんぶを売却ばいきゃくしても悔いくいない気持きもちさえ、抱くいだくようになりました。
自分じぶんには、淫売婦ふというものが、人間にんげんでも、女性じょせいでもない、白痴はくちか狂人きょうじんのように見えみえ、そのふところの中なかで、自分じぶんはかえって全くまったく安心あんしんして、ぐっすり眠るねむる事ことが出来できました。みんな、哀しいかなしいくらい、実にじつにみじんも慾というものが無いないのでした。そうして、自分じぶんに、同どう類るいの親和しんわ感かんとでもいったようなものを覚えるおぼえるのか、自分じぶんは、いつも、その淫売婦ふたちから、窮屈できゅうくつでない程度ていどの自然のしぜんの好意こういを示さしめされました。何のなんの打算ださんも無いない好意こうい、押し売りおしうりでは無いない好意こうい、二度とにどと来ないかも知れしれぬひとへの好意こうい、自分じぶんには、その白痴はくちか狂人きょうじんの淫売婦ふたちに、マリヤの円光を現実げんじつに見たみた夜よるもあったのです。
しかし、自分じぶんは、人間にんげんへの恐怖きょうふからのがれ、幽かな一夜いちやの休養きゅうようを求めるもとめるために、そこへ行きいき、それこそ自分じぶんと「同どう類るい」の淫売婦ふたちと遊んであそんでいるうちに、いつのまにやら無意識むいしきの、或るあるいまわしい雰囲気ふんいきを身辺しんぺんにいつもただよわせるようになった様子ようすで、これは自分じぶんにも全くまったく思いおもい設けもうけなかった所謂「おまけの附録ふろく」でしたが、次第にしだいにその「附録ふろく」が、鮮明にせんめいに表面ひょうめんに浮きうき上ってのぼって来てきて、堀木にそれを指摘してきせられ、愕然とがくぜんとして、そうして、いやな気きが致しいたしました。はたから見てみて、俗なぞくな言いいい方かたをすれば、自分じぶんは、淫売婦ふに依ってよって女おんなの修行しゅぎょうをして、しかも、最近さいきんめっきり腕うでをあげ、女おんなの修行しゅぎょうは、淫売婦ふに依るよるのが一ばんひとばん厳しくきびしく、またそれだけに効果こうかのあがるものだそうで、既にすでに自分じぶんには、あの、「女おんな達者たっしゃ」という匂いにおいがつきまとい、女性じょせいは、（淫売婦ふに限らかぎらず）本能ほんのうに依ってよってそれを嗅ぎかぎ当てあて寄り添ってよりそって来るくる、そのような、卑猥で不名誉なふめいよな雰囲気ふんいきを、「おまけの附録ふろく」としてもらって、そうしてそのほうが、自分じぶんの休養きゅうようなどよりも、ひどく目立ってめだってしまっているらしいのでした。
堀木はそれを半分はんぶんはお世辞せじで言ったいったのでしょうが、しかし、自分じぶんにも、重苦しくおもくるしく思い当るおもいあたる事ことがあり、たとえば、喫茶きっさ店てんの女おんなから稚拙なちせつな手紙てがみをもらった覚えおぼえもあるし、桜木さくらぎ町ちょうの家いえの隣りとなりの将軍しょうぐんのはたちくらいの娘むすめが、毎朝まいあさ、自分じぶんの登校とうこうの時刻じこくには、用ようも無なさそうなのに、ご自分じぶんの家いえの門もんを薄化粧うすげしょうして出たりでたりはいったりしていたし、牛肉ぎゅうにくを食いくいに行くいくと、自分じぶんが黙ってだまっていても、そこの女おんな中ちゅうが、……また、いつも買いかいつけの煙草たばこ屋やの娘むすめから手渡さてわたされた煙草たばこの箱はこの中なかに、……また、歌舞伎かぶきを見みに行っていって隣りとなりの席せきのひとに、……また、深夜しんやの市電しでんで自分じぶんが酔ってよって眠ってねむっていて、……また、思いがけなくおもいがけなく故郷こきょうの親戚しんせきの娘むすめから、思いおもいつめたような手紙てがみが来て、……また、誰だれかわからぬ娘むすめが、自分じぶんの留守るす中ちゅうにお手製てせいらしい人形にんぎょうを、……自分じぶんが極度にきょくどに消極しょうきょく的なてきなので、いずれも、それっきりの話はなしで、ただ断片だんぺん、それ以上いじょうの進展しんてんは一いちつもありませんでしたが、何なにか女おんなに夢ゆめを見みさせる雰囲気ふんいきが、自分じぶんのどこかにつきまとっている事ことは、それは、のろけだの何なにだのといういい加減ないいかげんな冗談じょうだんでなく、否定ひていできないのでありました。自分じぶんは、それを堀木ごとき者しゃに指摘してきせられ、屈辱くつじょくに似たにた苦にがさを感ずるかんずると共にともに、淫売婦ふと遊ぶあそぶ事ことにも、にわかに興きょうが覚めさめました。
堀木は、また、その見栄坊みえぼうのモダニティから、（堀木の場合ばあい、それ以外いがいの理由りゆうは、自分じぶんには今もっていまもって考えかんがえられませんのですが）或るある日ひ、自分じぶんを共産きょうさん主義しゅぎの読書どくしょ会かいとかいう（Ｒ．Ｓしょうわとかいっていたか、記憶きおくがはっきり致しいたしません）そんな、秘密のひみつの研究けんきゅう会かいに連れてつれて行きいきました。堀木などという人物じんぶつにとっては、共産きょうさん主義しゅぎの秘密ひみつ会合かいごうも、れいの「東京とうきょう案内あんない」の一いちつくらいのものだったのかも知れしれません。自分じぶんは所謂「同志どうし」に紹介しょうかいせられ、パンフレットぱんふれっとを一部いちぶ買わかわされ、そうして上座かみざのひどい醜いみにくい顔かおの青年せいねんから、マルクス経済けいざい学がくの講義こうぎを受けうけました。しかし、自分じぶんには、それはわかり切ってきっている事ことのように思わおもわれました。それは、そうに違いないちがいないだろうけれども、人間にんげんの心こころには、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言っていっても、言いいいたりない、ヴァニティ、と言っていっても、言いいいたりない、色いろと慾、とこう二につ並べてならべても、言いいいたりない、何だかなんだか自分じぶんにもわからぬが、人間にんげんの世よの底そこに、経済けいざいだけでない、へんに怪談かいだんじみたものがあるような気きがして、その怪談かいだんにおびえ切ってきっている自分じぶんには、所謂唯物論ゆいぶつろんを、水みずの低きひくきに流れるながれるように自然しぜんに肯定こうていしながらも、しかし、それに依ってよって、人間にんげんに対するたいする恐怖きょうふから解放かいほうせられ、青葉あおばに向って眼めをひらき、希望きぼうのよろこびを感ずるかんずるなどという事ことは出来できないのでした。けれども、自分じぶんは、いちども欠席けっせきせずに、そのＲ．Ｓ（と言ったいったかと思いおもいますが、間違ってまちがっているかも知れしれません）なるものに出席しゅっせきし、「同志どうし」たちが、いやに一大事いちだいじの如くごとく、こわばった顔かおをして、一いちプラスぷらす一いちは二に、というような、ほとんど初等しょとうの算術さんじゅつめいた理論りろんの研究けんきゅうにふけっているのが滑稽にこっけいに見えてみえてたまらず、れいの自分じぶんのお道化どうけで、会合かいごうをくつろがせる事ことに努めつとめ、そのためか、次第にしだいに研究けんきゅう会かいの窮屈なきゅうくつな気配けはいもほぐれ、自分じぶんはその会合かいごうに無くてなくてかなわぬ人気者にんきものという形かたちにさえなって来たきたようでした。この、単純たんじゅんそうな人ひとたちは、自分じぶんの事ことを、やはりこの人ひとたちと同じおなじ様にように単純でたんじゅんで、そうして、楽天らくてん的なてきなおどけ者おどけものの「同志どうし」くらいに考えてかんがえていたかも知れしれませんが、もし、そうだったら、自分じぶんは、この人ひとたちを一いちから十じゅうまで、あざむいていたわけです。自分じぶんは、同志どうしでは無かったなかったんです。けれども、その会合かいごうに、いつも欠かさかかさず出席しゅっせきして、皆みんなにお道みち化かのサーヴィスをして来きました。
好きだったすきだったからなのです。自分じぶんには、その人ひとたちが、気にいってきにいっていたからなのです。しかし、それは必ずしもかならずしも、マルクスに依ってよって結ばむすばれた親愛しんあい感かんでは無かったなかったのです。
非合法ひごうほう。自分じぶんには、それが幽かに楽しかったたのしかったのです。むしろ、居心地いごこちがよかったのです。世の中よのなかの合法ごうほうというもののほうが、かえっておそろしく、（それには、底そこ知れしれず強いつよいものが予感よかんせられます）そのからくりが不可解でふかかいで、とてもその窓まどの無いない、底冷えそこびえのする部屋へやには坐ってすわっておられず、外がいは非合法のひごうほうの海うみであっても、それに飛びとび込んでこんで泳いでおよいで、やがて死にしに到るほうが、自分じぶんには、いっそ気楽きらくのようでした。
日蔭者しゃ、という言葉ことばがあります。人間にんげんの世よに於いておいて、みじめな、敗者はいしゃ、悪徳あくとく者しゃを指差してゆびさしていう言葉ことばのようですが、自分じぶんは、自分じぶんを生れたうまれた時ときからの日蔭者しゃ［＃「生れたうまれた時ときからの日蔭者しゃ」に傍点ぼうてん］のような気きがしていて、世間せけんから、あれは日蔭者しゃだと指差さゆびさされている程ほどのひとと逢うあうと、自分じぶんは、必ずかならず、優しいやさしい心こころになるのです。そうして、その自分じぶんの「優しいやさしい心こころ」は、自身じしんでうっとりするくらい優しいやさしい心こころでした。
また、犯人はんにん意識いしき、という言葉ことばもあります。自分じぶんは、この人間にんげんの世の中よのなかに於いておいて、一生いっしょうその意識いしきに苦しめくるしめられながらも、しかし、それは自分じぶんの糟糠の妻の如きごとき好こう伴侶はんりょで、そいつと二に人きりひときりで侘びわびしく遊びあそびたわむれているというのも、自分じぶんの生きていきている姿勢しせいの一いちつだったかも知れしれないし、また、俗にぞくに、脛すねに傷きず持つもつ身み、という言葉ことばもあるようですが、その傷きずは、自分じぶんの赤ん坊あかんぼうの時ときから、自然にしぜんに片方かたほうの脛すねにあらわれて、長ずるちょうずるに及んでおよんで治癒ちゆするどころか、いよいよ深くふかくなるばかりで、骨ほねにまで達したっし、夜々の痛苦つうくは千変万化せんぺんばんかの地獄じごくとは言いいいながら、しかし、（これは、たいへん奇妙なきみょうな言いいい方かたですけど）その傷きずは、次第にしだいに自分じぶんの血肉けつにくよりも［＃「血肉けつにくよりも」に傍点ぼうてん］親しくしたしくなり、その傷きずの痛みいたみは、すなわち傷きずの生きていきている感情かんじょう、または愛情あいじょうの囁きささやきのようにさえ思わおもわれる、そんな男おとこにとって、れいの地下ちか運動うんどうのグルウプの雰囲気ふんいきが、へんに安心であんしんで、居心地いごこちがよく、つまり、その運動うんどうの本来ほんらいの目的もくてきよりも、その運動うんどうの肌はだが、自分じぶんに合ったあった感じかんじなのでした。堀木の場合ばあいは、ただもう阿呆あほのひやかしで、いちど自分じぶんを紹介しょうかいしにその会合かいごうへ行ったいったきりで、マルキシストは、生産せいさん面めんの研究けんきゅうと同時にどうじに、消費しょうひ面めんの視察しさつも必要だひつようだなどと下手なへたな洒落しゃれを言っていって、その会合かいごうには寄りつかよりつかず、とかく自分じぶんを、その消費しょうひ面めんの視察しさつのほうにばかり誘いさそいたがるのでした。思えばおもえば、当時とうじは、さまざまの型かたのマルキシストがいたものです。堀木のように、虚栄きょえいのモダニティから、それを自称じしょうする者ものもあり、また自分じぶんのように、ただ非合法のひごうほうの匂いにおいが気にいってきにいって、そこに坐りすわり込んでこんでいる者ものもあり、もしもこれらの実体じったいが、マルキシズムの真しんの信奉しんぽう者しゃに見破らみやぶられたら、堀木も自分じぶんも、烈火の如くごとく怒らいかられ、卑劣なるひれつなる裏切者として、たちどころに追い払わおいはらわれた事ことでしょう。しかし、自分じぶんも、また、堀木でさえも、なかなか除名じょめいの処分しょぶんに遭わあわず、殊にことにも自分じぶんは、その非合法のひごうほうの世界せかいに於いておいては、合法ごうほうの紳士しんしたちの世界せかいに於けるおけるよりも、かえってのびのびと、所謂「健康けんこう」に振舞うふるまう事ことが出来できましたので、見込みみこみのある「同志どうし」として、噴き出しふきだしたくなるほど過度にかどに秘密ひみつめかした、さまざまの用事ようじをたのまれるほどになったのです。また、事実じじつ、自分じぶんは、そんな用事ようじをいちども断ったたったことは無くなく、平気でへいきでなんでも引受けひきうけ、へんにぎくしゃくして、犬いぬ（同どう志こころざしは、ポリスをそう呼んでよんでいました）にあやしまれ不審ふしん訊問じんもんなどを受けてうけてしくじるような事ことも無かったなかったし、笑いわらいながら、また、ひとを笑わわらわせながら、そのあぶない（その運動うんどうの連中れんちゅうは、一大事いちだいじの如くごとく緊張きんちょうし、探偵たんてい小説しょうせつの下手なしたてな真似まねみたいな事ことまでして、極度のきょくどの警戒けいかいを用いもちい、そうして自分じぶんにたのむ仕事しごとは、まことに、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、彼かれ等とうは、その用事ようじを、さかんに、あぶながって力んでりきんでいるのでした）と、彼かれ等とうの称するしょうする仕事しごとを、とにかく正確にせいかくにやってのけていました。自分じぶんのその当時とうじの気持きもちとしては、党員とういんになって捕えとらえられ、たとい終身しゅうしん、刑務所けいむしょで暮すくらすようになったとしても、平気だったへいきだったのです。世の中よのなかの人間にんげんの「実生みしょう活かつ」というものを恐怖きょうふしながら、毎夜まいよの不眠ふみんの地獄じごくで呻いてうめいているよりは、いっそ牢屋ろうやのほうが、楽らくかも知れしれないとさえ考えてかんがえていました。
父ちちは、桜木さくらぎ町ちょうの別荘べっそうでは、来客らいきゃくやら外出がいしゅつやら、同じおなじ家いえにいても、三さん日にちも四よん日にちも自分じぶんと顔かおを合せるあわせる事ことが無いないほどでしたが、しかし、どうにも、父ちちがけむったくけむたく、おそろしく、この家いえを出てでて、どこか下宿げしゅくでも、と考えかんがえながらもそれを言いいい出せだせずにいた矢先やさきに、父ちちがその家いえを売払ううりはらうつもりらしいという事ことを別荘べっそう番ばんの老爺から聞きききました。
父ちちの議員ぎいんの任期にんきもそろそろ満期まんきに近づきちかづき、いろいろ理由りゆうのあった事ことに違いちがいありませんが、もうこれきり選挙せんきょに出るでる意志いしも無いない様子ようすで、それに、故郷こきょうに一いち棟むね、隠居いんきょ所しょなど建てたりたてたりして、東京とうきょうに未練みれんも無いないらしく、たかが、高等こうとう学校がっこうの一いち生徒せいとに過ぎすぎない自分じぶんのために、邸宅ていたくと召使いめしつかいを提供ていきょうして置くおくのも、むだな事ことだとでも考えたかんがえたのか、（父ちちの心しんもまた、世間せけんの人ひとたちの気持ちきもちと同様にどうように、自分じぶんにはよくわかりません）とにかく、その家いえは、間も無くまもなく人手ひとでにわたり、自分じぶんは、本郷ほんごう森川町ちょうの仙遊館かんという古いふるい下宿げしゅくの、薄暗いうすぐらい部屋へやに引越ひっこしして、そうして、たちまち金かねに困りこまりました。
それまで、父ちちから月々つきづき、きまった額がくの小遣いこづかいを手渡さてわたされ、それはもう、二に、三さん日にちで無くなってなくなっても、しかし、煙草たばこも、酒さけも、チイズも、くだものも、いつでも家いえにあったし、本ほんや文房具ぶんぼうぐやその他そのた、服装ふくそうに関するかんするものなど一切いっさい、いつでも、近所きんじょの店みせから所謂「ツケつけ」で求めもとめられたし、堀木におそばか天丼てんどんなどをごちそうしても、父ちちのひいきの町まち内ないの店みせだったら、自分じぶんは黙ってだまってその店みせを出てでてもかまわなかったのでした。
それが急にきゅうに、下宿げしゅくのひとり住いすまいになり、何もかもなにもかも、月々つきづきの定額ていがくの送金そうきんで間に合わまにあわせなければならなくなって、自分じぶんは、まごつきました。送金そうきんは、やはり、二に、三さん日にちで消えてきえてしまい、自分じぶんは慄然とりつぜんとし、心細こころぼそさのために狂うくるうようになり、父ちち、兄あに、姉あねなどへ交互にこうごにお金かねを頼むたのむ電報でんぽうと、イサイフミの手紙てがみ（その手紙てがみに於いておいて訴えてうったえている事情じじょうは、ことごとく、お道化どうけの虚構きょこうでした。人ひとにものを頼むたのむのに、まず、その人ひとを笑わわらわせるのが上うえ策さくと考えてかんがえていたのです）を連発れんぱつする一方いっぽう、また、堀木に教えおしえられ、せっせと質屋しちやがよいをはじめ、それでも、いつもお金かねに不自由ふじゆうをしていました。
所詮しょせん、自分じぶんには、何のなんの縁故えんこも無いない下宿げしゅくに、ひとりで「生活せいかつ」して行くいく能力のうりょくが無かったなかったのです。自分じぶんは、下宿げしゅくのその部屋へやに、ひとりでじっとしているのが、おそろしく、いまにも誰だれかに襲わおそわれ、一撃いちげきせられるような気きがして来てきて、街まちに飛び出してとびだしては、れいの運動うんどうの手伝いてつだいをしたり、或いはあるいは堀木と一緒にいっしょに安いやすい酒さけを飲みのみ廻ったりまわったりして、ほとんど学業がくぎょうも、また画がの勉強べんきょうも放棄ほうきし、高等こうとう学校がっこうへ入学にゅうがくして、二に年ねん目めの十一月がつ、自分じぶんより年上としうえの有ゆう夫おっとの婦人ふじんと情死事件じけんなどを起しおこし、自分じぶんの身の上みのうえは、一変いっぺんしました。
学校がっこうは欠席けっせきするし、学科がっかの勉強べんきょうも、すこしもしなかったのに、それでも、妙にみょうに試験しけんの答案とうあんに要領ようりょうのいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷こきょうの肉親にくしんをあざむき通してとおして来たきたのですが、しかし、もうそろそろ、出席しゅっせき日数にっすうの不足ふそくなど、学校がっこうのほうから内密にないみつに故郷こきょうの父ちちへ報告ほうこくが行っておこなっているらしく、父ちちの代理だいりとして長兄ちょうけいが、いかめしい文章ぶんしょうの長いながい手紙てがみを、自分じぶんに寄こすよこすようになっていたのでした。けれども、それよりも、自分じぶんの直接のちょくせつの苦痛くつうは、金きんの無いない事ことと、それから、れいの運動うんどうの用事ようじが、とても遊び半分のあそびはんぶんの気持きもちでは出来できないくらい、はげしく、いそがしくなって来たきた事じでした。中央ちゅうおう地区ちくと言ったいったか、何なん地区ちくと言ったいったか、とにかく本郷ほんごう、小石川こいしかわ、下谷したや、神田かんだ、あの辺へんの学校がっこう全部ぜんぶの、マルクス学生がくせいの行動こうどう隊々長というものに、自分じぶんはなっていたのでした。武装ぶそう蜂起ほうき、と聞ききき、小さいちいさいナイフないふを買いかい（いま思えばおもえば、それは鉛筆えんぴつをけずるにも足りたりない、きゃしゃなナイフないふでした）それを、レンコオトのポケットぽけっとにいれ、あちこち飛びとび廻ってまわって、所謂「聯絡れんらく」をつけるのでした。お酒さけを飲んでのんで、ぐっすり眠りねむりたい、しかし、お金かねがありません。しかも、Ｐ（党とうの事ことを、そういう隠語いんごで呼んでよんでいたと記憶きおくしていますが、或いはあるいは、違ってちがっているかも知れしれません）のほうからは、次々つぎつぎと息いきをつくひまも無いないくらい、用事ようじの依頼いらいがまいります。自分じぶんの病弱のびょうじゃくのからだでは、とても勤まりつとまりそうも無くなりなくなりました。もともと、非合法のひごうほうの興味きょうみだけから、そのグルウプの手伝いてつだいをしていたのですし、こんなに、それこそ冗談じょうだんから駒こまが出たでたように、いやにいそがしくなって来るくると、自分じぶんは、ひそかにＰのひとたちに、それはお門ちがいおかどちがいでしょう、あなたたちの直系ちょっけいのものたちにやらせたらどうですか、というようないまいましい感かんを抱くいだくのを禁ずるきんずる事ことが出来できず、逃げにげました。逃げてにげて、さすがに、いい気持きもちはせず、死ぬしぬ事ことにしました。
その頃そのころ、自分じぶんに特別のとくべつの好意こういを寄せてよせている女おんなが、三さん人にんいました。ひとりは、自分じぶんの下宿げしゅくしている仙遊館かんの娘むすめでした。この娘むすめは、自分じぶんがれいの運動うんどうの手伝いてつだいでへとへとになって帰りかえり、ごはんも食べたべずに寝てねてしまってから、必ずかならず用箋と万年筆まんねんひつを持ってもって自分じぶんの部屋へやにやって来てきて、
「ごめんなさい。下したでは、妹いもうとや弟おとうとがうるさくて、ゆっくり手紙てがみも書けかけないのです」
と言っていって、何やらなにやら自分じぶんの机つくえに向って一いち時間じかん以上いじょうも書いてかいているのです。
自分じぶんもまた、知らん振りしらんふりをして寝てねておればいいのに、いかにもその娘むすめが何なにか自分じぶんに言っていってもらいたげの様子ようすなので、れいの受け身のうけみの奉仕ほうしの精神せいしんを発揮はっきして、実にじつに一言いちげんも口くちをききたくない気持きもちなのだけれども、くたくたに疲れつかれ切ってきっているからだに、ウムと気合いきあいをかけて腹這いはらばいになり、煙草たばこを吸いすい、
「女おんなから来たラヴらヴ．レターれたーで、風呂ふろをわかしてはいった男おとこがあるそうですよ」
「あら、いやだ。あなたでしょう？」
「ミルクみるくをわかして飲んだのんだ事ことはあるんです」
「光栄だこうえいだわ、飲んでのんでよ」
早くはやくこのひと、帰らかえらねえかなあ、手紙てがみだなんて、見えすいてみえすいているのに。へへののもへじでも書いてかいているのに違いないちがいないんです。
「見せてみせてよ」
と死んでしんでも見みたくない思いしいでそう言えばいえば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言っていって、そのうれしがる事じ、ひどくみっともなく、興きょうが覚めるさめるばかりなのです。そこで自分じぶんは、用事ようじでも言いつけていいつけてやれ、と思うおもうんです。
「すまないけどね、電車でんしゃ通りどおりの薬屋くすりやに行っていって、カルモチンを買ってかって来てきてくれない？　あんまり疲れつかれすぎて、顔かおがほてって、かえって眠れねむれないんだ。すまないね。お金かねは、……」
「いいわよ、お金かねなんか」
よろこんで立ちたちます。用ようを言いつけるいいつけるというのは、決してけっして女おんなをしょげさせる事ことではなく、かえって女おんなは、男おとこに用事ようじをたのまれると喜ぶよろこぶものだという事ことも、自分じぶんはちゃんと知ってしっているのでした。
もうひとりは、女子じょし高等こうとう師範しはんの文科もんか生なまの所ところ謂「同志どうし」でした。このひととは、れいの運動うんどうの用事ようじで、いやでも毎日まいにち、顔かおを合せあわせなければならなかったのです。打ち合せうちあわせがすんでからも、その女おんなは、いつまでも自分じぶんについて步いて、そうして、やたらに自分じぶんに、ものを買ってかってくれるのでした。
「私わたしを本当のほんとうの姉あねだと思っておもっていてくれていいわ」
そのキザに身震いみぶるいしながら、自分じぶんは、
「そのつもりでいるんです」
と、愁えうれえを含んだふくんだ微笑びしょうの表情ひょうじょうを作ってつくって答えこたえます。とにかく、怒らおこらせては、こわい、何とかなんとかして、ごまかさなければならぬ、という思いしい一いちつのために、自分じぶんはいよいよその醜いみにくい、いやな女おんなに奉仕ほうしをして、そうして、ものを買ってかってもらっては、（その買い物かいものは、実にじつに趣味しゅみの悪いわるい品ひんばかりで、自分じぶんはたいてい、すぐにそれを、焼きやきとり屋やの親爺などにやってしまいました）うれしそうな顔かおをして、冗談じょうだんを言っていっては笑わわらわせ、或るある夏なつの夜よる、どうしても離れはなれないので、街まちの暗いくらいところで、そのひとに帰ってかえってもらいたいばかりに、キスきすをしてやりましたら、あさましく狂乱きょうらんの如くごとく興奮こうふんし、自動車じどうしゃを呼んでよんで、そのひとたちの運動うんどうのために秘密にひみつに借りてかりてあるらしいビルびるの事務じむ所しょみたいな狭いせまい洋室ようしつに連れてつれて行きいき、朝あさまで大騒ぎおおさわぎという事ことになり、とんでもない姉あねだ、と自分じぶんはひそかに苦笑くしょうしました。
下宿げしゅく屋やの娘むすめと言いいい、またこの「同志どうし」と言いいい、どうしたって毎日まいにち、顔かおを合せあわせなければならぬ具合ぐあいになっていますので、これまでの、さまざまの女おんなのひとのように、うまく避けさけられず、つい、ずるずるに、れいの不安ふあんの心からこころから、この二に人にんのご機嫌ごきげんをただ懸命にけんめいに取りとり結びむすび、もはや自分じぶんは、金縛りかなしばり同様のどうようの形かたちになっていました。
同じおなじ頃ころまた自分じぶんは、銀座ぎんざの或るある大だいカフエの女給じょきゅうから、思いがけぬおもいがけぬ恩おんを受けうけ、たったいちど逢ったあっただけなのに、それでも、その恩おんにこだわり、やはり身動きみうごき出来できないほどの、心配しんぱいやら、空おそろしそらおそろしさを感じてかんじていたのでした。その頃そのころになると、自分じぶんも、敢えてあえて堀木の案内あんないに頼らたよらずとも、ひとりで電車でんしゃにも乗れるのれるし、また、歌舞伎かぶき座ざにも行けるいけるし、または、絣の着物きものを着てきて、カフエにだってはいれるくらいの、多少たしょうの図ず々しさを装えるよそおえるようになっていたのです。心こころでは、相そう変らかわらず、人間にんげんの自信じしんと暴力ぼうりょくとを怪しみあやしみ、恐れおそれ、悩みなやみながら、うわべだけは、少しずつすこしずつ、他人たにんと真顔まがおの挨拶あいさつ、いや、ちがう、自分じぶんはやはり敗北はいぼくのお道化どうけの苦しいくるしい笑いわらいを伴わともなわずには、挨拶あいさつできないたちなのですが、とにかく、無我むが夢中のむちゅうのへどもどの挨拶あいさつでも、どうやら出来るできるくらいの「伎倆」を、れいの運動うんどうで走りはしり廻ったまわったおかげ？　または、女おんなの？　または、酒さけ？　けれども、おもに金銭きんせんの不自由ふじゆうのおかげで修得しゅうとくしかけていたのです。どこにいても、おそろしく、かえって大だいカフエでたくさんの酔客または女給じょきゅう、ボーイぼーいたちにもまれ、まぎれ込むこむ事ことが出来たらできたら、自分じぶんのこの絶えずたえず追わおわれているような心こころも落ちつくおちつくのではなかろうか、と十じゅう円えん持ってもって、銀座ぎんざのその大おおカフエに、ひとりではいって、笑いわらいながら相手あいての女給じょきゅうに、
「十じゅう円えんしか無いないんだからね、そのつもりで」
と言いいいました。
「心配しんぱい要りいりません」
どこかに関西かんさいの訛りなまりがありました。そうして、その一言いちげんが、奇妙にきみょうに自分じぶんの、震えふるえおののいている心こころをしずめてくれました。いいえ、お金かねの心配しんぱいが要らいらなくなったからではありません、そのひとの傍そばにいる事ことに心配しんぱいが要らいらないような気きがしたのです。
自分じぶんは、お酒さけを飲みのみました。そのひとに安心あんしんしているので、かえってお道みち化かなど演じるえんじる気持きもちも起らおこらず、自分じぶんの地金じがねの無口でむくちで陰惨ないんさんなところを隠さかくさず見せてみせて、黙ってだまってお酒さけを飲みのみました。
「こんなの、おすきか？」
女おんなは、さまざまの料理りょうりを自分じぶんの前まえに並べならべました。自分じぶんは首くびを振りふりました。
「お酒さけだけか？　うちも飲もうのもう」
秋あきの、寒いさむい夜よるでした。自分じぶんは、ツネつね子し（といったと覚えておぼえていますが、記憶きおくが薄れうすれ、たしかではありません。情死の相手あいての名前なまえをさえ忘れてわすれているような自分じぶんなのです）に言いつけいいつけられたとおりに、銀座ぎんざ裏うらの、或るある屋台やたいのお鮨すしやで、少しもすこしもおいしくない鮨すしを食べたべながら、（そのひとの名前なまえは忘れてわすれても、その時ときの鮨すしのまずさだけは、どうした事かことか、はっきり記憶きおくに残ってのこっています。そうして、青大将あおだいしょうの顔かおに似たにた顔つきかおつきの、丸まる坊主ぼうずのおやじが、首くびを振りふり振りふり、いかにも上手じょうずみたいにごまかしながら鮨すしを握ってにぎっている様ようも、眼前がんぜんに見るみるように鮮明にせんめいに思い出さおもいだされ、後年こうねん、電車でんしゃなどで、はて見たみた顔かおだ、といろいろ考えかんがえ、なんだ、あの時ときの鮨すしやの親爺おやじに似てにているんだ、と気きが附き苦笑くしょうした事ことも再三さいさんあったほどでした。あのひとの名前なまえも、また、顔かたちかおかたちさえ記憶きおくから遠ざかってとおざかっている現在げんざいなお、あの鮨すしやの親爺の顔かおだけは絵えにかけるほど正確にせいかくに覚えておぼえているとは、よっぽどあの時ときの鮨すしがまずく、自分じぶんに寒さむさと苦痛くつうを与えたあたえたものと思わおもわれます。もともと、自分じぶんは、うまい鮨すしを食わくわせる店てんというところに、ひとに連れつれられて行っておこなって食ってくっても、うまいと思ったおもった事ことは、いちどもありませんでした。大きおおき過ぎるすぎるのです。親指おやゆびくらいの大きおおきさにキチッと握れにぎれないものかしら、といつも考えてかんがえていました）そのひとを、待ってまっていました。
本所の大工だいくさんの二に階かいを、そのひとが借りてかりていました。自分じぶんは、その二に階かいで、日頃ひごろの自分じぶんの陰かげ鬱うつな心こころを少しもすこしもかくさず、ひどい歯痛に襲わおそわれてでもいるように、片手かたてで頬ほおをおさえながら、お茶ちゃを飲みのみました。そうして、自分じぶんのそんな姿態したいが、かえって、そのひとには、気にいったきにいったようでした。そのひとも、身みのまわりに冷たいつめたい木枯しが吹いてふいて、落葉らくようだけが舞いまい狂いくるい、完全にかんぜんに孤立こりつしている感じかんじの女おんなでした。
一緒にいっしょにやすみながらそのひとは、自分じぶんより二につ年上としうえであること、故郷こきょうは広島ひろしま、あたしには主人しゅじんがあるのよ、広島ひろしまで床屋とこやさんをしていたの、昨年さくねんの春はる、一緒にいっしょに東京とうきょうへ家出いえでして逃げてにげて来たきたのだけれども、主人しゅじんは、東京とうきょうで、まともな仕事しごとをせずそのうちに詐欺さぎ罪ざいに問わとわれ、刑務所けいむしょにいるのよ、あたしは毎日まいにち、何やらなにやらかやら差し入れさしいれしに、刑務所けいむしょへかよっていたのだけれども、あすから、やめます、などと物語るものがたるのでしたが、自分じぶんは、どういうものか、女おんなの身の上みのうえ噺はなしというものには、少しもすこしも興味きょうみを持てもてないたちで、それは女おんなの語りかたり方かたの下手なへたなせいか、つまり、話はなしの重点じゅうてんの置きおき方かたを間違ってまちがっているせいなのか、とにかく、自分じぶんには、つねに、馬耳東風ばじとうふうなのでありました。
侘びわびしい。
自分じぶんには、女おんなの千万言げんの身の上みのうえ噺はなしよりも、その一言いちげんの呟きつぶやきのほうに、共感きょうかんをそそられるに違いないちがいないと期待きたいしていても、この世の中よのなかの女おんなから、ついにいちども自分じぶんは、その言葉ことばを聞いたきいた事ことがないのを、奇怪きかいとも不思議ふしぎとも感じてかんじております。けれども、そのひとは、言葉ことばで「侘びわびしい」とは言いいいませんでしたが、無言むごんのひどい侘びわびしさを、からだの外郭がいかくに、一いち寸すんくらいの幅はばの気流きりゅうみたいに持ってもっていて、そのひとに寄り添うよりそうと、こちらのからだもその気流きりゅうに包まつつまれ、自分じぶんの持ってもっている多少たしょうトゲトゲとげとげした陰かげ鬱うつの気流きりゅうと程よくほどよく溶けとけ合いあい、「水底すいていの岩がんに落ちおち附く枯葉かれは」のように、わが身わがみは、恐怖きょうふからも不安ふあんからも、離れるはなれる事ことが出来るできるのでした。
あの白痴はくちの淫売婦ふたちのふところの中なかで、安心あんしんしてぐっすり眠るねむる思いしいとは、また、全くまったく異って、（だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でしたようきでした）その詐欺さぎ罪ざいの犯人はんにんの妻つまと過かした一夜いちやは、自分じぶんにとって、幸福なこうふくな（こんな大それただいそれた言葉ことばを、なんの躊躇ちゅうちょも無くなく、肯定こうていして使用しようする事ことは、自分じぶんのこの全ぜん手記しゅきに於いておいて、再びふたたび無いないつもりです）解放かいほうせられた夜よるでした。
しかし、ただ一夜いちやでした。朝あさ、眼めが覚めてさめて、はね起きおき、自分じぶんはもとの軽薄なけいはくな、装えるよそおえるお道化どうけ者しゃになっていました。弱虫よわむしは、幸福こうふくをさえおそれるものです。綿めんで怪我けがをするんです。幸福にこうふくに傷つけきずつけられる事こともあるんです。傷つけきずつけられないうちに、早くはやく、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化どうけの煙幕えんまくを張りめぐらすはりめぐらすのでした。
「金きんの切れめきれめが縁えんの切れめきれめ、ってのはね、あれはね、解釈かいしゃくが逆なぎゃくなんだ。金かねが無くなるなくなると女おんなにふられるって意味いみ、じゃあ無いないんだ。男おとこに金かねが無くなるなくなると、男おとこは、ただおのずから意気いき銷沈して、ダメにだめになり、笑うわらう声こえにも力ちからが無くなく、そうして、妙にみょうにひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれにやぶれかぶれになり、男おとこのほうから女おんなを振るふる、半はん狂乱きょうらんになって振ってふって振ってふって振りふり抜くぬくという意味いみなんだね、金沢かなざわ大辞林という本ほんに依ればよればね、可哀そうにかわいそうに。僕ぼくにも、その気持きもちわかるがね」
たしか、そんなふうの馬鹿げたばかげた事ことを言っていって、ツネつね子しを噴き出さふきださせたような記憶きおくがあります。長ちょう居いは無用むよう、おそれありと、顔かおも洗わあらわずに素早くすばやく引上げたひきあげたのですが、その時ときの自分じぶんの、「金きんの切れめきれめが縁えんの切れめきれめ」という出鱈目でたらめの放言ほうげんが、のちに到って、意外のいがいのひっかかりを生じたしょうじたのです。
それから、ひとつき、自分じぶんは、その夜よるの恩人おんじんとは逢いあいませんでした。別れてわかれて、日ひが経つたつにつれて、よろこびは薄れうすれ、かりそめの恩おんを受けたうけた事ことがかえってそらおそろしく、自分勝手にじぶんかってにひどい束縛そくばくを感じてかんじて来てきて、あのカフエのお勘定かんじょうを、あの時とき、全部ぜんぶツネつね子しの負担ふたんにさせてしまったという俗事さえ、次第にしだいに気きになりはじめて、ツネつね子しもやはり、下宿げしゅくの娘むすめや、あの女子じょし高等こうとう師範しはんと同じくおなじく、自分じぶんを脅迫きょうはくするだけの女おんなのように思わおもわれ、遠くとおく離れてはなれていながらも、絶えずたえずツネつね子しにおびえていて、その上うえに自分じぶんは、一緒にいっしょに休んだやすんだ事ことのある女おんなに、また逢うあうと、その時ときにいきなり何なにか烈火の如くごとく怒らいかられそうな気きがしてたまらず、逢うあうのに頗るおっくうがる性質せいしつでしたので、いよいよ、銀座ぎんざは敬遠けいえんの形かたちでしたが、しかし、そのおっくうがるという性質せいしつは、決してけっして自分じぶんの狡猾こうかつさではなく、女性じょせいというものは、休んでやすんでからの事ことと、朝あさ、起きておきてからの事こととの間あいだに、一いちつの、塵ちりほどの、つながりをも持たもたせず、完全かんぜんの忘却ぼうきゃくの如くごとく、見事にみごとに二につの世界せかいを切断せつだんさせて生きていきているという不思議なふしぎな現象げんしょうを、まだよく呑みのみこんでいなかったからなのでした。
十一月がつの末すえ、自分じぶんは、堀木と神田しんでんの屋台やたいで安酒を飲みのみ、この悪友あくゆうは、その屋台やたいを出てでてからも、さらにどこかで飲もうのもうと主張しゅちょうし、もう自分じぶんたちにはお金かねが無いないのに、それでも、飲もうのもう、飲もうのもうよ、とねばるのです。その時とき、自分じぶんは、酔ってよって大胆にだいたんになっているからでもありましたが、
「よし、そんなら、夢ゆめの国くにに連れてつれて行くいく。おどろくな、酒池肉林という、……」
「カフエか？」
「そう」
「行こういこう！」
というような事ことになって二に人にん、市電しでんに乗りのり、堀木は、はしゃいで、
「おれは、今夜こんやは、女おんなに飢えうえ渇いてかわいているんだ。女給じょきゅうにキスきすしてもいいか」
自分じぶんは、堀木がそんな酔態を演じるえんじる事ことを、あまり好んでこのんでいないのでした。堀木も、それを知ってしっているので、自分じぶんにそんな念ねんを押すおすのでした。
「いいか。キスきすするぜ。おれの傍そばに坐ったすわった女給じょきゅうに、きっとキスきすして見せるみせる。いいか」
「かまわんだろう」
「ありがたい！　おれは女おんなに飢えうえ渇いてかわいているんだ」
銀座ぎんざ四よん丁目ちょうめで降りておりて、その所謂酒池肉林の大だいカフエに、ツネつね子しをたのみの綱たのみのつなとしてほとんど無一文でむいちもんではいり、あいているボックスぼっくすに堀木と向い合ってむかいあって腰こしをおろしたとたんに、ツネつね子しともう一いち人にんの女給じょきゅうが走りはしり寄ってよって来てきて、そのもう一いち人にんの女給じょきゅうが自分じぶんの傍そばに、そうしてツネつね子しは、堀木の傍そばに、ドサンと腰かけたこしかけたので、自分じぶんは、ハッとはっとしました。ツネつね子しは、いまにキスきすされる。
惜しいおしいという気持きもちではありませんでした。自分じぶんには、もともと所有しょゆう慾というものは薄くうすく、また、たまに幽かに惜しむおしむ気持きもちはあっても、その所有しょゆう権けんを敢然とかんぜんと主張しゅちょうし、人ひとと争うあらそうほどの気力きりょくが無いないのでした。のちに、自分じぶんは、自分じぶんの内縁ないえんの妻つまが犯さおかされるのを、黙ってだまって見てみていた事じさえあったほどなのです。
自分じぶんは、人間にんげんのいざこざに出来るできるだけ触りさわりたくないのでした。その渦うずに巻きまき込まこまれるのが、おそろしいのでした。ツネつね子しと自分じぶんとは、一夜いちやだけの間柄あいだがらです。ツネつね子しは、自分じぶんのものではありません。惜しいおしい、など思い上ったおもいあがった慾は、自分じぶんに持てるもてる筈はずはありません。けれども、自分じぶんは、ハッとはっとしました。
自分じぶんの眼めの前まえで、堀木の猛烈なもうれつなキスきすを受けるうける、そのツネつね子しの身の上みのうえを、ふびんに思ったおもったからでした。堀木によごされたツネつね子しは、自分じぶんとわかれなければならなくなるだろう、しかも自分じぶんにも、ツネつね子しを引き留めるひきとめる程ほどのポジティヴな熱ねつは無いない、ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネつね子しの不幸にふこうに一瞬いっしゅんハッとはっとしたものの、すぐに自分じぶんは水みずのように素直にすなおにあきらめ、堀木とツネつね子しの顔かおを見み較べ、にやにやと笑いわらいました。
しかし、事態じたいは、実にじつに思いがけなくおもいがけなく、もっと悪くわるく展開てんかいせられました。
「やめた！」
と堀木は、口くちをゆがめて言いいい、
「さすがのおれも、こんな貧乏びんぼうくさい女おんなには、……」
閉口へいこうし切ったしきったように、腕組みうでぐみしてツネつね子しをじろじろ眺めながめ、苦笑くしょうするのでした。
「お酒さけを。お金かねは無いない」
自分じぶんは、小声こごえでツネつね子しに言いいいました。それこそ、浴びるあびるほど飲んでのんでみたい気持きもちでした。所しょ謂俗物の眼めから見るみると、ツネつね子しは酔漢のキスきすにも価かいしない、ただ、みすぼらしい、貧乏びんぼうくさい女おんなだったのでした。案外あんがいとも、意外いがいとも、自分じぶんには霹靂へきれきに撃ちうちくだかれた思いしいでした。自分じぶんは、これまで例のれいの無かったなかったほど、いくらでも、いくらでも、お酒さけを飲みのみ、ぐらぐら酔ってよって、ツネつね子しと顔かおを見合せみあわせ、哀しくかなしく微笑びしょうみ合いみあい、いかにもそう言わいわれてみると、こいつはへんに疲れてつかれて貧乏びんぼうくさいだけの女おんなだな、と思うおもうと同時にどうじに、金きんの無いない者ものどうしの親和しんわ（貧富ひんぷの不和ふわは、陳腐ちんぷのようでも、やはりドラマどらまの永遠のえいえんのテーマてーまの一いちつだと自分じぶんは今ではいまでは思っておもっていますが）そいつが、その親和しんわ感かんが、胸むねに込み上げてこみあげて来てきて、ツネつね子しがいとしく、生れてうまれてこの時ときはじめて、われから積極せっきょく的にてきに、微弱びじゃくながら恋こいの心こころの動くうごくのを自覚じかくしました。吐きはきました。前後不覚ぜんごふかくになりました。お酒さけを飲んでのんで、こんなに我われを失ううしなうほど酔ったよったのも、その時ときがはじめてでした。
眼めが覚めたらさめたら、枕まくらもとにツネつね子しが坐ってすわっていました。本所ほんじょの大工だいくさんの二に階かいの部屋へやに寝てねていたのでした。
「金きんの切れめきれめが縁えんの切れめきれめ、なんておっしゃって、冗談じょうだんかと思うおもうていたら、本気ほんきか。来てくれないのだもの。ややこしい切れめきれめやな。うちが、かせいであげても、だめか」
「だめ」
それから、女おんなも休んでやすんで、夜よる明けがたあけがた、女おんなの口くちから「死し」という言葉ことばがはじめて出てでて、女おんなも人間にんげんとしての営みいとなみに疲れつかれ切ってきっていたようでしたし、また、自分じぶんも、世の中よのなかへの恐怖きょうふ、わずらわしさ、金かね、れいの運動うんどう、女おんな、学業がくぎょう、考えるかんがえると、とてもこの上このうえこらえて生きていきて行けいけそうもなく、そのひとの提案ていあんに気軽にきがるに同意どういしました。
けれども、その時ときにはまだ、実感じっかんとしての「死のうしのう」という覚悟かくごは、出来てできていなかったのです。どこかに「遊びあそび」がひそんでいました。
その日ひの午前ごぜん、二に人にんは浅草あさくさの六ろく区くをさまよっていました。喫茶きっさ店てんにはいり、牛乳ぎゅうにゅうを飲みのみました。
「あなた、払はらいうて置いておいて」
自分じぶんは立ってたって、袂たもとからがま口がまぐちを出しだし、ひらくと、銅銭が三さん枚まい、羞恥しゅうちよりも凄惨せいさんの思いしいに襲わおそわれ、たちまち脳裡に浮ぶうかぶものは、仙遊館かんの自分じぶんの部屋へや、制服せいふくと蒲団ふとんだけが残さのこされてあるきりで、あとはもう、質草になりそうなものの一いちつも無いない荒涼たるこうりょうたる部屋へや、他ほかには自分じぶんのいま着てきて步いている絣の着物きものと、マントまんと、これが自分じぶんの現実げんじつなのだ、生きていきて行けいけない、とはっきり思い知りおもいしりました。
自分じぶんがまごついているので、女おんなも立ってたって、自分じぶんのがま口がまぐちをのぞいて、
「あら、たったそれだけ？」
無心のむしんの声こえでしたが、これがまた、じんと骨身ほねみにこたえるほどに痛かったいたかったのです。はじめて自分じぶんが、恋したこいしたひとの声こえだけに、痛かったいたかったのです。それだけも、これだけもない、銅銭三さん枚まいは、どだいお金かねでありません。それは、自分じぶんが未だかつていまだかつて味わったあじわった事ことの無いない奇妙なきみょうな屈辱くつじょくでした。とても生きていきておられない屈辱くつじょくでした。所詮しょせんその頃そのころの自分じぶんは、まだお金持ちかねもちの坊ちゃんぼっちゃんという種たね属ぞくから脱しだっし切ってきっていなかったのでしょう。その時とき、自分じぶんは、みずからすすんでも死のうしのうと、実感じっかんとして［＃「実感じっかんとして」に傍点ぼうてん］決意けついしたのです。
その夜よる、自分じぶんたちは、鎌倉かまくらの海うみに飛びとび込みこみました。女おんなは、この帯おびはお店みせのお友達ともだちから借りてかりている帯おびやから、と言っていって、帯おびをほどき、畳んでたたんで岩がんの上うえに置きおき、自分じぶんもマントまんとを脱ぎぬぎ、同じおなじ所ところに置いておいて、一緒にいっしょに入水じゅすいしました。
女おんなのひとは、死にしにました。そうして、自分じぶんだけ助かりたすかりました。
自分じぶんが高等こうとう学校がっこうの生徒せいとではあり、また父ちちの名なにもいくらか、所謂ニュウス．ヴァリュがあったのか、新聞しんぶんにもかなり大きなおおきな問題もんだいとして取りとり上げあげられたようでした。
自分じぶんは海辺うみべの病院びょういんに収容しゅうようせられ、故郷こきょうから親戚しんせきの者ものがひとり駈けつけ、さまざまの始末しまつをしてくれて、そうして、くにの父ちちをはじめ一家いっか中ちゅうが激怒げきどしているから、これっきり生家せいかとは義絶ぎぜつになるかも知れしれぬ、と自分じぶんに申し渡してもうしわたして帰りかえりました。けれども自分じぶんは、そんな事ことより、死んだしんだツネつね子しが恋いこいしく、めそめそ泣いてないてばかりいました。本当にほんとうに、いままでのひとの中なかで、あの貧乏びんぼうくさいツネつね子しだけを、すきだったのですから。
下宿げしゅくの娘むすめから、短歌たんかを五十も書きつらねたかきつらねた長いながい手紙てがみが来ました。「生きいきくれよ」というへんな言葉ことばではじまる短歌たんかばかり、五十でした。また、自分じぶんの病室びょうしつに、看護かんご婦ふたちが陽気にようきに笑いわらいながら遊びあそびに来て、自分じぶんの手てをきゅっと握ってにぎって帰るかえる看護かんご婦ふもいました。
自分じぶんの左肺に故障こしょうのあるのを、その病院びょういんで発見はっけんせられ、これがたいへん自分じぶんに好都合なこうつごうな事ことになり、やがて自分じぶんが自殺じさつ幇助ほうじょ罪つみという罪名ざいめいで病院びょういんから警察けいさつに連れてつれて行かいかれましたが、警察けいさつでは、自分じぶんを病人びょうにんあつかいにしてくれて、特にとくに保護ほご室しつに収容しゅうようしました。
深夜しんや、保護ほご室しつの隣りとなりの宿直しゅくちょく室しつで、寝ずの番ねずのばんをしていた年寄りとしよりのお巡りめぐりが、間あいだのドアどあをそっとあけ、
「おい！」
と自分じぶんに声こえをかけ、
「寒いさむいだろう。こっちへ来て、あたれ」
と言いいいました。
自分じぶんは、わざとしおしおと宿直しゅくちょく室しつにはいって行きいき、椅子いすに腰かけてこしかけて火鉢ひばちにあたりました。
「やはり、死んだしんだ女おんなが恋いこいしいだろう」
「はい」
ことさらに、消えきえ入るはいるような細いほそい声こえで返事へんじしました。
「そこが、やはり人情にんじょうというものだ」
彼かれは次第にしだいに、大きくおおきく構えてかまえて来きました。
「はじめ、女おんなと関係かんけいを結んだむすんだのは、どこだ」
ほとんど裁判さいばん官かんの如くごとく、もったいぶって尋ねるたずねるのでした。彼かれは、自分じぶんを子供こどもとあなどり、秋あきの夜よるのつれづれに、あたかも彼かれ自身じしんが取調べとりしらべの主任しゅにんでもあるかのように装いよそおい、自分じぶんから猥談わいだんめいた述懐じゅっかいを引き出そうひきだそうという魂胆こんたんのようでした。自分じぶんは素早くすばやくそれを察しさっし、噴き出しふきだしたいのを怺えるこらえるのに骨ほねを折りおりました。そんなお巡りめぐりの「非公式なひこうしきな訊問じんもん」には、いっさい答こたえを拒否きょひしてもかまわないのだという事ことは、自分じぶんも知ってしっていましたが、しかし、秋あきの夜よるながに興きょうを添えるそえるため、自分じぶんは、あくまでも神妙にしんみょうに、そのお巡りめぐりこそ取調べとりしらべの主任しゅにんであって、刑罰けいばつの軽重けいちょうの決定けっていもそのお巡りめぐりの思召しおぼしめし一いちつに在るあるのだ、という事ことを固くかたく信じてしんじて疑わうたがわないような所謂誠意せいいをおもてにあらわし、彼かれの助平すけべいの好奇心こうきしんを、やや満足まんぞくさせる程度ていどのいい加減ないいかげんな「陳述ちんじゅつ」をするのでした。
「うん、それでだいたいわかった。何でもなんでも正直にしょうじきに答えるこたえると、わしらのほうでも、そこは手心てごころを加えるくわえる」
「ありがとうございます。よろしくお願いねがいいたします」
ほとんど入神にゅうしんの演技えんぎでした。そうして、自分じぶんのためには、何もなにも、一いちつも、とくにならない力ちから演えんじなのです。
夜よるが明けてあけて、自分じぶんは署長しょちょうに呼びよび出さだされました。こんどは、本式ほんしきの取調べとりしらべなのです。
ドアどあをあけて、署長しょちょう室しつにはいったとたんに、
「おう、いい男おとこだ。これあ、お前おまえが悪いわるいんじゃない。こんな、いい男おとこに産んだうんだお前おまえのおふくろが悪いわるいんだ」
色いろの浅黒いあさぐろい、大学だいがく出でみたいな感じかんじのまだ若いわかい署長しょちょうでした。いきなりそう言わいわれて自分じぶんは、自分じぶんの顔かおの半面はんめんにべったり赤あか痣あざでもあるような、みにくい不ふ具ぐ者しゃのような、みじめな気きがしました。
この柔道じゅうどうか剣道けんどうの選手せんしゅのような署長しょちょうの取調べとりしらべは、実にじつにあっさりしていて、あの深夜しんやの老ろう巡査じゅんさのひそかな、執拗しつようきわまる好こう色いろの「取調べとりしらべ」とは、雲泥うんでいの差さがありました。訊問じんもんがすんで、署長しょちょうは、検事けんじ局きょくに送るおくる書類しょるいをしたためながら、
「からだを丈夫にじょうぶにしなけれゃ、いかんね。血痰が出てでているようじゃないか」
と言いいいました。
その朝ちょう、へんに咳せきが出てでて、自分じぶんは咳せきの出るでるたびに、ハンケチで口くちを覆っておおっていたのですが、そのハンケチに赤いあかい霰あられが降ったふったみたいに血ちがついていたのです。けれども、それは、喉のどから出たでた血ちではなく、昨夜さくや、耳みみの下したに出来たできた小さいちいさいおできをいじって、そのおできから出たでた血ちなのでした。しかし、自分じぶんは、それを言いいい明めいさないほうが、便宜べんぎな事こともあるような気きがふっとしたものですから、ただ、
「はい」
と、伏眼になり、殊勝しゅしょうげに答えてこたえて置きおきました。
署長しょちょうは書類しょるいを書きかき終えておえて、
「起訴きそになるかどうか、それは検事けんじ殿どのがきめることだが、お前おまえの身元みもと引受ひきうけ人じんに、電報でんぽうか電話でんわで、きょう横浜よこはまの検事けんじ局きょくに来てもらうように、たのんだほうがいいな。誰だれか、あるだろう、お前おまえの保護ほご者しゃとか保証人ほしょうにんとかいうものが」
父ちちの東京とうきょうの別荘べっそうに出入りでいりしていた書画しょが骨董こっとう商しょうの渋田という、自分じぶんたちと同どう郷人ごうじんで、父ちちのたいこ持ちもちみたいな役やくも勤めてつとめていたずんぐりした独身どくしんの四十男おとこが、自分じぶんの学校がっこうの保証人ほしょうにんになっているのを、自分じぶんは思い出しおもいだしました。その男おとこの顔かおが、殊にことに眼めつきが、ヒラメひらめに似てにているというので、父ちちはいつもその男おとこをヒラメひらめと呼びよび、自分じぶんも、そう呼びよびなれていました。
自分じぶんは警察けいさつの電話でんわ帳ちょうを借りてかりて、ヒラメひらめの家いえの電話でんわ番号ばんごうを捜しさがし、見つかったみつかったので、ヒラメひらめに電話でんわして、横浜よこはまの検事けんじ局きょくに来てくれるように頼みたのみましたら、ヒラメひらめは人ひとが変ったかわったみたいな威張ったいばった口調くちょうで、それでも、とにかく引受けてひきうけてくれました。
「おい、その電話でんわ機き、すぐ消毒しょうどくしたほうがいいぜ。何せなにせ、血痰が出てでているんだから」
自分じぶんが、また保護ほご室しつに引き上げてひきあげてから、お巡りめぐりたちにそう言いつけていいつけている署長しょちょうの大きなおおきな声こえが、保護ほご室しつに坐ってすわっている自分じぶんの耳みみにまで、とどきました。
お昼ひるすぎ、自分じぶんは、細いほそい麻繩で胴どうを縛らしばられ、それはマントまんとで隠すかくすことを許さゆるされましたが、その麻繩の端はしを若いわかいお巡りめぐりが、しっかり握ってにぎっていて、二に人にん一緒にいっしょに電車でんしゃで横浜よこはまに向いました。
けれども、自分じぶんには少しすこしの不安ふあんも無くなく、あの警察けいさつの保護ほご室しつも、老ろう巡査じゅんさもなつかしく、嗚呼、自分じぶんはどうしてこうなのでしょう、罪人ざいにんとして縛らしばられると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ちついておちついて、その時ときの追憶ついおくを、いま書くかくに当ってあたっても、本当にほんとうにのびのびした楽しいたのしい気持きもちになるのです。
しかし、その時期じきのなつかしい［＃「なつかしい」に傍点ぼうてん］思い出おもいでの中なかにも、たった一いちつ、冷汗あせ三さん斗との、生涯しょうがいわすれられぬ悲惨なひさんなしくじりがあったのです。自分じぶんは、検事けんじ局きょくの薄暗いうすぐらい一室いっしつで、検事けんじの簡単なかんたんな取調べとりしらべを受けうけました。検事けんじは四十歳さい前後ぜんごの物静かなものしずかな、（もし自分じぶんが美貌びぼうだったとしても、それは謂わばいわば邪淫の美貌びぼうだったに違いちがいありませんが、その検事けんじの顔かおは、正しいただしい美貌びぼう、とでも言いいいたいような、聡明なそうめいな静謐の気配けはいを持ってもっていました）コセコセこせこせしない人柄ひとがらのようでしたので、自分じぶんも全くまったく警戒けいかいせず、ぼんやり陳述ちんじゅつしていたのですが、突然とつぜん、れいの咳せきが出てでて来てきて、自分じぶんは袂たもとからハンケチを出しだし、ふとその血ちを見てみて、この咳せきもまた何なにかの役やくに立つたつかも知れしれぬとあさましい駈駈け引きひきの心こころを起しおこし、ゴホン、ゴホンと二につばかり、おまけの贋にせの咳せきを大袈裟におおげさに附け加えてくわえて、ハンケチで口くちを覆ったおおったまま検事けんじの顔かおをちらと見たみた、間一髪かんいっぱつ、
「ほんとうかい？」
ものしずかな微笑びしょうでした。冷汗あせ三さん斗と、いいえ、いま思い出しておもいだしても、きりきり舞いきりきりまいをしたくなります。中学ちゅうがく時代じだいに、あの馬鹿ばかげの竹たけ一いちから、ワザわざ、ワザわざ、と言わいわれて脊中を突かつつかれ、地獄じごくに蹴落さけおとされた、その時ときの思いしい以上いじょうと言っていっても、決してけっして過言かごんでは無いない気持きもちです。あれと、これと、二につ、自分じぶんの生涯しょうがいに於けるおける演技えんぎの大だい失敗しっぱいの記録きろくです。検事けんじのあんな物静かなものしずかな侮蔑ぶべつに遭うあうよりは、いっそ自分じぶんは十じゅう年ねんの刑けいを言いいい渡さわたされたほうが、ましだったと思うおもう事ことさえ、時たまときたまある程ほどなのです。
自分じぶんは起訴きそ猶予ゆうよになりました。けれども一向にいっこうにうれしくなく、世にもよにもみじめな気持きもちで、検事けんじ局きょくの控室ひかえしつのベンチべんちに腰かけこしかけ、引取りひきとり人じんのヒラメひらめが来るのを待ってまっていました。
背後はいごの高いたかい窓まどから夕焼けゆうやけの空そらが見えみえ、鴎かもめが、「女おんな」という字じみたいな形かたちで飛んでとんでいました。
［＃改頁］